第226話 葡萄は秘密を知っている
ほんの僅かに渋みがある、ふくよかな香りを持った甘い液体を口から喉を通った時の感動と、
「どうだいサトルくん?これが君のひいひいおじいさん達が植えて育てた葡萄の味だよ」
とその葡萄ジュースを飲ませて頭を撫でてくれた人の手の温かさは26年経った今でも忘れられない。
ここドイツバイエルンの山間部にあるアイヒベルガー家のワイナリーに滞在している妹、
フリッツ・ヨーゼフ・アイヒベルガー青年の手厚い歓待を受け、
数種類の焼きソーセージに牛肉と野菜の煮込み料理と濃厚な味のふかしたジャガイモというドイツのお袋の味をご馳走になっていた時、
ふと「なんかここってドイツの隆文の実家みたいな居心地いいワイン農家だな、うわ、このジュース人生最高って位美味い!」
とこの席で唯一下戸の聡介が飲んでいる搾りたての葡萄ジュースが急に飲みたくなり…
「ちょっと先生、そのノンアルコールのやつ一口いいかい?」
「いーよ」
と聡介から借りたグラスからその液体を一口飲み込んだ時、
真吾おじさんが飲ませてくれた味だ…
と迂闊にも涙を流してしまった。涙を拭いながら立ち上がった悟は「失礼、しばらく一人にさせてくれないかい?」とダウンコートを羽織り葡萄畑が見渡せる庭に出てしまう。
「あ、あの…お兄サンに何か粗相でもありましたか?」
と幸を心配そうに見つめ、立ちあがろうとするフリッツの肩に手を置いて「いいの、私もこれ飲んだら泣きたくなるもの」と悟によく似た整った顔を伏せて涙ぐむ。
そんな幸をで茶褐色の髪と眼をした身長190センチの好青年、フリッツが抱擁して慰めるのを目の当たりにした聡介ときららとラファエルは
勝沼酒造海外事業部担当の幸がアイスワインの老舗であるここアイヒベルガーワイナリーとの業務提携契約を済ませても年末年始に帰国しなかった理由は、彼女がフリッツと恋に落ちたからだ。
と察した。察してしまった。
「え、と…俺はお兄さんと知り合ってまだ半年で何回も衝突したしケンカもしつつ仲良くなっていけてるか、な〜?って付き合いだけれど、
あいつの心の中に一生かけてでも癒せない『何か』があるな。
と思ったのは蔓草弁財天での祭りの時、実のお父さんへの接し方が妙に他人行儀だったのを見た時からなんだ。
…話したくなければ無理に話さなくてもいいけど、お兄さんとお父さんの間に何かあったりした?」
そこまで気づかれていたのか。と聡介の人が観察眼に驚いた幸は覚悟を決めたように涙を拭いて顔を上げ、
「あれは私が中1でお兄さまが中2の夏休みの事です」
と15年前突然起こった出来事を話し始めた…
勝沼酒造の社長として多忙を極めるお父様は東京に居る事が殆どで幼かった私たち兄妹がお父様と顔を合わせるのはお盆とお正月くらい。
たまに父が山梨の実家に帰って来て顔を合わせても「元気にやってたか?学校生活はどうだ?」と聞かれ、「心配しないで、ちゃんとやってる」と答えたら会話が途切れる位のぎこちない親子関係でした。
「お父様はいくつもの会社の経営でお忙しいのだから…ね?」
と母に言われても自分に言い聞かせてもどこか寂しくて…父性に飢えていた私たち兄妹の面倒を見てくれたのが秘書室長の西園寺さんのご主人で真理子さんのお父さんの真吾おじさんなんです。
おじさんはそれこそ私たちが物心ついた頃から授業参観や運動会に来てくれたりとそれこそ実の父親以上に私たちを可愛がってくれました。
山梨の実家の温室の葡萄樹の前で私とお兄様、そして真理子さんと3人並んで農学者で醸造学者でもある真吾おじさんから教甲州葡萄の栽培とワイン作りから始まった勝沼家の150年間の歴史を教えてもらって育ちました。
「大学生だった基お兄さまは『このままじゃ悟と幸と溝が出来てしまうよ、いいの?』と父に意見していたようですが、私達には真吾おじさんがいるからいいか。と勝手に補完してしまっていたのです。…今思えば私たちは真吾おじさんに甘え切っていました。あの夏の日までは」
夏休みだった。学校の部活でバレーの朝練をしていた時先生が呼び出してくれた。
「西園寺さんのお父さんがお亡くなりになった。と連絡がありました…」
後のことはいいからすぐ帰宅するように。と先生から言われている最中、蒸し暑い体育館の中で全身から冷や汗が吹き出していた。
「真吾おじさんが10日間の東京出張から戻った日の翌日でした。いつものようにおじさんに会いに行った兄はノックしても返事がない異変に気づいて、ドアを開けて見てしまったんです。天井からぶら下がっている真吾おじさんを…」
そこまで話を聞いた聡介、きらら、フリッツは、
そういうことだったのか…
と無言でほとんど空にしたグラスに目を落とした。
僕はあの日から人生で一番大事なものを失っていたのかもしれない。
「今でも何で父があんなことをしたのか判らないんです」と真理子さんは気を遣ってくれているが、
真吾おじさんは優秀な学者だったので勝沼酒造の研究員に選ばれ、本社との連絡係だった君枝さんと結婚し、経営者一族である西園寺家に婿入りした。
通夜に来ていた幹部たちが「社長が西園寺くんを叱咤し過ぎたからではないのか」と声を潜めて話していたのを聞いてしまってつい激昂し…
「父さんが真吾おじさんを殺したんだ!」
と家族の前で大声でなじった途端、父の平手打ちが自分の頬を激しく叩いた。
思えば父にちゃんと触ってもらえたのはこれが初めてだった。と気づき、
「おじさんを…返してくださいよ…あなた以上に大切な人だったんだぞ」
と泣きながら本音を吐き出してしまった。父は最初怒りで顔を真っ赤にしたが、「お前のいう通りだ」と僕から顔を背けた。
あの時以来父とはちゃんと目を見合わせて会話出来ていない。
本当はあの時、海外大手企業から敵対的買収に遭い、ウイスキー部門を丸ごと失う会社の危機だった。と知ったのは大学一年の夏だった。
経営者一族間で株の50%以上を所有し合う特殊なシステムの勝沼酒造だからこそ会社を守れたようなものだ。が、望まず株の所有者になった真吾おじさんに急にかけられたプレッシャー。
株主間に飛び交う怒号は元々企業間競争とは無縁だったおじさんにとっては想像を絶する人間の剥き出しのどぎつさを見せつけられてパニックと急性うつを発症してしまったのかもしれない。
…なんて今さら推測してみても本当の原因を抱えたまま真吾おじさんは逝ってしまった。
自分の不用意な一言で父との溝は決定的になった。
なのに。
「兄さんがいるのにどうして父さんは僕なんかを次期社長に据えようとしてんのかなあ…」
と一月の平均気温5度からマイナス五度。という冷え込んだ屋外で白い息と共にため息を漏らす悟の背後から聡介が、
「蔡福明戦ではお前の采配が無いと人質を救出できなかったしイエローとグリーンも命を落としていたかもしれない。
人を適材適所に置いて動かす才能はピカ一だって事を親父さんは見抜いているのかもしれないぜ。
…なあ、帰国したら一度親父さんと腹割って話してみろよ」
と言って背中を軽く叩き、その横できららも「そーですよ。後悔あちら立てればこちらが立たぬ、ですよ!」
と言ったので悟もこの時ばかりは「きららさんそれ、後悔先に立たずですよ」と苦笑するしか無かった。
僕があの一件を思い出して落ち込まずこうして仲間と笑い合えるようになるまで15年も経ってしまったんだなあ。
と既に収穫を終えて雪を被った葡萄畑にお昼の陽が照らす美しい光景を前に、
「とうとう、明日は鉄道でチューリヒ入りですね。やっと真相に近づけます」
と本来の彼らしさを取り戻した声で顔を上げてそう告げたのだった。
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