愛の悲しみアナリーゼ

 船は港を離れ、速度を増して進みはじめた。岸が遠くなり、海の上を滑らかに進んでいく。明日はギリシャのカタコロン、その翌日はボスポラス海峡を通り、イスタンブールに寄港する予定だ。秋穗が目的地に選んだのも、ボスポラス海峡からの眺めに惹かれたからだ。 

 舞台でバイオリンとピアノの演奏がはじまった。それは、ふたりにとって小さな奇跡だったにちがいない。ずっと口をきかなかったふたりが、はっと顔を見合わせた。

「あれだね」と椋介が言うと、「うん」と秋穗がうなずいた。

 クライスラーの「美しきロスマリン」。

 忘れるはずがない、陽気なメロディ。なぜなら、結婚式にふたりの共通の友人たちが演奏してくれた思い出の曲なのだから。演奏の前に「ロスマリンとはお花の名ですが、秋穗さんのように可愛らしい女性を意味します」と説明も加えてくれて、恥ずかしいけれど嬉しかったこと。子どもの頃からずっと習っていたその友人の演奏は見事で、伴奏のピアノとの息もぴったりだったこと。感動のあまり、秋穗はポロポロ涙をこぼし、椋介の目は潤んでいたことも、鮮やかに甦る。

 次も同じクライスラー、「愛の喜び」の生き生きとした弾むような明るい曲に変わった。

 結婚式で演奏してくれた友人のプレゼントしてくれたCDに、クライスラーの小品がいくつかあった。結婚してしばらくは本当によく聴いていたものだ。 子どもが生まれて、それからはふたりでゆっくり音楽に耳を傾ける時間は、だんだん少なくなってCDも奥にしまい込んで忘れていた。

 懐かしい、名曲たち。演奏に聴き入るふたりの表情は、微笑みに変わっていた。久しぶりに生で耳に届くバイオリンとピアノは、こころを沸き立たせた。 

 椋介は、ウエイターを呼んで飲み物を注文した。 

「愛の喜び」と対の曲となって演奏されることの多い、「愛の悲しみ」の憂いのあるバイオリンが響きはじめた。これもやはり、同じCDで数え切れないぐらい聴いた曲である。

 クライスラーの生演奏に、新婚当初のお互いまだ若かった日々がよみがえる。


 隣席から、日本語が聴こえてきた。チラリ目をやると、日本人の年配の、おそらく夫婦であろうカップルが座っていた。妻と思しきでっぷりした女性が言う。

「冒頭はね、タイトルの通り悲しい響きではじまっているけど、長調に転調するのがね、なぜって思わない?」

 その相手の男性、おそらく夫は、うなづく。

「そして、また短調に戻って、変奏じゃないわよね、私にはただの繰り返しに聴こえるわ。それに、愛の悲しみっていうには、なんだかね、軽い感じがするのよね」

 彼は、またうなづいて言った。

「そうだ、確かに。あまり深刻な悲しみじゃないんだよ。……これ、きっと痴話喧嘩だな」

 夫は、細い腕で白髪交じりの髪をかき上げた。

「え? まさか、だってこんな上品な曲なのに?」

 妻は半分笑いながら、しかし不思議そうに言う。

「そうそう。ほら、また長調だよ、これで仲直り。これも二回目のメロディなのに、変奏って感じがしないね」

 長い年月一緒に過ごしてきたらしい空気が漂う会話に、椋介と秋穗は微笑まずにはいられなかった。 

 隣の席の会話は続く。

「そうかなあ、でもそうか、なるほどねー。クライスラーは痴話喧嘩を曲にしたのね、短調は喧嘩、長調で仲直り。悲しみのなかにある喜びは、ささやかでも蜜みたいなもの」

「で、また繰り返す。発展も、新しい展開もなしに」

「ということは、また同じようなことで喧嘩しているのかしら」

「うん。性格だね。人間なんてそうそう変わるもんじゃない。わかっていて喧嘩になるやつは大丈夫。口に出さないだけで、思い合っているんだろう」

「人間って変わらないってこと」

「そうだよ。それでいいんだ、きっと。ほらほら、こっちの弟夫婦にしたって、おまえのところの兄夫婦だって同じことだろう?」

「いつも同じことをやったり言ったりしてそれじゃ物足りないから、ときには喧嘩だってするさ。まあ、レクレーションみたいなもんだ」

 年配の夫婦は何か思い出したのか、さも可笑しそうにクスクス笑いはじめた。

 今さっき険悪なムードになっていた椋介と秋穗は、苦笑するしかなかった。


 ウエイターが、椋介の注文したシャンペンの入ったグラスをふたつ持ってきた。椋介は、ひとつを秋穗に勧め、自分もグラスを持って言った。

「結婚二十周年に乾杯。あのドレス、船長のパーティに着ればいいからな。さっきのことは気にするな」

 これが彼の精一杯なのだ。他人が聞いたら、これが謝罪だとはだれも思わないだろう。秋穗は夫のやや照れくさそうな顔を見て、胸がいっぱいになった。一呼吸おいて、妻は言った。

「乾杯、あなた。これからもよろしくね」

 旅は始まったばかり。気まずいひとときも含めて、思い出に残る旅となるに違いない。

 舞台はクライスラーの小品が終わり、次は男性と女性ふたりずつのカルテットによる、耳慣れない曲がはじまったところ。ウェルカムコンサートは、まだ続くようである。


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愛の喜びの悲しみ 沓屋南実(クツヤナミ) @namikutsuya

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