かえるの子

かえりみち

 スミレ姉ちゃんが神社の中に散乱していた死体をズルズルと運んでいく音……いつから鳴り始め、そしていつ終わったともつかない陰鬱な音の残滓ざんしが、狂った一日の最後の余韻のように、頭を鈍く揺らしている。

 終わった……。

 きっと、何もかも……。

 なんとなく、それはわかった。今日ここで死んでいったのは、村の大人たちから「次の世代」と呼ばれてきたみんなだったのだから……。

 あぁ、カヤ……。

 お腹の子どもごと引き裂かれた彼女の無念の声が、ずっと頭の奥でつっかえて、心臓をキツくキツく握りつぶしている。

 どうして……こんなことになってしまったのかな?

 カヤは、弱い体でも精一杯母親になりたがっていた。信じられないほど気が早く産着うぶぎを用意してみたり、乳が出るかを悩んで温泉でずっと胸を触ってたり……周りがちょっと呆れちゃうくらいにカヤらしくない姿で、きたるべき日に備えてずっと気を揉んでいた。

 みんなそれを、優しく見守っていた。

 不安を抱えながらも一生懸命に赤ちゃんのことを思うカヤをみんなで支えようって、誰ともなく決めていたんだ。

 ……そんなカヤのお腹から取り出された赤い肉は、まるで潰れた蛙のように呆気ない、残酷な命の残骸だった。

 カヤがずっと慈しんできた小さな愛は、カヤよりも先に、生きることをやめてしまったのだ。

 報われなかった努力への慟哭が、優しかったカヤの最後の声だなんて……。

 本当に、誰も報われない。

 死ぬってそういう意味だ。

 悲鳴に枯れ、苦痛にこすれ、嘆きに果てた喉の奥から、蚊の飛ぶ音よりも小さな嗚咽がグスリとこぼれ落ちる。

 これは……やっぱりタタリだったのかな。

 泥のように濁った記憶を泡立てる、スミレ姉ちゃんの狂った笑い声が、記憶の中でいつまでも鳴き続ける蛙の声と混じりあい、キリキリと胸を締め付ける。

 ……死んだ……みんな、死んだ……。

 自分の罪を隠すために、お姉ちゃんは次々と、神社に来てしまったみんなを殺し続けた。

 イナミたちやヨシだけじゃない……ゲンとアマコでさえもあの長い階段を上り、あまつさえ、いないはずのタケマル兄ちゃんまでもが鳥居をくぐった今日という日は、きっと本当に、呪われたタタリの夜だったのだろう。

 殺して、殺して、殺し抜いて……途中から、もう、罪を隠すには手遅れになっていることがわかったはずなのに、それでもスミレ姉ちゃんは殺し続けて……。

 楽しかったのだろうか。

 あの惨劇が?

 痛みが?

 死が?

 今となっては、わからない。

 ただ……不思議と怒りみたいなものは沸いてこなかった。胸の真ん中に少し、カラッカラに乾いたミミズのようにしぼり尽くされた感傷がションボリと浮いている気がするけれど、本当にただそれだけである。

 ……いけないことだろうか。

 みんなを想えば……私は本当は、スミレ姉ちゃんを、怒るべきなのかな。

 自分が何を願っているのかさえわからないまま、溶け出しそうなほどに重たい腹を引きずって、私は神社の出口へとヨロヨロと這い進んだ。

 ……でも今更……何を責めればいいの?

 どう怒るべきなの?

 泣くだけ泣いた。

 ずっと叫んだ。

 一人ひとりが死ぬたびに、精一杯に祈り続けた。

 もう、疲れた。

 嘆く気持ちだって、果てる時は来るのだ……。

 疲れ果て、泣き果てた心と体をそれでも動かすのは、もっと単純で、純粋で、深刻な……ずっと幼い頃から抱き続けてきた、タッタ一つの気持ちだけ。

 お願い……お姉ちゃん。

 置いてかないで……。

 はやる気持ちに背を押されて、転がるように不安定に、立ち上がる。

 自分でもそんな力どこに残っていたのかわからないけれど……ふらつきながら、よろめきながら、呪われた人形たちにジクジクと見下されながら、神社の入り口へと、私は自分の足で歩みを進めた。

 だって、お姉ちゃんは……。

 スミレ姉ちゃんは、村を出ていく気だ。

 もう村にはいられないから……。

 息が荒くなり、足に力がこもる。

 思い出す、あの一瞬……タケマル兄ちゃんが、神社の中に、お姉ちゃんの名前を呼んだあの、深い残響……。

 その声を聞いた時、お姉ちゃんは、きっと全てを悟ったのだろう。

 自分はもう疑われている。村に帰ることはできないって……。

 最初は息を潜めてやり過ごそうとしていたスミレ姉ちゃんの顔が、あの一瞬、泣きそうな表情に変わったのを覚えている。

 あぁ……だけど、それなら……。

 どうしてお姉ちゃんは、タケマル兄ちゃんまで殺してしまったのか。

 どうせ逃げるなら、もう、そんなの意味ないのに……。

 ……いや、ホントは理由なんてわかってる。

 スミレ姉ちゃんは……きっと……。

 やがて燐光のように幽かな光に導かれて、腐った匂いの残るタタリ神様の神社から、湿気っていながらも清浄な霧に包まれた外の世界へと顔を出す。

 冷たく澄んだ風。

 涙で熱くなった顔が、少しだけヒリヒリした。

 地面はまだ暗いけれど、だけど空はわずかに青く白み始めた、そんな時間。夜風に晒されて、黒く乾いたみんなの死体の真ん中、蛙の置物に挟まれて……スミレ姉ちゃんが、背を屈めて座っていた。

 足元にはタケマル兄ちゃんの死体。

 それをただ、何も言わずジッと見つめている。

 思わず、目頭が熱くなった。

 お姉ちゃん……。

 あぁ、やっぱり……思った通りだ。

 カヤの言っていた通りだ。

 スミレ姉ちゃんは……。

 だってお姉ちゃん、タケマル兄ちゃんを殺すときだけは、とても急いでいたんだもの。

 まるで、自分のしていたことがバレてほしくないみたいに……必死で……。

 そんな理由でタケマル兄ちゃんを殺すなんて……寂しすぎるよ……。

 しばらく、その場から動くことができなかった。

 味わい尽くし、絞り尽くされたと思っていた絶望、その最後のわずかな一滴が、瞳の上に小さな小さな波紋を作る。

 悲しみが過ぎ去っても、やってくるのは、寂しさだけ。

 私はもう二度とみんなに会えないのだから……。

 ……やがて、空を覆う雲が途切れたか、あるいはただの幻か。

 スー……っと、不思議な明るさが、水の底に闇夜の泥が沈み込んだかのように静かに、優しく、神社の境内に満ちていく。

 それにを合わせたかのように、スミレ姉ちゃんはフラフラと、よろめきながらも立ち上がった。

 肩を揺らし、上を向いて、ため息一つ、天に吐いた。

 ……行っちゃうつもりだ。

 それがわかった。

 スミレ姉ちゃんは、一人で行くつもりなんだ……。

 私のことさえ、置いてけぼりにして……。


「……スミレ……姉ちゃん……」


 濁った声が、喉から押し出される。

 お姉ちゃんの背中がビクリと震えて、そしてゆっくりと、振り返る。 

 憧れた、短い髪。

 大きな瞳。

 見つめ合う。


「……待って……」


 か細い声が、森に響く。

 蛙の声さえかき消して。

 想いが、響く。


「置いてかないで……」


 その言葉が、スミレ姉ちゃんの耳に届いたとき。

 私の願いに、気がついたとき。

 呆けたように私を見つめていたお姉ちゃんの表情が、信じられないくらいに激しく、強く、引きつった。

 ヤキチを死なせてしまったあとにも、ヨシを殺すのをためらった刹那にも、顎の砕けたタケマル兄ちゃんを見下ろした時にだって見せなかったほどに、恐怖に歪んだ。


 …………?

 

 お姉……ちゃん?


 ……チユリには、わからなかった。

 黒い屋根の下から抜け出して、あるともないともつかない光に照らし出された自分の姿が、いかに姉の心を乱したかが。

 あれだけこだわった妹を捨ててタッタ一人で去ろうとした、姉の決意が。

 そして、それでもなお、自分を追いかけようとした妹の姿が、どれだけ深く心をえぐったのかが理解できなかった。

 血糊をその身にしみつかせ、長い髪を振り乱しながら、手を伸ばして神社から這い出たチユリの姿。それがいかに妖怪じみていて……そしていかに、自らの所業を思い知らせたか、わからなかったのだ。

 蛙が、鳴く。

 すべての死を見届け、恐怖と痛みに傷つき、あらゆる不幸の残骸をその身に纏った、一種の化け物……。

 スミレが作った、小さな妖怪。



 タタリの子。



「ひっ……」と、スミレ姉ちゃんの口から、ありえない、悲鳴が漏れる。

 満ちていた光が、また濁った闇に沈み。

 スミレ姉ちゃんは、駆け出した。

 すべてに背を向けて、鳥居の奥へと、脇目も振らずに走り去った。

 心臓が、張り裂けそうなほど強く打つ。

 待って……スミレ姉ちゃん……っ!!

 どうして?

 ……ダメだよ……行かないで……。

 震える足を引きずって、必死で、走り去ったお姉ちゃんの影を追う。

 待って……。

 ……いかないで。

 お願い……。

 ずっと昔に何度となく味わってきた悲しさが、恐怖が、胸の奥で泣き始める。

 少し目をそらしたら、すぐに消えてしまう、姉の背中。

 見失わないように、ずっと追いかけてきた。

 足が棒になっても、目が霞んでも……ヘトヘトになりながらでも、追いすがった。

 ……また、一人で行っちゃうの?

 私をおいて、逃げちゃうの?

 スミレ姉ちゃん……。

 ……いやだ。

 いやだいやだいやだ。

 いやだ、やめてっ!!

 ねぇ……?

 置いてかないでよおおおぉぉ……。

 うあああああああ……ん……!!

 待って!

 まって、スミレ姉ちゃん!

 一人にしないで、お願い……っ……。

 泣きながら、裸のまま、裸足のまま、冷たい参道を駆け下りる。

 いやだ! いやだっ!

 こんなの……いやだ……。

 だって、お姉ちゃん、もう二度と帰ってこないつもりなんでしょ?

 ここで追いつけないと、もう二度と、スミレ姉ちゃんに会えないんでしょ?

 待ってよ、ねぇ……っ。

 こんなのが最後なんて、絶対にいやだよお……。

 今日だけでも、幾度となく味わった、別れの辛さ。

 この上……お姉ちゃんにまで会えなくなるなんて……。

 私が悪いの?

 怒ったの?

 それなら、叩いてよっ!

 怒鳴ってよっ!!

 一人にだけは、しないでよ……。














 チユリは背中を、追い続けた。姉がとっくに道を逸れ、深い山の中へと永遠に姿を隠してしまったことにも気づかずに……ただ、朦朧とする意識の中に浮かび上がる、姉の後ろ姿の幻を求めて、彷徨さまよった。



 蛙が、鳴く。



 ゲゲゲゲゲ……。



 ゲコッ……ゲココッ……。



 あぁ、タタリ神様ぁ……。



 やっぱり、私が悪いのですか?



 私が蛙石に傷つけたから、みんな死んだのですか?



 スミレ姉ちゃんは、いなくなるのですか?



 タタリ、タタリ……全ては、タタリ……。



 だとしたら……。



 唇を噛む。



 頭に血が上り、目の前が暗くなる。



 ……ヒドい。



 こんなの、ヒドすぎる。



 ヒドすぎるよ……っ。



 私がやったことなんて……タッタのヒビ一つ、入れただけじゃないですかぁ……。



 それだけで、こんなの……あんまりだ……。



 はっと足を踏み外して、転がり込む。



 視界が乱れ、ぐるりと体がでんぐり返る。



 ビチャッと、額に鈍い感覚。



 痛みに喘ぎ、顔を上げる。



 ニチニチといやな感触。



 ぞっとする。



 潰れた蛙の死体が、石段の上に赤黒く染み付いていたから。

 


 ゲーッゲッゲッゲッゲ……。



 ひっ……ひいぃ……!?



 いやああ……あぁ……。



 違うんです、ごめんなさい……。



 恐れるままに、階段を離れ、足場の悪い森へと迷い込む。



 暗すぎて、前が見えない。



 それなのに、四方から襲いくる、蛙の唄。



 責めるように、さいなむように。



 ゲココココ……。



 ゲゲッ……ゲゲッ……。



 ゲーッゲッゲッゲッゲ……。



 うぅ……うあぁ……。



 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。



 ……助けて。



 助けて、スミレ姉ちゃん……。



 お願い……。



 思い出す、一人の森。



 おぞましい、山の声。



 ここに一人で取り残されたくないから、ずっと私は頑張ってきたのに……。



 おいてかないで……。



 蛙は、鳴く。



 信じがたいほどやかましく、彷徨さまよう私を追い立てる。



 足場の悪い山の斜面。



 草葉に肌を切られ、幹に体を打ちつけられても、蛙はいつまでも、裸の私を取り囲む。



 蛙が一声鳴くたびに……スミレ姉ちゃんの声が、姿が、思い出が、一つ失われていくような心地がして……。



 その背中が、ちょっとずつ、遠のいて……。



 うあぁ……。



 お願いします、タタリ神様……。



 謝ります償いますなんでもします……だから、どうか……。



 スミレ姉ちゃんだけは……私から、奪わないで……。



 ぐっ……おえぇ……。



 う、あ、あぁっ……ぇ…………。



 うわああぁぁー……ぁぁ……ん。



 ひぐ……う……うぅ……。



 おねえちゃーん……どこぉ……?



 闇の中、あるはずのない面影を、必死の思いで、探し回る。



 スミレ姉ちゃん……。



 スミレねえちゃーん……。



 ふいに立ち止まる、背の高い、後ろ姿。



 心が震え、浅ましく安堵する。



 あぁ、やっと……。



 声が、届いたんだ……。



 私はいつも……お姉ちゃんが振り返ってくれるの、待っていた。



 何度も何度も名前を呼べば……怒りながらでも、お姉ちゃんは……。



 だけど……。



 体は前に向けたまま、フクロウのように真後ろを向いた、大きな頭。



 血の気が凍る。



 スミレ姉ちゃんの体の上に乗っかっていたそれは……おぞましい、蛙の生首だったから。



 ゲコッ、ゲコッ、ゲコココココ……。



 ひっ……ひいぃ……!?



 瞬間、バチリと鈍い痛みが、頭の後ろで弾け飛んだ。



 蛙石に頭をぶつけた時と同じ悪寒が、ゾワゾワと足元から這い上がる。



 殴られたと……ハッキリと、そう思った。



 ……でも、誰が?



 タタリ神さま?



 わからないまま、急速に意識が遠のいて、記憶がドンドン霞んでいく。



 村のこと、マキ姉さんのこと、お父さんのこと、お母さんのこと、みんなのこと……一つずつ、頭の中から溶け出していって……。



 それでも、最後の最後までしがみついていたお姉ちゃんの姿さえ、蛙の口の中に、飲み込まれていく。



 待って……それだけは……。



 スーッと、地面が急に消え去って、体が水に、包まれる。



 タタリ神さま……。



 もう二度と、私はお姉ちゃんに会えないのでしょう……?



 なら、せめて。



 せめて……。



 ……ささやかな最後の願いも、囲い込む蛙の声に、容赦なくかき消されていく。



 痛みが溶け出し、すべてが、真っ白になる。



 名前だけ一欠片、その記憶に取り残されて……。



 スミ……レ……。



 おねぇ……ちゃ……。



 ス……ミレ……。



 ゲコッ……ゲコッ……。



 ゲゲッ……ゲゲゲゲゲ……。



 ゲココ、ゲコココ。



 ゲコッ……ゲココココココ……。

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