安らかな死の薬

 エアコンと加湿器の音だけが聞こえる狭いアパートの玄関で、意を決して私はドアノブを回した。

 吹き込んでくる風は冷たく、乾燥している。思わず瞑った目を開けると目の前に等身大のクマのぬいぐるみが自立していた。「ばあ!」そう言ってクマは一歩後ずさり、驚く私から目を離さずに落下していった。アパートの廊下は塀がなく、地面まで遮るものは何もなかった。

 白鳥の大群が空を埋め尽くすように飛び、町には車の代わりに巨大な猫がとぐろをまいている。ぶにゅぶにゅと形を留めない階段を下りると、急に足元のアスファルトが崩れて地面の下に墓地が現れた。

 ここに下りていいのだろうか?ためらって立ち止まっていると、大きな二輪に乗った女性が猫の間をぬってすぐ横に止まった。女性はヘルメットのまま穴へ下りていった。

 私も後を追おうとしたが、その前に背後のアパートが急に流体化してなだれ込んで来て、私も猫も全てを飲み込んで押し流してしまった。

「運命の人には会えましたか?」

 医者は、初日と変わらない笑顔で聞く。

「いえ、顔は見えませんでした…だんだん時間が短くなっている気がするんですが」

 私は手元の赤い錠剤を見つめて言った。初めてこれを飲んだ時は、あの世界で1日は過ごしていたはずだ。

 安楽死が合法化して30年ほど経った今、世間にはある一説が広まっていた。

 誰もがこの世に生れ落ちるときに、別の一つの魂と同時に産み落とされる。その「運命の人」に出会える人もいれば、別れ別れのまま死を迎える人もいる。ただ、死ぬ前に巡り合うことができれば、どんな死に方であれ「最上の死」を迎えられるという。

 そんな中発見されたこの革命的な「赤い薬」は、運命の人を教えてくれるというのだ。TVや広告ではやっていないが、専門家の中で知らない人はいないという。そして、実際に使用した人たちは、元々決めていた安楽死の予定日までにこの薬で必ず運命の人を見つけ、最上の死を二人で迎えているのだ。私にここを紹介してくれた知人も、先日例に漏れず最上の死を迎えたと聞いた。

「もう今日で7日目ですが、今日は話しかけることすらできませんでしたよ。それに、起きている時も頭の中に膜がかかったような…ずっと眠たいような感覚なんです。もう私の安楽死予定日まであと1日しかないのに、こんなことで見つけられるでしょうか」

 指でコロコロと薬を転がしていると、医者は手をそえて制止した。

「むしろ良い兆候ですよ。薬による時間が短くなっているのは、現実世界との統合へと向かっているんです」

 いつも夢の終わりにある、あの押し流されてすべてが混濁していく感覚を思い出した。

「先日最上の死を迎えられた高木さんも、同じことをおっしゃっていました」

 医者が目線を移した先では、中庭に集まる数名の男女が親しげに話している。今朝入会した人たちだろう。年齢も見た目もばらばらだが、全員共通して安楽死を決めているからか、ふしぎと彼らの間に壁はない。

 今日も入会者が絶えないこの施設には、自由に出入りできる中庭があり、入会初日はまずそこへ案内される。そこは、入会者同士で運命の人を探す場にもなっている。

「…先生は、運命の人に出会えたのですか?」

「いいえ。まだ探していません」

 私が赤い錠剤を指し、「最上の死を求めていないのですか?」と聞くと、先生は驚いたように目を見張り、「まさか」と体を揺らして笑った。

「まさか。求めていますよ」

 しばらく笑い切った後、医者は私の手ごと赤い錠剤を包みこみ、続けた。

「でもまだ、私には皆さんを導く使命がありますから」

 笑顔の医者に促され、錠剤を飲み下す。いつものように強い眠気に襲われながら、最後のまばたきで見た医者はもう笑っていなかった。

「大丈夫。今回で最後ですよ」

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