邪教の聖者
飛鳥一歩
飢える雪
プロローグ
雪が降りしきる朝だった。
東北地方の、峻険な山々を蛇行する一本の国道。
朝とはいえ、まるで陽の光を拒むが如く分厚い曇天の空と、東から射す旭日をその巨大な手のひらで覆い隠す様にそびえ立つ山々のおかげで、その道一帯は妙に薄暗く、また妙に陰気な空気が漂っていた。
そこからほど近い山中の…少し開けた場所にその男はいた。
氷点下の気温の中、穴だらけの…ボロ雑巾のような、辛うじて布だとわかる物をたった一枚だけ身に纏い、足にはこれまたボロボロの…すでに原形を失ったサンダルのような物を履いた『みすぼらしい』という表現が、あまりに上品に感じてしまうほどの身なりをした男だった。
頭をツルりと剃り上げ、異様な気迫を持つ異形の男であったが、その顔をよく見れば見るほど、思いの外若く、そして驚くほど端正な顔立ちだった。
…久我寛仁こがひろひと。故あって諸国を遍歴する…現存するどの宗派にも属していない、無認可の修行僧…いわゆる私度僧である。
彼が如何なる理由で悪路の中、いくつもの山峠を越え、この様な人里離れた場所に佇んでいるのかは定かではないが、その眼光鋭く見つめる先にはもう1人の男がいた。
古来より旅は一期一会であると言われてはきたが、斯様な空模様の中、斯様な僻地であっても、久我よりも先に霜雪にその足跡を残していた、先客が居たのである。
年の瀬は30代後半から40代前半の、見るからに憔悴してやせ衰えた男だった。
薄汚れた建設現場用の作業着を身に着け、確実に数日間は手入れをしていないであろう、少しだけ生えた無精髭と、頭皮の欠片が襟首に、この山道のように『積雪』している…そんな男が、鼻息荒く一心不乱に降り積もる雪を掻き分けていた。
狂気を多分に含んだ眼差しで、凍傷のため、手の先は青黒く変色し、指先からは赤い鮮血が滴っていたが、そんなことは意にも介さず、ただひたすらに白い雪を桜色に染め上げながら、柔らかな氷の結晶を掘り続けていた。
そんな、明らかに常軌を逸した男の行動に久我はなんら動揺もせず、何処から取り出したのか紙パックに入った安い日本酒をちゅーちゅーと飲みながら
「随分と精が出るな」
その奇妙な先客に皮肉交じりの挨拶を交わした。
すると作業着の男は振り向きもせずより一層、狂気の掘削を続けながら、興奮した口調でまくし立てた。「おめぇだれだ!…いやお前が誰だろうが、…人間以外の者だろうがこの際どうでもいい!ただ手伝ってくれ!この下に…あいつがいるかも知れないんだ!」
支離滅裂なその男の言動にも久我は一切動じなかった。それは彼のどこまでも深く、珍妙な業障による数奇な人生のおかげで、この手の輩をうんざりするほど見てきたからである。
そして久我は知っていた。彼らには孔子の倫理もルソーの道徳も、そしてアダムスミスの紙でできた神すら通用しない。
必要なのは、無感情な同調であると。
「ほぅ…そのあいつとやらを探して雪の中を掘ってるのか。だがなぁ…俺もここで昔の約束を果たさなきゃいかなくてな…悪いがあんたに付き合ってるヒマは無さそうだ」
久我がいかにも興味無さげに断ると、男は始めて血走った目をこちらに向けた。
怒りと落胆に満ちた顔で久我を睨みつけるその顔は…最早、人と言うよりは血肉を纏い、揺れ動く死霊のようであった。…彼はやや早口で切な気にこう言った。
「…ならせめて聞き届けてはくれないか!?私が死んでしまっても、この下に居るはずのあいつや、この私がこんな馬鹿げたことをする羽目になった事の顛末を!!」
久我は俄かに口角を上に向け「あぁ、約束の刻限までの僅かな時間だが、酒のつまみ代わりに…それは面白そうだ」と彼の提案を肯定した。
すると、男は少しだけ表情を和らげ、また物凄い早さで雪を掘り続けながら、少し間を置き、自分の心に辛うじて残っていた、わずかな正気を必死でよび戻しながら、ぽつりぽつりと語り始めた…。
1
都心から高速道路を走り続けること数時間…気がつけば窓ガラスは結露滴り、ひんやり冷たい空気が漂ってきた。
長い幾つかのトンネルを過ぎ、近くのPAで休憩を取る時にはもう、辺りの空気は一変していた。
陰気な湿気と白い息…そして太陽を反射して金色に輝く冬の支配者、雪。
正しく玄冬の山路…そんな風景だった。
駐車場の脇に積み上げられた、その白い肌はまるで…艶めかしくも威圧的に鎮座する偶像の様に、私を見下していた。
その金色の後光は、都に残してきた私の全てを照らし出す様で…あぁ…私は…頭が痛い…急に気分が悪くなった。
よろよろとトイレに這い入ると、絞り出す様に用を足し、洗面台で真冬の寒気で凍結寸前まで冷やされた水道水をバシャバシャと顔に何度も振りかけた。
ついでに買った缶コーヒーで凍えた指先を慰めている頃にはもう…頭の中は以前にも増して冴え渡り、気持ち新たにカーナビの、毒々しいまでに色鮮やかな五色の線を辿りながら、今回の目的地までのルートを再確認していた。
このまま山路を走ること約2時間、山間の地方都市。
そこのビジネスホテルでまずは一泊した後…日の上らぬうちにそこからさらに北に40キロほど行った果ての港…そこが私の目的地であった。
「急がねば…」
私は独りそう呟いた。
迅速さ!…今は何よりもそれを優先すべきであった。もたもたなどしてられない!今は人生の中で、文字通り刻一刻を争うトキなのだから!
私は外の寒さで、すっかりヌルくなった缶コーヒーを一気に飲み干すと、サイドブレーキを解き放ち、再び、凍てついた路面へとその舵を切った。
2
街頭が無くなり、行き交う車もまばらになった。
高速道路を抜け、地方の山間を絡みつく様に蛇行する一車線の国道に辿り着いたのだ。
いつしか日はすっかり西の山間に隠れてしまい、星ひとつない曇天の暗闇が、辺りを支配していた。
恐らく…このヘッドライトを消せば、都会では味わうことの出来ない、本当の漆黒に出会えるはずだろう。…と、私は遊び心と共にアクセルを弾ませ、願わくば私と、私を取り巻く全てが闇に包まれ、もう二度と陽の目を見ずに、暗い暗い闇の中でこの一生が終わってくれればと、そんな後ろ向きな期待を胸にしまいこんだまま、車はさらに速度を上げていった。
響き渡る絶叫のようなエンジン音…そして、スピーカーから流れる在り来たりなラジオ番組…そんなモノトーンな日常の音が、非日常的な闇夜の真ん中で、まるで自分自身の存在や生活を、自分自身で忘れてしまわない様に、私を取り巻くこの空間に響き渡っていた。
ラジオから流れる何処かの芸人の笑い声は、常に楽しげで…もはやそれが無機質で、酷く冷たいものに感じられた。
「チッ…!」
私は思わず舌打ちしながらラジオの周波数を変えようと思った。
その矢先…
ザーーーーー!
不愉快なノイズが豪雨のようにこだました。
…一瞬、どきりとしたが、周囲は山々が監獄の壁のようにそそり立つ雪国の国道。電波が遮られるのはむしろ当たり前だ。
私は辛うじてでも聞こえるチャンネルを探し、車載のボタンをいじくってみたが、AM、FM共に全滅だった。
私はふと、必死で周波数を合わせる自分が可笑しくなった。
…ついていた時はあんなにも忌々しく思っていた笑い声が、無くなるとやはり寂しいものだ。
…ただのつまらない、大人のわがままだった。
私は自嘲しながら、せめてこの耳触りなノイズをどうにかしようと、ラジオの電源をオフにした。
3
!?
…どうしたんだ!?…電源が切れないぞ!?それに…ボリュームも変わらない?
私は慌てながら、ガチャガチャとスイッチを弄ってみても、電源はおろかノイズはより一層大きな音を出して私の鼓膜を嬲っていた。
たまらずハザードを灯して、路肩に車を止め、パニックになりながらもエンジンを一度落としてしまおうと思った矢先、砂嵐のノイズ音が急に途切れ途切れになり始めた…
いや…待て…途切れたんじゃない!?何か…聞こえる?
…それはノイズの合間にかすかに聞こえる…消え入りそうな、しかし甲高く、妙に耳障りな…声…らしきものであった。
一瞬、ラジオの故障が直ったのか?…などと、妙に希望的な考えが浮かんだが、私のこの手の震え…いや、全身から伝わるこの悪寒は、何か…途轍もなく悪い事態になるであろうことを、身体中の神経を使って警告していた。
ザーッザーッ………ザーッザーッ……ザーッザーッ…さ…ザーッザーッ…さい…ザーッザーッ…なさい…ザーッザーッ
おかえりなさい
「う…うわぁぁぁぁ!」
聞こえてしまった。
確かにそう聞こえてしまった!!
どの様な…どんな人物の『声』とも形容しがたい、無機質で、それでいてとてつもない負の感情を背負いこんでいるような、そんな『音』であった。
私は半狂乱になりながら、アクセルを下手ぶみした。
そんな私とは正反対に…いや、私を冷笑する様にラジオは元の落ち着きを取り戻し、いつも通りの平和な笑い声でスピーカーを震わせていた。
とにかく逃げよう!人のいる…町まで!
正気を失ったように急発進した車はぐんぐん速度を上げ、やがて法定速度を超えてしまいそうになるころ…バックミラーをふと確認すると…あぁ…これは本当に現実なのであろうか!
「…あ、あれはっ!」
そう叫んだ矢先、恐怖のあまりハンドルの些細な操作を誤ってしまった。
車はスリップして、ガードレールに突っ込んでしまった。
…こめかみに、どぅんと鈍い痛みが走ったが、幸い怪我は無かった。だがもはや、そんなことはどうでもよかった!
…私は見てしまったからだ。
バックミラーに映る、小さな影を!
その影はじっとこちらを、禍々しい眼光で見つめるように少し立ち止まり、そしてすぐに道路の外に広がる真っ白な暗闇に消えていった。
4
「あれは…」
いや、違う!ラジオの故障で気が動転していただけだ!…私は慣れない山間の寒空で、精魂疲れ果てている!だからこそ変なものを見た気になってしまった。…ただそれだけだ!
私は何度もそう言い聞かせ、ヘッドライトの左側が潰れ、歪に変形した車のギアを入れた。
だがこの隻眼の鉄馬は、何度試みても先ほどの様に嘶き叫ばず、ただただ深雪の夜道で苦しそうな喘鳴をあげるだけであった。
「しまった…」
私は先ほどの恐怖も薄れ、それと同時に強烈な焦燥感に震えた。
…震えは、辺りの寒気を私の眼前に引き連れてきた。
刺す様な寒さと、顔の皮膚を剥がされそうになるほどの北風…文字通り厳冬の山路で路頭に迷ってしまっていた。
私は震えながらしばし頭を抱えた後、おもむろにポケットの中から、型落ちのスマートフォンを取り出し、少し思案してからその電源を入れた。
今ではこの小さな黒い端末に光る、液晶画面だけが私と外界を繋ぐ唯一の『窓』だった。
助手席に広げた、ケチな保険会社が慇懃無礼に送りつけてきた事故対応のマニュアルのページをめくり、番号を押そうと…クソッだめだ!
…画面の左端に表示されていたのは、すっかり都会暮らしが長かった私には久々に見る『圏外』の二文字だった。
私はどうすればいいのか分からなくなった。
外界と一切を遮断された、この厳しい寒さの中、凍えながら助けを待つべきか?だが、この田舎道…先ほどから他の車の音すら聞こえない。恐らく日暮れ以降の交通量はほとんどゼロに等しいのだろう。
…だが、ここで一夜を明かすのは…私の脳裏にあの不可解な影が浮かんだ。あれは…いやまさか…
はっと身震いをしながら、嫌な妄想に耽っていると…何かが光った気がした!
雪化粧の斜面の奥からぼんやりと…間違いない!
あそこに誰か居るに違いない!
私はこの孤独な冷凍庫から兎に角抜け出したい一心で車のドアを開け放ち、白癬のように霜が張り付く路面に足を踏み出した。
5
やはり路面に立つと北風の冷たさに晒され、1秒毎に自分の体温が下がっていくのが感じられた。
目指すは遥か山の奥…さらに照明と呼べるものは、スマートフォンの僅かな明かりだけだった。
私はそんな絶望的な状況を改めて再認識すると、先ほどの決心が早くも揺らいでしまった…
…本当にあの明かりの下に人が居るのであろうか?
…ここで助けを待っていた方が賢明では無いだろうか?
だが、深々と私を閉じ込める玄い冷気は、私の足を震えながらも動かしていた。…まるで何かから逃げ出すように。
雪中の行軍。昔からナポレオンやドイツ陸軍を始め、どんな強者も24時間、間断なく襲いかかる冬将軍の軍勢の前にはなす術もなく、正に、兵つわものどもが夢の跡に散っていった。
しかも…今はたった独りの孤立無縁状態。早いとこ誰かに助けを呼んでもらわないと、私もそうなってしまうかもしれない。
そんな絶えず頭の中から浮かび上がる不安感とも戦いながら、私はひたすら斜面を登っていた。
ザクッザクッ!
一歩踏み出す毎に足下の雪は深く入り込み、針山の如く私の足を痛めつけていた。
私は息も絶え絶えに、壊れた人形のように一歩また一歩と、足を動かしていると…
ザクッザクッ…ヒタッ
ザクッザクッ…ヒタヒタ
!!!!!!
何かが…後ろに…居る?
冬の寒さ…とは明らかに異質なねっとりとした冷たさが辺りを包みはじめ、同時に背後の暗闇で強烈な気配がした。
私は戦慄しながらも歩調を次第に早めていくと…
ザッザッ…ヒタヒタヒタヒタッ
背後の音も同じように早くなり、やがて複数の足音が聞こえてきた。
肉薄する明確な邪念。それはすぐ背後から…いや、黒い緞帳のあちらこちらに…鉄格子のように並立する針葉樹の隙間から、斜面の土と雪が作り出すなだらかな窪みの陰から…私を…見ている?
私は今ほど、この夜の闇が恐ろしく、だが同時に…この分厚い垂れ幕を引き剥がしてしまったら?その何者かは白日の下に、私は真っ直ぐにそれらと向き合わなければならない!だからこそ、視界を覆う黒い女神の存在が、ほんの少しだけありがたかった。
だが…もはや疑いようもなく、『それら』は私の後をつけながら、まるで血に飢えた群狼の如くジリジリと私を取り囲んでいった。
ぷぅんと…新雪の木々の香りに混じって生臭いにおいが漂ってきた。
それはまるでこの山そのもの…もといそこに生ける全ての生命を汚辱していくように、その異臭は広がり、濃くなり、強烈な腐敗臭へと変わった。
それは、私を取り巻く彼らの狂った八卦陣が完成しつつある何よりの証明であった。
「うぐっ…がはっ…」
凍りつく恐怖と鼻を曲げる臭いに思わず胃酸がこみ上げ、思わず白紙の地面に黄土色の染みを作ってしまった。
ザワザワザワ…すると風もないのに木々が揺れ、暗闇に目を光らせる何者かはその足を止め…漆黒の空の下でもはっきりと伝わるよこしまな笑みを浮かべた。
フフフ…
ククッ…あはははははっ!
あははははははははははははっ!
…とうとう神罰の断頭台が私の直ぐ近くまで運ばれてきた気がした…
今までの緊張した均衡を破るが如く、耳を覆いたくなるような、無数の笑い声が聞こえてきた。その狂気の大合唱は、山全体を覆い尽くし、もはや三半規管がまともに機能できないほどの不協和音を奏でていた。
私は何も出来ずに、雪の中で文字どおり凍りつき…わなわなと震えていると…あぁ…ついに…足首に冷たい圧迫感と、そこから伝わる底なしの怨嗟を感じた。
…!!!
ついに…何かが…足元に…!!
そして見てしまった。
見てしまったのだ!
暗闇からそっと伸びる…無数の…痩せ細り、雪と見まごうほどの白い小さな手を!!
爪が剥げ…そこから止め処なく血と膿を滴らせた…子供くらいの…何本もの小さな手を!あぁ助けてくれっ!助けてくれ!
私はもはや全てがどうでも良かった!
ただ一刻も早くここから立ち去らねば!
わたしは狂乱しながら上へ上へと走り出した。
ひたすらに!この場を離れなければ!
やがて笑い声や呻き声が遠のくにつれて、前方が明るくなってきた。
…あの明かりだ!誰か居るんだ。
息があがり、体力も限界に達した頃、私の視界に暖かな光と、古い建物が見えてきた。
6
恐る恐る近づいて行くと、開けた台地が広がっていた。その台地の奥には三角形の切り妻屋根が、光に照らされうっすらと見えていた。
それと同時に道路から見えた灯りの正体が分かってきた。…石灯篭だ!
それが百足のように、くねくねと蛇行しながらその台地のいたるところ、縦横無尽に並列されていた。その橙色の光は、闇夜を優しく照らし、下方に敷き詰められた雪の中に溶けていくように混ざり合い、乱反射を繰り返し、雪の結晶の一つ一つが、小さな蛍にでもなったかのように、淡く輝いていた。
私はその穏やかで神秘的な光の魔法の虜となり、何もかも忘れてただ、その恍惚に酔いしれていた。
しばらく灯篭に魅入っていると、その柱に何かの違和感を感じた。何か…彫ってある?
…いや、元来、灯篭というのは装飾のための彫刻や、奉納者の名前を刻むものであり、それ自体はなんらおかしなものでは無いのであるが…無数の灯篭の全てに、竿…もとい柱の部分いっぱいに人の形が彫ってあった。剃髪した僧形で手に錫杖と宝珠を持ち、慈悲と寂静を表すその顔は、寺院でなくとも町中でよく見かける馴染み深いものだった。…地蔵菩薩である。
「…これじゃ灯篭と言うよりは、燭台を乗せた仏像だな」
私はつい率直な感想を独りつぶやいてしまった。
本当にそう思ったのである。
その仏像…いや、石灯籠の背面には、個々に人の名前が彫ってあった。
『施餓鬼会供養…昭和七年…何某』
恐らくは、施餓鬼会の折にこれを奉納した檀家の名前だろう。
しかし、先ほどからの違和感はこの文字の方から発せられていた。
「昭和7年。昭和…7年。…こっちも昭和7年だ。」
やはり見回った限り、年号は全て同じであった。
皆で一斉に建立したとも考えられるが…あるいは?…私は無い頭をひっくり返しながら、とぼとぼと切り妻屋根の見える方へと足を進めた。
すると一つ…やたらと新しい、小さな石灯籠があった。黒ツヤ映える御影石で作られたその灯篭は、他とは明らかに年代が異なる代物だった。
「こいつは随分と新しいな。どれどれ…年代は?…」
『施餓鬼会供養…平成二十八年…!』
「!!!…いや、そんなはずは無い!あいつは…違う!」私は再び狂乱した。
何故ならそこに記されていた名前は、私が最も忌み嫌うあの名前が記されていたからだ。
思わず目を避けて、手足をばたつかせながら、恐る恐る再びその灯篭に目を…無い!?無くなってる!?…はははっ…ああそうか、先ほどの体験で身心ともに疲れ果てている私は嫌な幻覚を見たに違いない。むしろ先刻までの恐怖もゆめまぼろしであったのだろう。
私は、本日何度目かになる…震える自分に幾たびもそう言い聞かせた。
動揺する心中を必死で抑えながら、知らず知らずのうちに私の足は切り妻屋根の屋敷の前に来ていた。
「おぉぉ…これは…」
感嘆の声しか出なかった。そのぐらい圧巻だった。
そこには、3世帯全ての家族が暮らしてもまだ余りあるほどの、巨大な合掌造りの家屋があった。
急勾配の茅葺屋根には幾度かの積雪が分厚い漆喰のように余すとこなく塗りたくられ、切り妻屋根の貝殻から、ヤドカリのように杉板の間口がそっと顔を出していた。
願わくば私も『宿借り』になりたいものだ。
そんな淡い期待を抱きながら、中の様子を伺い見ると、戸口の隙間からは薄っすらと光が漏れている…やはり誰かいるのだろうか?
私は恐る恐るノックしてみたが…反応が無かった。
そっと引き戸に手をかけると、鍵はかかっていないらしく、中から…これぞしばらく待ち望んでいた、暖かな空気が私を歓迎し出迎えてくれた!
私は半ば脊髄反射でドアを開け放ち、抜き足差し足しながらこの家の敷居を跨いだ。
7
一歩中に入っただけで、私の身体は見る見るうちに癒された。
土気色の顔は瞬く間に血色を取り戻し、硬く強張った四肢の末端はとろけるように解け、その急激な温度差により、嬉しい痺れをもたらした。
私は、さしずめ高級旅館の名湯にでも浸かっている様な妙に浮かれた気分になりながら、その家屋を改めて見回した。
今にも崩れそうな土壁と、豪雪地帯ならではの湿気で少し腐食した梁と柱をもつ、古い日本家屋であった。
「今どき、こんなのが残っているとはなぁ…」
私は何ともなしにそんなことを呟いた。
今や失われつつある、かの柳田國男が謳い誘う世界のような、古き良き農村の家屋…そんな姿がここにはあった。
私がいる土間は雪解け水が玄く潤下し、にちゃにちゃと嫌な音を立てながら、びちゃびちゃの靴に絡みついていた。
川辺の小石を積み上げた様な、見るからに手作りの竃には…火がともっている。
それがごおごおとこの郷愁と静寂が支配する室内に染み入る様に響き渡っていた。
そんな荒ぶる竈神にせっつかれて、大きな土鍋から、日々の実りを賛美する様に白い湯気が舞い踊っていた。その白い踊り子はふわふわ漂い、私の鼻腔をそっと撫でると…あぁ何とも…魚や野菜の煮込まれた…何とも美味そうな匂いが漂ってきた。
私は東京を出てから…結局のところ一杯のコーヒーしか口にしていないことを思い出した。
記憶は感覚を呼び覚ます。凍りつき、石の様に萎縮していた私の胃袋は、空腹に唸りを上げ、反射的に湧き出した胃酸は胃壁をちりちりと痛め始めた。
「…どちら様でしょうか?」
!!!染みだらけの間仕切り戸の向こう側から、か細い声がした!
それにより、歓喜と緊張が私の心を掴み取り、張り巡らされた神経は異常なまでの反復放電を始めた。
自分でも自覚出来るほどの、険しく異様な表情をしながら、その襖を睨みつけていると、やがてそこからさらなる光が溢れ出し、まだあどけなさの残る整った顔立ちの少女が、白い花模様の着物をたなびかせながら、困惑した表情でこちらを見つめていた。
私は…動けなかった。その艶やかに伸びた黒髪と、対比するように透き通るような白い肌を持つその女性に、不覚にも我を忘れて魅入ってしまったからだ。
すると彼女は、ますます警戒の色を深め、吸い込まれそうなその瞳を僅かに細めながら「あの…」白い吐息に乗せて短く呟いた。
その明らかに不審の念のこもった一言に、私はハッと立ち返り、やっとのことで蠱惑的な金縛りから解放された。
だが、状況はあまり芳しくは無かった。
今のところ、私はまぎれもない不法な侵入者であり、不審な無頼漢であったからだ。
先ほどからの寒暖差と、先ほどまでとは趣の異なる緊張感で、私の唇はわなわなと震え、思うように声が出なかったが、何とか車の事故で立ち往生している事を伝え、最悪と言っても過言ではない第一印象を必死で弁解した。
すると少女の顔から険しい表情が無くなり、「それはそれは…大変でしたね」と私に労いの言葉をかけてくれた。
私はいささかバツが悪い状況のため、伏せていた目を今一度彼女の方に向けた。
…薄明かりに照らされ、僅かに紅潮しながら僅かに微笑むその姿はまるで…妖精パックの奸計にはまり、正に私のような卑しい職工のもとに姿を現した、夏の夜の女王のように優美で輝かしく、その前に佇む私の影をより一層際立たせた。
まるで本当に自分の頭が驢馬か何かにでもなってしまったような面持ちで、再び目を伏せ背中を丸めている私を、彼女はどう感じたかは分からないが、「とりあえず、外は寒いですから、中に入って暖まって下さい。」と言いながら、襖戸を開け放ち、私を部屋の中へと案内してくれた。
8
内部は広い板の間の座敷だった。
年季の入った大梁と心柱が、この家の過ごしてきた悠久の時間を物語っていた。
中央に見える囲炉裏には赤々と墨が燃え上り、パチパチと小君良い音を奏でながら、この部屋に春の陽気をもたらし、レトロな白熱球が薄く照らす幻想的な雰囲気の中、半ば夢見心地で促されるまま、囲炉裏の側の座布団にどっかり腰を下ろした。
供された熱い茶をゆっくりと胃袋に流し込みながら、私はこれからのことを考えていた。…少なくとも夜が明けるまでは国道に戻りたくは無かった。
だとすると、この家の厄介になることになる…私は改めて囲炉裏の向こうに品良く座る彼女を見た。その艶かしい唇で小さく茶をすする姿は…いかん!今はそれどころじゃないんだ!とにかく一泊するにしてもしないにしても、車をあのままにはしていられない。とりあえず保険会社なりに連絡しなければ…私はこちらに丸い目を向け微笑む彼女にいささか赤面しながら感謝の意を述べ、ついでに厚かましくも電話を貸して貰おうと頼み込んだ。
すると彼女は少し困った顔をして語った。
「すみません。…この雪で電話線がやられてしまったみたいで…しばらくは使えそうに無いんです」
…参った。そんなオチがあったとは。
しかも復旧の目処が未定とは…私はもはや立派な費用逓減産業となり、日々の生活に必要不可欠なライフラインとして不動の地位を手に入れたにもかかわらず、大手企業による非競争的な独占状態で国民の生活を全く省みず、傲慢さと怠慢さを露骨に示す電話会社に心底腹がたった。
「本当に申し訳ありません。」
私の感情が読み取られてしまったのか、彼女は本当にすまなさそうな顔をした。…そんな顔をされては何だか私が申し訳無く思い、「いやいや、大丈夫ですよ。国道まで戻って何とかしてみます」
私が苦し紛れにそう言うと、彼女の顔から一切の笑みが消えた。いや、笑顔だけではなく、全ての感情が消え去ったような、昏い瞳を宿しながら
「いえ、外には出ない方が良いかもしれないです。…今夜は特に騒がしいですから。」
!!!!!
騒がしい!?…まさか…雪道でのことを知っているのか?…いや、違う!あれは幻覚だったはずだ。
私は再び、わなわなと震え始め、額からはたらりと冷や汗を垂らした。
聞き間違いかもしれない。そう思いたかった。だからこそ、私はやっとの思いで声帯をふるわせ、絞り出すように「さ…騒がしい…とは一体?」
消え入りそうな小さな声で尋ねてみたが、答えは返っては来なかった。だが、無言でこちらを見つめるこの美しい女性を、私はとても恐ろしく感じた。
…沈黙そして静寂。広い座敷の中、炭火の音だけが響き渡り、そこから発する暖気もこの緊張感の下、凍てつき冷たくなっていった。…私はその異様な雰囲気に根負けしてしまい、目を伏せ「いや、何でも無い。」…心にも無い敗北宣言をしてしまった。
すると彼女はまるで何事も無かったかのように、先ほどまでの優しい笑顔を取り戻し、再び口を開いた。
「…今夜は吹雪きますから、外に出るのは賢明ではありません。」
…あぁなるほど。騒がしいとはそういうことか。
私は無理矢理にでも納得して安心したかった。…だが、彼女のあの冷たい表情は一体何だったのだろう?…私は心中に湧き上がる些細な疑念を押し殺そうとしていると、彼女はそれを知ってか知らずかこう続けた。
「もしよろしければ、今夜は泊まって行かれませんか?…明日の朝には小降りになると思いますので」
…通信が遮断され、雪吹きすさぶ陸の孤島に閉じ込められた私には、元より他に選択肢が無いのだが…良いのか!?こんな見ず知らずの男を一つ屋根の下に!!…こんな…こんな魅力的な娘が…私が混乱し赤面していると、彼女がこう付け加えてくれた。
「今夜は特別な日で、親戚の方々がうちに集まってるんですよ。今はあまり声はしませんが、2階にいらしてて、これから多分、宴会が始まると思うので…うるさくてご迷惑にならなければですが…」
…あぁなるほど。私は先程から先走って変な勘ぐりをしてばかりな気がする。師も走り出す歳の瀬、一族郎等揃っての宴会があってもおかしくはないが…実を言えば少しばかりその勘ぐりを期待していなかったわけでは…いや違う。私は再び涌いた下劣な考えを振り払うように彼女にとりとめのない質問をした。
「特別な日…ですか。親族の方のお誕生日か何かですか?」
すると彼女は少し間を置いてにっこり笑い
「お施餓鬼ですよ」
そう一言呟いた。
9
お施餓鬼…もとい施餓鬼会とはその昔、釈迦如来の高弟阿難尊者が、餓鬼(六道の一つ、餓鬼界に堕ちた、常に飢えに苦しんでいる亡者)に出会い、3日以内にお前も餓鬼になるだろうと不吉な予言をされた。驚いた尊者が釈迦如来に相談すると、飲食を施し供養すれば助かると言われ、結果、餓鬼も阿難尊者も救われたと言う伝説を元に執りおこなう仏教行事である。
私はそんな何処ぞのメディアの受け売りを思い出し、外にあった石灯籠に刻まれた文字を思い浮かべた。『昭和7年、施餓鬼会供養』
「だから石灯籠に火が灯っていたのか」
「えぇ、そうなんです。普通はお盆の季節が多いのですが、この地方は今日、明日で執りおこなうんですよ。明日の朝にはお坊様も来ていただく手はずになっております」
土間の方から彼女の声がした。私が施餓鬼会のウンチクを思い出している間に移動したようだった。程なくして戸が開き彼女の姿が現れると同時に芳しい香りが漂ってきた。
「大したものはありませんが、どうぞ」
細い体に不釣り合いな土鍋を持って私の前に置き、その蓋を取り除いた。
瞬間、白い湯気が天に昇る竜のように飛び出すと、香りは一層強くなり、私の五感を心地よく揺さぶった。鍋に盛られていたのは、グツグツと良い音を立てて泡だつ、白身魚と根菜をたっぷり使った雑炊だった。
私は「熱いので気をつけて食べて下さい」と言う彼女の言葉も聞こえないぐらい無我夢中でかきこんだ。…美味い!魚介と根菜の出汁が程よく出ていて、絶品と呼んでも差し支え無いほどであった。
お供にと差し出された熱燗を飲み干す頃にはもう、飢えもすっかり満たされ芯から温まっていた。我ながら一気に牛飲馬食する様は…まるで食を供される餓鬼のようだなと、すっかり上機嫌の私はそんなユーモアに心を遊ばせていた。
「しかし何から何まで本当に申し訳ない。2階にいる家の方々にも是非感謝したいです。」
私は改めて彼女と彼女の一族に深く感謝し、そう告げると、彼女はまた目を細めながら「いえいえ、構わないですよ。それにウチの皆さんも皆好き勝手やってるみたいですから」
確かに、さっきまでの静寂とは打って変わり、太い梁の上は俄かに活気が出ているようであった。
一瞬、やはり挨拶がてら顔を出してみようかと思ったが、昼間からの疲れと、美食美酒にすっかり酔いが回りだんだんと瞼が重くなってきていた。
そんな私の様子を見て彼女は優しく「そろそろお休みになられますか?でいの方にお布団を敷いておきましたので」
そう言って私を奥座敷に案内してくれると、立派な床の間を持つ、6畳ほどの和室にはふかふかの布団が敷いてあった。
…本当に何から何まで!私は少し、事故にあいここに来て良かったとさえ思ってしまった。
私は彼女に深々と頭を下げると、少し困った顔をしながら「いえ、困った時はお互い様です…どんな時にもそれが一番大事なことだと思うんです」
そう言ってお休みなさいと部屋を出て行く彼女の顔は、酔いと眠気のせいか、何だかとても悲しそうに見えた。
10
夢を見ていた。
まるでミレーの描く田園風景のような、牧歌的で美しい農村の中で…荘子が言うところの理想的な…農民たちが何やら話し込んでいる…そんな夢だった。
彼らの表情は絵画のような風景とは対照的に痩せ細り、何処までも昏く澱んだ目をしていた。
「そっちはどうだ?」
「いや、まるっきり…やませのおかげで全滅だ」
「天子様が代わって数年…物価もどんどん高くなる一方だしな」
「お前!そんな言い方ねぇだろう!天子様は関係ねぇ…この国だけじゃなく今や世界中がおかしくなってるんだよ!」
「どうであろうと知ったことか!…これじゃあ商売どころじゃない。自分の食う飯すら…もう殆ど…」
見れば畑の作物は皆枯れ果て、その土には実りの季節に不釣り合いな霜ばしらが一面に張り付いていた。
冷害か…気の毒なことだ。
「父ちゃん」
彼らが頭を抱えていると後方から声がした。
見るからに衰弱した子供がヨロヨロと近づき彼らのうちの一人に抱きついた。
「まんまが食べたい」
目に涙を溜めて、震えながらもそう懇願する子供に、父親と思しき男は目を真っ赤にしながら、その小さな手を振りほどくと「うるせぇ!俺だってもう何日も水しか口にしてねぇんだ!…飯が欲しかったらお前も働くんだ!お前なんかより、駄馬でいいから一頭欲しいもんだ!」
…飢えと貧困は人々の心を荒み曇らせるものだ。私はその光景を見ていると、急に吐き気を催した。…目の前の哀しい出来事のせいではない。分かっていた。自分が逃げ出した現実が、自分が固く閉じた記憶が、胃液と共にこみ上げてきたからだ。
するとその子供は泣きじゃくりながら今一度、「おとうさん」…!?
今の声は…先ほどまでの、この子供の声ではない!?…この忌々しい鳴き声は…
すると件の子供はゆっくりとこちらに振り向いた。…その顔は!!!
「うわぁぁぁ!」
さけび声と共に目をさますと、私は見慣れぬ和室に横たわっていた。
あぁ…ここは彼女の家の客間だったっけか。
それよりも、嫌な夢を見た。…夢の中でも私をさいなめるとは!
それにしても気分が悪かった。調子に乗って飲み過ぎたせいか、強い吐き気と渇きを覚えた。
水が欲しい…。バッテリーの切れかかったスマートフォンを見ると、時刻は午前2時を回っていた。
…こんな時間、誰も起きてはいないだろう。
私は仕方なく身の不快感を押し殺して再び床につこうかと思ったが、ガタガタと天井が揺れているのに気がついた。耳を澄ませると、静まり返った闇の中、かすかに笑い声が聞こえていた。
「…全く、こんな時間まで飲んだくれてるのか…『うるさくてご迷惑にならなければ』か。」
私は少し呆れ気味にそう呟くと同時に、2階へ行けば飲み水ぐらい手に入るであろう。それに、やはり一礼ぐらいはしておかなければと思い、重い身体を揺り動かし、客間を出た。
再び足を踏み入れた座敷は、数時間前とは打って変わり、漆黒の闇とひんやりした空気に包まれて、なんとも薄気味悪い場所に思えた。
電気のスイッチを探したが、生憎見つからず私は諦めてスマートフォンのライトを灯し、歩みを進めていくと、床のきしみがギシリギシリと打ち付けるように響き渡り、天井の微かな笑い声と相まって酷く不快な音のように感じられた。
階段を探してうろうろとしていると、笑い声が次第に大きくなってゆき、私は目的の場所に近づいていると確信していた。
だが…この鼻をつく臭いは…?
音を頼りに少し進むと、突如私の眼の前に、ひどく古く、ひどく急な階段が暗がりにぽっかり口を開いていた。
私は何やら胸騒ぎを起こしたが、喉を焼き付けるような渇きに誘われ、その今にも崩れそうな踏み板を1段、1段軋ませていった。
11
階段を1段登るたび、まるで電撃が走ったように悪寒が背中を震わせていき、一層大きくなってゆく笑い声と一層強くなってゆく強烈な悪臭に目眩を覚えた。それでも私は何かに引き寄せられるように、昏く冷え切った板の上を半ば無意識のうちに進んでいた。
…登りきったその先は粗末な引き戸になっており、その奥からこだまする狂喜の談笑は、もはや自分の足音すら聞こえないぐらいに騒々しく、そして不快極まるものになっていた。
私は少しためらったが、喉を渇かせる昏い意思の誘惑に負け、そっとその扉を開いた。
…思えばこの時、こんな愚かなことをせずに布団の中に戻っていれば、何も見ず、何も聞かず、何も言わずに師走の静かな朝を迎えられたのかも知れない…
扉を開け放った瞬間、笑い声はピタリと止まり、冷たい静けさが私の周りを支配していた。
さっきまでの異様な活気が嘘のように鎮まり返り…また、その眼前には灯し火どころか、星明かり一つ差し込まない、底なしの暗闇が広く、そして深く広がっていた。
だが、先ほどまでの酷い異臭と、異常なまでの怖気は確実にその闇の中から産み出されているものだった。
ガタン!!!
すぐ背後で音が鳴った!私はハッと振り返りスマートフォンのライトをかざすと、階段へと続く扉はひとりでに固く閉ざされ、いくら力任せに引っ張ろうとも、まるで分厚いコンクリートのようにびくともせず、私の掌を熱く痺れさせた。
ザワザワザワ!…がりがり
扉が閉まると同時に、何かの蠢めく不快な音と、凡そこの世界の尋常なる理法の外に存在するであろう、圧倒的な気配が周囲を取り囲んだ。
夢ではなかった…幻ではなかったのか!!
それは…それは…国道の道で、雪の斜面で、私が遭遇した…この世の者ではない何物かの視線だった。
それが今や、この閉ざされた空間の…床や壁、天井に至るまであらゆる角度から私を見ていた!
「…っ!!!」叫ぼうとしても声が出なかった!
いや、それだけじゃない、身体はその幽界の邪眼にさらされ、指一本動かせる状況ではなかった。
私の心臓は狂ったように高まり続け、左右の耳に早すぎる鼓動の音が鳴り響いた。
その鼓動と、まるでシンクロして冥府の合奏を奏でるように、ぼりっくちゃくちゃ
何かを咀嚼する音が聞こえた。
すると指一本動かなかった腕が、意思とは無関係に…嫌だ…勝手にその音のする方へとライトを向けさせた。
ああああああああああああああああ!
私は完全に正気を失った。
そこに映し出されていたのは、女の死体だった。
見覚えのある白い花模様の着物を着た、この家の女の死体だった。
白い着物と白い肌に真っ赤な蓮華を咲かせ、腹わたからは紫色の藤の花がだらしなく垂れ下がっていた。
そんな丹の化粧に彩られた白く、艶かしい柔肌を、ねぶり愉しむが如くに…ねぶり愉しむが如くに、四方八方から寄ってたかって…ガリガリに痩せ細り、浅黒い肌と、左右あさっての方向を向く、狂いきった目をした何物か達が…およそ人とは呼び難い何物か達が、野犬のように鋭く尖った歯形を突き立て、引き千切り、咀嚼し、その骨と皮だけの身体で、唯一異様にぷっくりとした腹の中に次々に納め飲み込んでいた。
その光景と言うにはあまりにおぞましい現実と…その下劣かつ卑猥な咀嚼音…そして汚れ飛び散った花びらと臭気で、私の五感は正常な判断を失い、ただただ呆けたように唖然としていた。すると…
ククク
はははは
あはははは
その物たちは狂喜乱舞して笑い出し、その口から朱に染まった鮮血と臙脂色の肉片を止め処なく滴らせていた。
そして…あぁ…件の食い千切られた女までもが、ほとんど骨だけになった真っ赤な頭部を震わせて笑っていた。
人外の…狂宴であった。
その笑い声に感化されて、私も狂い笑っていた。
笑いながらも、止め処なく目から涙を垂れ流し、そして気づけばその暗闇をひた走っていた。途中にあった粗末な梯子を登り、恐らく、最上階の屋根裏部屋であったであろう、水色の鉄扉を開き、形容しがたい恐怖の中、おんおんと泣きじゃくっていた。
12
鉄扉の中で泣き喚いていた私は、疲れ果てその声も枯れ潰れるころ、この扉…いや、部屋全体が妙に見慣れたものであることに気がついた。
切れかかった蛍光灯が照らす、小汚く散らかり放題となったワンルームの間取り…紛れもなく私が暮らす、アパートの一室であった。
ふふ…はははははは
私は先ほどよりも盛大に、もはや立っていられないほどに笑い転げていた。
なんだ…最初から何もかも…始まってすらいなかったんじゃないか。
私はどうやら、少しばかりおかしくなってしまったようだが…全てがゆめまぼろしであったと分かった今、恐れるものは何もなかった。
いや、待て。全てが…ユメマボロシ?
『全て』とは、いったい何処から何処までを指すのであろうか?
…ひとつの疑念が私の心の中にふつふつと沸き上がった。
私の車が事故にあったその時か?
私がこの家を出た時だろうか?
あるいは…そもそものきっかけの、あいつが動かなくなったあの時だろうか?
いや、あいつの存在自体が私の妄想だとしたら?
…そうだ!私がこんな目にあったのも、元を正せば全部あいつのせいじゃないか!それもきっと長く、悪い夢を見ていたんだ!
出て行った女房が勝手に産んで、勝手に置いていきやがったあのクソガキめ!
私が家に帰れば、決まって這いつくばりながらエサを催促しやがる!
だから何度も何度も、身体にたっぷりと躾けてやれば…耳障りにわんわん泣き喚きやがって!
知ってるんだぞ?どうせお前は…あの女が、あの男の種で孕みやがった、畜生以下の糞餓鬼だ!
それを数週間…エサをくれてやらなかっただけでくたばりやがって!
だからこそ…夜明け前から車をかっ飛ばして…すすき野にいる、昔の親分の所に雲隠れしなきゃいけなくなっちまったんじゃないか!
だが、それも全部夢だったのだ!あいつも、あの女も全部私の妄想だ!私はまたやり直せる!あぁ…私は神に愛されている!!!
肩の荷、胸のつかえから解放された私は、すっかり舞い上がり、狂った高笑いを続けながら、くるくると 6畳一間の大舞台で踊っていた。
ガサッ…グチャッ
不意に何かを踏みつけてしまったらしい。
私はその不快な感触と臭いに、少しばかり冷静さを取り戻しながらも、改めて周囲を見回すと、私の舞台の床一面に悪臭漂う小道具が散乱していた。
草臥れた畳の上に、足の踏み場も無いほどに敷き詰められたそれらは、無数の菓子パンやカップ麺の包装容器と、それらの腐敗した食べカスであった。
「こ…これは…」
それをまじまじと見つめていると…私のつい今しがたまでの、沸き踊る血潮は、はっきり自覚できるほどに凍りついていった。
そうだ、これは全て…私が食べ散らかしたものではない…違う…これは私があいつにくれてやった…
バカな!だとしたらあいつは…いつものように…そこの押入れに、いる?
ガタガタガタガタガタ!!!
突然、押入れの扉が激しく揺れ始めた!
私は咄嗟の事でビクリと驚き、振り返りざま、バランスを崩してその場に倒れこんでしまった。
惨めにも畳の上に尻餅をつきながら、改めてその押入れを見上げていると、襖一枚隔てた向こう側から漂う異様な気配と、唸るような息遣いが聞こえてきた。
…間違いない。このしみだらけの襖の奥に…いつものように、あいつが…。
ズリ…ズズッ…ゆっくり、ゆっくりと戸が動き出し、縦一線の暗闇が私の世界に夜を報せるようにだんだんと広がっていき、その闇夜から、枯れ枝のように細く、怨嗟に震える指先が顔を出した。
そして…
「オカエリナサイ…オカエリナサイ…」
ぎゃあああああああああああ!
暗闇から出てきたのは、頬は瘦せこけ、骨と皮だけの身体と、顔中を青い痣と赤い血で腫らせた私のよく知る、あいつだった。
13
『それ』は押し入れからべちゃりと、したたるように垂れ落ちると、鮮血の混ざった赤い涙をその腫れた両目から溢れさせながら、一歩また一歩と、尻餅つきながら恐怖で固まる私の足元にずるずると這い寄ってきた。
全身から腐臭を漂わせながら、細く、今にもポキリと折れそうな身体に、アンバランスな膨れた腹部。…それは途方もなく恐ろしく見える反面、何処となく滑稽で、何処となく…私があの屋敷の2階で遭遇した、あの化け物達を髣髴とさせた。
「ち…近寄るな!お…お前なんか私の子供じゃないんだ!この…化け物め!」
「ガァァァァァァァァ!」
私が最後の抵抗を試み、罵倒しながら手を払うと、その化け物は口から胃液混じりの血液を吐き出しながら、震え、不快な叫びをあげると、俄かに速度を速め、私の眼前ににじり寄ってきた。そして…
「オカエリナサイ…オカエリナサイ…お腹すいたよう…」
そう消え入りそうな声でぼそぼそと呟くと…
がぶり……
頭に鈍痛が走った。そしてみるみるうちに赤く染まった。…化け物の口が…私の側頭部に…
私はそこでぷっつりと意識の紐が途切れてしまった。
私は、再び夢を見ていた…数時間に見ていたのか、それもまた錯覚であったのかはわからないが、あの屋敷で見た、夢の続きだった。
雪積もる…まさに『夢の中』のような田畑と茅葺き屋根の集落。そんな思わず心中の郷愁くすぐる光景も、路傍に積み重なる枯れ木によって、酸鼻極まるものになっていた。
うっすらと雪化粧された枯れ木の山は…沢山の痩せ細った人間の死体であった。
それが村中の至る所で、折重なり、凍りつき、果ては雪よりも白い骨の塊になっていた。
田畑にはそんな哀れなるプロレタリアと同じくらいに枯れた稲穂の残骸と、それでも口にしようと掘り返された無数の跡が…いや、田だけじゃない。その哀しき掘削跡は、家屋の 軒の下や、木々の根元にも、あらゆる場所で見つけることができた。そして…その近くには決まって根の欠片、小動物や虫の死骸が転がり、先刻の夢の冷害が、深刻な被害を及ぼしていたことが見て取れた。
さらに目を覆いたくなるものは…あぁ…。
…その中に大型の霊長類らしき骨の残骸や、肉片が見つかった。…よくよく見渡せば、枯れ果てた村人の亡骸の所々に、不自然な欠損や切創跡を発見した。…これは彼らが、飢えの余りに凡そ人類の倫理道徳で最も唾棄すべき行為を行った何よりの証拠であった。『最も唾棄すべき行為』…ふふっ、以っとも、今となっては私がそんな言葉を言うこと自体、痛快な皮肉ではあるが…。
そのように、私の意識は村の中をフワフワと漂っていると、ひときわ大きい屋敷の前から何かを掘るような音が聞こえた。
弱々しくも一定のリズムでこだまするその掘削音は、その音の主の衰弱具合と意思、覚悟の強さを物語っていた。
自然と意識が吸い寄せられ、その見覚えのある大きな茅葺き屋根の下、薄汚れ、擦り切れてはいるが、見覚えのある花柄の着物を着た、1人の若い女が、ふらふらと這いつくばりながらも穴を掘り続け、そこに、もはやほとんど骨だけになった『残飯』を落とし込むと、泣き震えながら…痩せ衰えた手を合わせて、静かに埋葬していった。
そしてその一人一人に悔恨と疲労で顔を歪めながら、小さな石で不恰好な仏の御影と、名前を掘り上げていった。『施餓鬼会供養…昭和七年…』
そんなたった1人の懺悔は何度も何度も続けられ、いつしかその家の前は沢山の墓碑が立ち並んでいた。
…そして月日が経ち、その家も家主も共に朽ち果て、石仏達も雪に埋もれ、全てが跡形もなく消え去るころ、件の女が再びふらふらと雪の中から現れた。以前とは違い、私が見慣れた身綺麗で幽玄なその眼差しで、真っ暗な眼下の斜面を見下ろすと…1台の古いセダンがガードレールに衝突していた。…あれは!私のだ!!!まさか全部、あの女がやりやがったのか!!
その女はそんな私の事故に薄笑いを浮かべると、ゆっくりと手招きをしながら、闇の中から1人の幼な子を連れてきた。
その子供の姿を見ても…私は驚かなかった。予想していた。
…他でもない、私の連れ子だった。
泣き噦るその子供に女は、あいつが短い生涯でついに1度も味わうことがなかった、『慈愛』ある眼差しでゆっくりと微笑むと、優しく雪の中に吸い込んでいった。
そしてまたひとすじの涙を流すと、すっかり手慣れた手つきで小さな石に、名前と仏を彫り込んでいった。『施餓鬼会供養…平成二十八年…』
それら一連の『儀式』が終わり、やがて斜面を登る足音が聞こえてくると…
どこまでも冷たく…恐ろしい瞳で真っ赤な涙を流しながら…こちらを真っ直ぐに睨みつけ、先ほどとは真逆の、邪悪な笑みを浮かべた。
そこで私の夢は終わった。…どこまでが現実で、どこまでが夢かは分からないが、気がつけば国道から斜面を登りきった台地…先ほどまで石灯籠と合掌造りの、大きな屋敷のあった…今は影も形もなく…ただ一面の銀世界に包まれたその場所に、涙を流しながら寝転んでいた。
14
「…それであんたはそこを掘り返してどうするんだ?」
男の話が途切れると、すっかり飲み終わった、安酒のパックをぐしゃりと潰しながら、久我はいささか深妙な面持ちでそう尋ねた。
目の前には前述の…突拍子もない…怪異入り混じる夢想話を全て吐き出してもなお、白雪を赤く染め上げながら掘削を続ける作業服の男がいた。
彼は血走った目を少し細めてニヤリと笑うと、少しこちらを振り向き鼻息荒くこう答えた。
「決まってるだろ!あいつを掘り返してもう一度…もう一度、ぶっ殺すんだよ!!くたばる前でも、くたばった後でも私の邪魔ばかりしやがって!…さっきは驚いて何も出来なかったが…次こそは!…あいつだけじゃない!あの女も化物共もみんなだ!!」
そう言い終わるや否や、彼は掘り進む手を止め、懐から鈍く輝く小さなナイフを取り出した。
「こいつで…」と小さく頷くと、小さな笑みを浮かべながら、また一連の狂った作業を再開した。
「…化物じゃない…餓鬼だ。」
「ガキ?確か、あの女の話では、今日明日が施餓鬼会の…その餓鬼なのか!?」
独白めいた訂正に男は再び振り返ると、驚き、さぞ合点したとでも言うように眼を丸くして、久我を見つめた。
そんな彼を尻目に、酒臭い…もとい醸酒の薫香を纏わせながら、今度は久我がぽつりぽつりと語り始めた。
「施餓鬼会ね…本来なら盆の前後にやることが多いがな、ここいら辺一帯はおびただしい死者を出した、師走の今日明日でやるのさ。そんな因縁深い日に…あんたの話が本当なら、我が子を餓死させた男が、その死霊背負って、眼と鼻の先を悠々とドライブしていたら…飢饉の折、一族郎等悉く餓鬼道に堕ちた村人連中は、黙って通してはくれないだろうな」
久我の話を聞くうちに、男の顔はみるみる強張り、恐怖と敵意を剥き出しにした。
「何でそんなことまで知ってるんだ…お前…まさかあいつらの…仲間なのか…」
憤怒と憎悪に震えながら絞り出すようにそう吐きすてると、懐から三日月形のナイフを取り出し、よろよろと立ち上がり、一気に久我に詰め寄った。
そんな男の文字どおりの剣幕にも、全く動じず、正に暖簾に腕押しとでも言った様子で、久我はなおも淡々と喋り始めた。
「…仲間では無いがね。彼女は言ってなかったか?『明日の朝にはお坊様も来ていただく』とな。俺はその約束を果たしに来ただけさ。」
「!!!…じゃあお前がその!…畜生めっ!やはりあの女と通じてた仲間じゃねえか!!邪魔立てするなら相手になるぞ!」
「俺はあんたの邪魔はするつもりは無いよ。ただ施餓鬼会の供養をするだけだ。ふふっ…久々に坊主らしく…な。」
久我の皮肉めいた態度は男の神経をより一層逆撫でした。男は今にも飛びかかりそうな物腰でさらに声を荒げ怒鳴り散らした。
「坊主ならさっさとあの化物共を地獄に叩き落とせ!いやその前に…あいつを…あのクソガキを連れてこい!!」
そんな彼を見て、久我はまたもクスリと笑った。
この世のコトワリの外を見通す彼の天眼には、この罪深く哀れなる狂人の背徳的な決意ですら、この物語のような三文小説の、ナンセンス極まる喜劇にしか映らなかったのである。
「それなら…そんなに必死になることも無いんじゃないか?」
「…何だと?それはどう言う意味だ?」
久我の明らさまな嘲笑の言葉に、男は再び手に持つ刃を見た。眉を吊り上げ…返答次第では、今のところ無害なオーディエンスを気取る久我すら、その凶刃の餌食にしても構わないと言った面持ちで、低く唸るような声でそう尋ねた。
相対する久我寛仁は、そんな彼の神経質な敵意ですら、さぞ滑稽と言わんばかりに口角を吊り上げながら…ゆっくりと彼自身を指差した。…いや、正確には、久我の指針と目線の先は、彼の血走った顔より僅かに左側の中空に向けられていた。
…そして「言ったろ?『死霊を背負って』って…その子なら、最初からあんたの顔面にかぶりついたまんまだぞ…」
そう言い終えるや否や、男の頭部から止め処なく鮮血が溢れ出した。
たじろぐ男の顔色は、朱に染まる表層とは対照的にさらに青白くなり、苦痛と戦慄に顔を歪めた。
そして恐る恐る、まさに自分の身体に降りかかった怪異に…自分とゼロ距離の背後に眼を向けると…
覆いかぶさるように青白い小さな子供が、白目を向きながら、男の顔面に異様に尖った白い歯を突き立て、そこからだらだらと真っ赤な血が、堰を切ったように流れ出ていた。
「ぁぁぁぁぁぁ!」
しんしんと降る、雪の朝に震えるような絶叫がこだました。
その叫びに応えるようにその子供もまた、怨恨渦巻く悲痛な叫びをあげながら、顔を歪ませ、その牙を男の額により一層食い込ませていった。
恐怖と痛みと…そしてその子供に対する様々な激情の雪崩れに飲まれ、男はもはや意思の疎通すら不可能なくらいに錯乱し、叫びながら、その手に持つ刃物を振り回した。
やがて、一本の赤い水跡を残しながら、よろよろと…そこを取り囲むように生い茂る針葉樹の前に立つと「私から離れろ!化け物め!」そう言い放ちナイフを振り上げた。
雪雲覆う薄暗い空に突如現れたその鋭利な三日月は、みるみるうちに高度を下げ、男の額に齧り付く異形の幼子に真っ直ぐ降下していった。
ずぶっ…どさっ
倒れたのは男の方であった。
切っ先が当たるその刹那、件の子供はふっと姿を消し去り、その刃は男のこめかみに鈍く不快な音を立てながら、潜り込んでいった。
男は息も絶え絶えに、大きな木の下の白い大地に、早すぎる春の花を咲かせて眼を閉じた。
15
「ちっ…」
一連の様子を見ていた久我は、いかにも不快そうな顔をしながら、小さく舌打ちした。
そして男に近づくと、力いっぱいその側頭部に刺さった銀月を引き抜いた。
どばぁっっ
同時に流れ出た赤い濁流をその手で受け止めながら、小さく印を結ぼうとした矢先、「その男を助けるのですか?」
嫋やかな…しかしどこまでも冷たい声が響いた。
声の相手は分かっていた。
彼は眼を閉じ、大きなため息を吐くと、その問いにさらなる問いかけをした。
「…ずいぶんな手の入りようだな。まるで、こうなることが分かっていたみたいだ」
そしてゆっくりと振り向き、その異様な眼光で雪の中を見据えると、その白い舞台から、白い花柄の着物をまとった、黒髪の美しい少女が姿を現した。彼女は久我に凍りつくような…それでいて慈愛溢れる笑みを見せて言い放った。
「…飢饉の折、罪を犯しながらも、村の方々を埋葬し、供養した僅かな功徳のおかげで、少し先の未来が見えるのです。」
すると久我は眼を細め、思案しながら答えた。
「なるほどな…あんたの正体について、昔からあれこれ考えていたが、これではっきりしたよ。…あんたも村の連中と同じ、『餓鬼』なんだな?…餓鬼にはその罪業の深きによって、様々な種類があるが…あんたは、その力と威光は神にも匹敵すると言われる、上位の『有財餓鬼』だ。」
久我の推察を肯定するように、彼女は張り裂けそうな悲しい顔をしながら、胸の内を、この相対する異形の聖職者に、懺悔し、聞き届けてもらうように、その推論に答え、補足した。
「お坊様のおっしゃる通りです。…それ故、他の方のように、飢えに苦しみ、己の心を失うことがありませんので…昨日のような特別な夜には、村の皆さんにその身体を捧げ、彼らを慰めていたのでございます。そのような折、無作法なその男に苦しめられ続ける、小さな子の哀れな御霊に出会いました…。」
そう言ってもはや虫の息の男を睨みつけると、ぼうっと彼女の懐が輝き、その手に薄汚れたTシャツを着た、小さな子供が、母の手に抱かれるようにしながら、その姿を現した。
「この子をその男から引き離し、苦しみを少しでも和らげるためには…こうするしかありませんでした…」
はらはらと涙を流すその姿は、切なくも美しく…そんな彼女を見つめながら、久我はもう一度大きなため息をついた。
「…自分の血肉をその他の餓鬼に食らわせるとは…いくらあんたでも無茶しすぎだろう。ふっ…まぁ無茶と言えば、この俺も同類だがな…」
そう言い放つと、突然、先ほど男の身体から抜き去ったナイフを逆手に持ち直し、自らの腹部に突き刺した。
どぶっ…
そんな低い音と共に久我の腹からみるみる赤い液体が染み出してきた。
「なっ…何を!?」
驚愕する彼女を尻目に、久我はニィっとニヒルな笑みを浮かべていると、雪の中から無数の手が伸び、やがてその白く冷たい子宮から何体もの血に飢える餓鬼が、口涎垂らしながら這い出てきた。
「あぁっ!いけません!血の匂いで、村の皆が我を忘れて…その男の鮮血でも、先ほどから彼らはウズウズしていたのを、私が抑えておりましたのに…もう、私の力ではどうにもなりません!今すぐ逃げて!」
泣き震えながらも必死で哀願する少女をあざ笑うかのように、いつしか懐に抱かれていた子供まで、白い牙を剥き出しにして、他の餓鬼達の群れに混ざり、低く不快な呻き声をあげながら、久我とその背後に横たわる男ににじり寄ってきた。
久我はその刃傷が嘘のように、息一つ乱さず先ほどと変わらぬ笑みを浮かべながら涼しげに言い放った。
「腐っても坊主の血だ…聖職者のそれは、他の奴らのより、あんたら魔性の者を惹き付けるものさ。…こうでもしなきゃ、あんた達やその子供、それに後ろで寝てる男をいっぺんに何とか出来そうにないのでな」
「私達も…その男も、どの道救われません。偉大な神仏なら兎も角、人の身受けるあなたにもはや出来ることは何もないのです!最初から、『供養』など期待していない…私はただ一目、もう一度貴方に会いたかった…だから、お願い…逃げて!」
彼女は髪を振り乱し、這い寄る餓鬼達を必死で止めようとしながら、思いのうちをぶつけて、久我を逃がそうとしていた。
「…だから祈るのさ」
短く小さな声で久我はそう呟いた。
そしてもう一度、今度ははっきりと聞こえる声で呟いた。
「だから祈るのさ…俺の女神に…。」
一瞬、異様な空気が漂った。
迫り来る異形達を前にしても、彼の心は夕凪のように静まり返っていた。
その眼光から発する無尽蔵の気迫に気圧され、血に飢えた魔物達もまた、たじろぎ攻めあぐねていた。
そんな一瞬の隙を見逃さず、彼はおもむろに右手で自らの血を受け、左手を握りしめながらその下に重ねると、歌うような透き通った声で「オン・ダキニ・ギャチ・ギャカニエイ・ソワカ」
そう呟くと、すっかり左手に満たされた赤い鮮血に息を吹きかけ、パッと凍れる地面にまき散らした。
16
するとこの季節ではありえないほどの、暖かい南風が、そっと白い大地を撫で下ろしたかと思うと、血に染まった赤い雪から…ぽこっ
小さな若芽が吹き出した。
それはみるみるうちにあたり一面に、芽吹き広がり、いつしかその雪の台地は早過ぎる萌芽の季節…そんな様相を呈していた。
「これは…」
短くそう言うと彼女は…いや、その場に居た大勢の外法の者達も皆、その不可解な出来事に困惑し、その歩みを止めて周囲を見回していた。
「俺の女神は、あんたらと同じく血に飢えるのでな…だが、それと同時に、日々の実りを田畑にもたらし、人々に新たな血肉を与え、命を紡ぎ…三千世界を祝福するのさ…さて、遅くなったが施餓鬼会供養を始めるか」
穏やかな笑みでそう述べると、今度は強く合掌して「ノウマクサラバ・タタギャタ・バロキティ・オン・サンバラ・サンバラ・ウン」
ゆっくりと繰り返しそう唱えると、神仏を讃えるその歌に合わせて踊りだすように、雪の大地は金色に輝き、先ほどの若芽が背丈を増し、やがてこうべを垂れ、暖かな黄金色の炎のような、一面の稲穂が、六花舞う山の麓に突然の実りをもたらした。
いつしか久我や…男の傷も癒えその顔に活力ある血色を取り戻し、ふぅふぅと穏やかな寝息を立てて木々の下に寝転んでいた。
…いや、癒えたのは彼ら肉身もつ者達だけではなかった。
痩せ細り、悍ましい異形へと姿を変えていた餓鬼達も、生前の朴訥な人の子の姿を取り戻し、涙を流しながら歓喜するその言葉には、もはや一切の邪念を含んではいなかった。
彼らは一様に手に手にたくさんの握り飯と、芳しい香りの酒瓶を持ちながら施餓鬼の後の祝宴に笑い、村人や子供達に混ざって、無邪気に笑う、ピカピカのTシャツを着た小さな子供の姿と、その子を優しく抱きしめる白い着物の美しい女性の姿があった。
久我はそんな活気ある『村』の姿を、優しく、穏やかな顔で見つめ、微笑むと、小さく踵を返した。
彼の美しい少女はそんな久我の後ろ姿を見つけると、急ぎ足で走り寄り、涙を流して感謝すると、少し寂しそうにこう呟いた。
「行ってしまうのですね…願わくば貴方と…いえ、最後の最後で、そんな我儘は…」
そう俄かに赤らむ彼女に背中を向けて「また、来年だな…それまでは連中と騒ぎながら、天で待っているといいさ」
「はい…」
再度涙を流しながら、大勢の村人と天に昇り、消えていく彼女に背を向けたまま「先祖代々…この手の物にはどうも失敗ばかりだな」
そう言い放ち、雪の山路に消えていった。
エピローグ
海沿いの小さな町の海岸で、男は思案に暮れていた。
町の人々から姥神長者と敬愛されるこの男は、かつて奇怪な体験をし、それを機にこの町に住み着き、地方雑誌を刊行する小さな出版社を立ち上げた。
経営は上々で、この町屈指のやり手と噂される彼は、その取材の帰り道、ふと思うことがあり、以前に『特別な出会い』をしたこの場所であれこれと考えながら、今回の取材で得た情報をまとめていたのだった。
都内のとある病院に、奇妙な男が担ぎ込まれたと話題になった。
年の瀬は30代後半から40代前半の、見るからに憔悴してやせ衰えた男だった。
警察の話では東北の雪深い山路で自損事故を起こし、調べを進めるうちに男が住むアパートから、死後数日が経つと思われる子供の遺体が発見され、その遺体の状態から、自分の息子を虐待死させた後、逃走を図る最中での事故と結論された。
それだけではこのご時世にありふれた陰惨な事件なのだが、その男の状態と、発見された場所が彼の聡明な頭脳の『もう一つの感覚』に違和感を覚えさせた。
男が発見された場所は、以前には昭和の飢饉で、廃村にもなった、その地方でも指折りの豪雪地帯であるにも関わらず、一面季節外れの稲穂が実り、木々は花咲き乱れ、今では周辺の村の老人達が、聖域と崇める、不思議な場所であったこと。そして何よりその男の状態が、救助された時点で目だった外傷は無いが、心神喪失状態であり、意味不明な叫び声を上げ続け、止む無く都内有数の精神治療に特化した病院に収容されたという事だ。
遠路はるばるその病院に足を運び、何とか面会したその男の様子に、さすがの姥神長者も驚嘆していた。
頭髪は抜け落ち、浅黒く、枯れ木のように痩せ細りったその身体と、重度の栄養失調によるクワシオルコルで異様に突き出た腹を持つその男は、叫び声をあげながら常に食餌を要求していた。
それはまるで生きながら餓鬼道に堕とされた亡者のようで、彼は思わず息を飲んだ。
医療関係者の話では、その食欲にも関わらず、食べ物を口に運んだ途端に吐き出してしまい、止む終えず点滴による栄養補給を行っては居るが、どういう訳かそれすらも殆ど吸収出来ず、医師も頭を抱えて悩んでいるとのことであった。
だが、姥神長者は何となく理解した。それが以前に『あの町』で遭遇した者と同質の存在であることを。
「…それにあの眼は、まるであのころの叔母と…」
海岸であれこれと考えながらつい、独り言を呟いてしまうと、背後に気配を感じた。その異様な気配は彼の独り言に答えた。
「あぁ…いくらその身癒し、罪業を取り払おうとも、本人が邪心起こして悔い改めなければ、かえって悪い方へと堕ちていくだけさ」
少し悲しそうに答えるその声に、姥神長者は懐かしさを覚えて振り返った。
飢える雪…完。
邪教の聖者 飛鳥一歩 @1ppo
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