第9話
「明日香さん。おはようございます。遅れて、すみません」
僕は、空港の中で、明日香さんの姿を見つけると、駆け寄った。置いて行かれていないことが分かって、ホッとした。
「明宏君、おはよう。やっぱり、遅かったわね。あと15分くらい遅かったら、置いて行こうかと思ったわ」
あと15分くらいか。意外と、余裕があるんだ。
それにしても、すごい人だな。みんな、旅行に行く人たちなのかな? でも、今日は祝日だけど、明日は平日だから、違うかな?
「すみません。ちょっと、電車が混んでいたもので……(本当は、乗る電車を間違えただけだ。早めに出発をしておいて、本当によかった)」
という必殺のボケを、明日香さんは、いつものように華麗にスルーすると、
「向こうには、お昼前には到着するから。着いたら、さっそく白川さんの家まで、行ってみましょうか」
と、言った。
「分かりました」
明日香さんの表情を見る限り、どうやら昨日のことは、もう怒っていないみたいだ。
「明日香さん。荷物は、それだけですか?」
と、僕は聞いた。
明日香さんは、小さなカバンを、肩に掛けているだけだった。
「そうよ。別に、旅行に行くわけじゃないんだから」
まあ、小さなカバンとはいえ、明日香さんが、そのようなカバンを肩に掛けているところ事態、初めて見るかもしれない。
ああ、いつか、明日香さんと二人で、旅行に行けたらなぁ……。
「明宏君は、どうして、そんなカバンを持っているのよ?」
と、明日香さんが、僕が肩に掛けているカバンを指差しながら言った。
僕は、明日香さんのカバンよりも、少しだけ大きなカバンを肩に掛けていた。このカバンは、上京してから、東京で買ったものだ。しばらく使っていなかったけど、押入れから引っ張り出してきた。
「あっ、いえ、これは別に、大したものは入ってないです。もし、泊まりになったときの為に、一応、替えの下着と靴下(実家にあるとは思ったけれど、念のために持ってきた)。あとは、鳥取県の地図です」
と、僕は笑顔で、カバンから地図を取り出してみせた。
「――明宏君。こんなところで、そ、そんなもの、見せないでよ……」
何故か、明日香さんは顔を赤くしている。どうしたというのだろうか? 地図を見て、赤くなるって――
僕は、目線を下にそらした。
「あっ! ち、違います! そういう、つもりじゃあ――」
僕の右手には、一冊の地図と、白い布が握られていた。
そう――。僕は、地図と一緒に、下着も取り出していたのだ。しかも最悪なことに、下着の方が上になっていたので、明日香さんの方には、ほとんど下着しか見えていなかった。
つまり、明日香さんにしてみれば、僕は、笑顔で下着を見せつけている、変態男ということだ。
「バ、バカ。早く、しまいなさいよ」
「は、はい――」
僕は、あわてて下着をしまおうとして、手を滑らせて、下着を落としてしまった。
僕の下着は、一瞬、宙を舞い、明日香さんの靴の上に落ちた。
「…………」
バシッ!
一瞬の沈黙のあと、明日香さんの右の手のひらが、僕の左頬に、クリーンヒットしたのだった。
「明日香さん……。痛いです……」
「知らないわよ。自業自得でしょう。だいたい、どうして地図なんか持っているのよ?」
「上京してくるときに、もらったんですよ。これを見て、故郷を思い出すようにって」
「誰に?」
「友達です。たぶん、冗談のつもりなんでしょうけど」
と、僕は、痛む左頬を擦りながら笑った。
「ふーん。その割には、結構見ているのね。ボロボロじゃない。故郷を思い出して、寂しかったの? 涙ながらに、ページをめくっていたのね」
と、明日香さんは、うなずいた。
「いえ……、そういうわけでは……。暇なときに、ちょっと見ていただけです」
むしろ、今、痛さで涙が出そうだ。
「そう。まあ、いいわ。でも、そんな地図、必要ないんじゃないの? 明宏君の、地元でしょう?」
「まあ、そうですけど。一応、念のためです」
僕も、白川さんの住所の地名は、聞いたことはあるけれど、実際に行ったことは、ないかもしれない。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
と、明日香さんは、時計を見ながら言った。
「はい」
「明宏君は、飛行機に乗るのは初めてなの?」
「――はい。初めてです」
できることなら、乗らずに済ませたいのだけれど。
「――ふーん……。そう。それじゃあ、飛行機の乗り方は、全然知らないのね」
乗り方? なんだろう?
「あのね。飛行機に乗るときは――」
と、明日香さんが、僕に耳打ちをしてきた。
「…………」
「――ちょっと、明宏君」
「…………」
「あんなこと、本気にしないでよ。私まで、恥ずかしいじゃないの」
僕たちは、現在、飛行機の中で座席に着いていた。間もなく、離陸の時間だ。
「…………」
僕は、恥ずかしくて、消えてしまいたかった。
「だいたい、ちょっと考えたら、嘘だって分かるでしょう? どうして、飛行機に乗るときに、裸足にならなきゃいけないのよ」
だって、明日香さんが、そういうふうに耳打ちをするから……。
「ちゃんと、冗談よって、言ったでしょう?」
実は、至近距離から耳打ちされて、胸がドキドキして、冗談と言われたことに気づかなかったのだ。
「本当に、靴を脱ぎ出して、客室乗務員さんに笑われたときは、私まで、恥ずかしかったのよ」
と、明日香さんは、恥ずかしいを繰り返した。
「…………」
「ちょっと、明宏君。黙っていないで、何とか言いなさいよ。なによ、拗ねてるの? もうっ。私が、悪かったわよ。ごめんなさい」
と、明日香さんが謝った。
しかし、僕は今、それどころではなかった。確かに、さっきまでは、拗ねているというか、恥ずかしいというかで、黙っていたけれど――
今、まさに、飛行機は離陸を始めていた。
「あ、明日香さん……」
「どうしたの、明宏君? 顔色が、悪いわよ。私が言うのもなんだけど、そんなに、気にすることないわよ」
と、明日香さんは、心配そうに言った。
「い、いえ……。そうじゃなくて……。明日香さん。どうして、こんな鉄の塊が、空を飛ぶんですか? おかしくないですか?」
そう言う僕の声は、震えていた。
「――えっ? どういうこと?」
明日香さんは、僕の言っている言葉の意味が、まったく分かっていないみたいだ。
「だ、だから……。落ちませんよね?」
「落ちる? 何が、落ちるのよ?」
「墜落……、しませんよね?」
僕は、息も絶え絶えに、最後の力をふりしぼって、そう言った。
「――するわけ、ないでしょう? もうっ! 急に、何を言い出すのよ。縁起でもないこと言わないでよ。明宏君、もしかして――、飛行機が怖いの?」
「…………」
そう、僕が飛行機ではなく、高速バスを利用している最大の理由は、怖いからである。
「呆れた。そんなことを、考えていたの? 飛行機の事故なんて、自動車なんかと違って、ほぼ起こらないわよ」
「ほぼ……、ですか? ということは、ゼロでは……、ないですよね?」
僕は、僕の言葉を否定してほしかったのだけど、明日香さんは、
「そうね。ゼロでは、ないわね」
と、あっさりと肯定した。
ああ……。やっぱり、そうなんだ……。
そのとき、飛行機が、ちょっと揺れた――ような気がした。
「…………」
僕は、恐怖のあまり、声が出なかった。
離陸してから、しばらくすると、
「お客様、大丈夫ですか?」
と、優しそうな、女性の声が聞こえてきた。
「安心してください。ベテランの、一流のパイロットが、操縦していますから。大丈夫ですよ」
と、笑顔で話しかけてきたのは、僕と同じ25歳くらいの、ショートカットのかわいい客室乗務員の女性だった。
「ほ……、本当ですか?」
「はい。本当ですよ」
と、客室乗務員さんは、微笑んだ。
「何かありましたら、いつでも声をかけてくださいね」
と、客室乗務員さんは、笑顔で言うと、去っていった。
「明日香さん! 大丈夫だそうですよ」
と、僕は、今までの恐怖が嘘のように、笑顔で言った。
「――そう。それは、よかったわね……」
「いやぁ。客室乗務員さんって、優しいんですね」
と、僕は、客室乗務員さんの歩いていった方を見ながら言った。
「あっ、そう。――明宏君。デレデレしてるところ、悪いけど。さっきの客室乗務員さん。靴を脱いだ明宏君を、笑っていた人だからね」
「別に、デレデレなんか、していないですよ」
僕が、明日香さん以外の女性に、デレデレするなんていうことは、絶対にあり得ないのだ。恥ずかしくて、口には出せないけれど。
「明日香さん。そろそろ、到着しますかね?」
と、僕は、窓の外を眺めながら聞いた。遥か下の方には、空港周辺の街並みが見えてきた。
僕は、今までの恐怖が嘘のように、飛行機を楽しむ余裕が出てきた。今まで、どうしてこんなに怖がっていたのだろうか? 人間、慣れてしまえば、だいたいのことは大丈夫なんだろう。と、僕は、一人で納得している。
「明宏君、知ってる?」
「えっ? なんですか?」
と、聞き返す僕に、明日香さんは、
「飛行機って、離陸や着陸のときの事故が多いらしいわよ」
と、僕にそっと、耳打ちをした。
「明日香さん。なんとか無事に、到着しましたね」
「そうね。それは、よかったわね」
僕たちは、無事に(そんなことは、当たり前だけど)空港に到着して、飛行機から降りていた。
東京の空港と比べると、やっぱり人が少ないな。
それにしても、飛行機の中での、客室乗務員さんが優しかったという一件のあとから、明日香さんの機嫌が、何故か悪いような気がするのだ。
どうしてだろうか? 僕が、何か、明日香さんの気にさわるようなことを、言ってしまったのだろうか?
うーん……。そんなことを言ったつもりは、まったくないのだけど。
「明宏君。この空港って、変わった名前が付いているのね」
と、明日香さんが、出口に向かって歩きながら言った。
「鳥取県って、有名な漫画家の人が多いみたいなんですよ。他の空港にも、有名なマンガの名前が付いているんですよ」
「ふーん。そうなの」
「明日香さん。これから、どうしますか?」
時計を見ると、11時を少し過ぎたところだった。
「すぐに、白川さんの家に、行ってみましょうか」
「分かりました。それじゃあ、どうやって行きますか? タクシーにしますか? それとも、レンタカーでも借りますか? あっ、先に言っておきますけど。電車やバスだと、不便だと思いますよ。一時間に、一本とか普通ですから。東京と同じ感覚でいると、困るかもしれませんよ」
長く東京で暮らしていると気づかないけど、本当に東京は便利だ。
「明宏君の実家は、ここから近いの?」
「僕の実家ですか? まあ、近いといえば近いですけど。それでも、歩いて行ける距離ではないですよ。家に、行くんですか?」
「ちょっと、聞いてみただけよ」
「そうですか」
「――それじゃあ、レンタカーにしましょう」
明日香さんは、少し考えると、そう言った。
僕たちが、レンタカーを借りに行こうと歩き出したときだった。僕は、空港の中に、知っている人物を見つけた。
「あれっ?」
「明宏君。どうかしたの?」
と、明日香さんが、僕の方を振り向きながら言った。
「あっ、いえ。今、あそこに――」
と、僕は、知っている人物を見かけた方向を指差そうとしたが、一瞬、明日香さんの方を見ている間に、その人物は、すでにいなくなっていた。
「あれっ? 気のせいかな?」
「誰か、知っている人でもいたの? 地元の知人?」
「いえ、松田さんが、いたような気がしたんですけど……」
「松田さん? 真由実さんの、お隣さんの?」
「はい。でも、気のせいですかね?」
こんなところに、いるはずがない。
「いても、おかしくないんじゃないかしら。山陰の方に出張だって、松田さんの上司の大久保さんが言っていたでしょう」
「あっ、そうでしたね」
「また、忘れていたのね。しっかりしてよね」
「すみません」
僕たちは、レンタカーを借りに向かった。
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