第6話
翌日――
今日は、朝から雨が降っていた。僕は、駅から傘を差し、足早に探偵事務所へと向かった。
7時50分に事務所に到着すると、今日は既に、明日香さんもやって来ているみたいだった。
まあ、明日香さんの部屋からは、階段を一階分下りるだけだから、来ようと思えば数秒で来れるのだけど。
「明日香さん、おはようございます。今日は、雨で濡れちゃいましたよ」
僕が事務所に入ると、明日香さんは、どこかに電話をかけているところだった。
「はい。分かりました。私の知り合いの方に、頼んでみます。それでは、後ほど、お伺いさせていただきますので。どうも、ありがとうございました。失礼します」
と、明日香さんは、電話を切った。
ずいぶん、丁寧に話していたけど、いったい誰に電話をかけていたんだろう?
「明日香さん、おはようございます。いったい、誰と話していたんですか?」
と、僕は、もう一度話しかけた。
「あら、明宏君、おはよう。ちょっと、待ってね。もう一回、電話をかけるから」
と、明日香さんは、再びどこかに電話をかけ始めた。
「おはようございます。桜井です。今日は、警部に、お願いがあるんですけど――」
どうやら、電話の相手は、鞘師警部のようだ。
「はい。あちらも、警察の人が立ち会うのなら、ということでしたので。こんなことを頼めるのは、鞘師警部しかいないので、警部に来ていただけると、ありがたいんですけど――」
鞘師警部に、何のお願いだろうか?
「警部、ありがとうございます。それでは、1時頃に、アパートの前でお待ちしています。住所は、これから明宏君に、メールで送らせますので。よろしくお願いします」
と、明日香さんは言って、電話を切った。
「明宏君。今すぐ鞘師警部の携帯電話に、真由実さんのアパートの住所を、メールで送っておいて」
「真由実さんのアパートの住所ですか? 分かりました」
僕は、自分の携帯電話で、真由実さんの住所と目印になるようなものを書いて、鞘師警部に送った。
「明日香さん。鞘師警部が、真由実さんのアパートに来るんですか?」
「ええ。1時頃に、大家さんも来てくれるわ。大家さんが、警察の人が立ち会うのなら、真由実さんの部屋を開けてくれるっていうことだから」
なるほど。最初にかけていた電話の相手は、真由実さんのアパートの大家さんか。
「1時ですか? まだ5時間もありますけど、それまでは、どうしますか?」
「そうね。ちょっと、確認したいことがあるから、これから出かけるわよ」
「どこにですか?」
「さあ、行くわよ」
明日香さんは、僕の質問に答えることなく、さっさと事務所から出ていった。
僕も、事務所から出てカギをかけると、あわてて明日香さんを追いかけた。
僕たちは、車で1時間近くかけて、とある出版社にやって来た。道に迷っている間に、雨は、すっかり止んでしまった。
「明日香さん。やっぱり、カーナビを付けてくださいよ。また、迷っちゃいましたよ」
「そんなお金はないって、いつも言っているでしょう。無事に着いたから、いいじゃない」
「いつも迷っていたら、ガソリン代の無駄ですよ」
「…………。そんなこと、明宏君に言われなくても、分かってるわよ」
最初の沈黙は、分かっていなかったということだろうか?
「明日香さん。どうして松田さんが、この出版社に勤めているって知っているんですか?」
確か、松田さんに勤め先など、聞かなかったはずだけど。
「明宏君は、やっぱり探偵としては、まだまだね。松田さんの部屋を、ちゃんと見ていないから分からないのよ」
と、明日香さんは呆れている。
「松田さんの部屋ですか?」
うーん……。明日香さんは、松田さんも疑っていたのだろうか?
正直、僕は松田さんを、そんなに疑ってはいなかったので、そこまでいろいろと見てはいなかった。
「なにか、ありましたっけ?」
「…………」
明日香さんが、無言で僕を見つめている。その視線が――かわいいなぁ……。いやいや、その視線が、痛かった。
「松田さんの部屋に、旅行用のカバンがあったでしょう? その横に、封筒がたくさんあったのを見なかったの?」
「封筒ですか?」
うーん……。言われてみれば、あったような気がする。
「その封筒に、この出版社の名前や住所が書いてあったのよ」
なるほど。そういうことか。僕は、全然、気にもとめなかった。
「すみません。見落として、いました」
「明宏君、しっかりしてよね」
「――はい」
僕は、しゅんとしながら、明日香さんと出版社の中に向かった。
「結構、大きな会社ですね。明日香さん。松田さんに、会うんですか? でも、松田さん、明日も別のところに出張するって、言っていましたよね?」
明日香さんともあろう人が、忘れていたのだろうか?
さっき、さんざん僕を叱っておきながら。
「分かってるわよ。松田さん本人に、用があるわけじゃないから」
「そうなんですか? 電話じゃ、いけなかったんですか?」
そうすれば、わざわざこんなところまで、来なくてもよかったのに。
「もしも松田さんがまだいて、電話を松田さんが取ったら、嫌だったのよ」
「なるほど。そういうことですか」
「ちょっと、あの人に話を聞いてみましょうか」
ちょうど、エレベーターから出てきた、40代くらいの男性社員と思われる人に、話を聞くことにした。
「すみません。こちらの、出版社の方でしょうか?」
と、明日香さんが聞いた。
「はい。そうですけど。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
と、男性社員は、僕たちを、なんだこいつらという目で見ている(ような気がする)。
「私、こちらに勤めている、松田さんの知り合いの者なんですけど。松田さんは、いらっしゃいますか?」
と、明日香さんは、にっこりと、満面の笑みを浮かべながら聞いた。
「ああ、松田ですか? 松田は、今日は確か、山陰の方へ出張だったと思いますよ。会社には寄らずに、同僚と朝一番の飛行機で行ったみたいですね」
山陰の方か……。
「そうですか。入れ違いに、なっちゃいましたか。実は、先週の土曜日にも、お会いしようと思ったんですけど、何でも、その日も出張だったとか」
「ああ、先週の土曜日ですか。その日は、私も一緒に、北陸の方まで出張だったんですよ」
「そうなんですか」
「はい。月曜日の夕方頃に帰ってきました。3時か4時くらいだったかな? 松田のアパートの前で、彼をタクシーから降ろして、私は会社に戻ったんですけど」
「それは、大変ですね」
「申し遅れましたが、私、松田の上司の
「インフルエンザですか。それは、大変ですね」
「ええ。日頃から、健康管理は、ちゃんとするように言っているんですけどね。インフルエンザのワクチンも、会社の方で、全員に受けさせていたんですけどねぇ」
インフルエンザか。僕は、ワクチンは受けていないけれど、インフルエンザになったことは、一度もない。
明日香さんには、受けた方がいいとは言われるけれど、一度もかかったことがないので、必要ないかなと思ってしまう。それでは、いけないとは思うけれど。
「それにしても、お綺麗な方ですね。松田とは、いったいどういうご関係ですか?」
と、大久保さんは、明日香さんの美貌に、くらくらしているみたいだ。
まあ、それは、世の中の男性として当然の反応だろう。
「ちょっとした、知り合いですよ」
と、明日香さんは笑った。
「もしかして――松田の、彼女かなにかですか?」
と、大久保さんは、何故か小声で聞いた。
「いえいえ、違いますよ。そこまでの関係じゃ、ないですよ」
と、明日香さんは笑った。
「そうですよね。松田は、もっと若い、20歳くらいの女の子が趣味って言ってましたからね」
と、大久保さんは、声をあげて笑った。
「…………」
大久保さんが笑っている横で、明日香さんは無言だった。
「――あっ! す、すみません」
そんな明日香さんの様子に気づいた大久保さんは、急に慌てだした。
「決して、あなたが若くないと言っているわけでは……」
いや、そう言っているも同然だ。
そこへ、若い女性社員が、やって来た。
「あっ、大久保さん。こんなところに、いたんですか」
「あ、ああ。ちょっと、タバコをすいにな……」
「部長が、お呼びですよ」
「分かった。すぐに、戻るよ」
「携帯電話の電源くらい、入れておいてくださいね。いくらタバコをすうのを、じゃまされたくないからって」
と、女性社員は言って、戻っていった。
「そ、それでは、私もこれで失礼します」
と、大久保さんは頭を下げると、エレベーターに乗り込み、戻っていった。
「…………」
明日香さんは、まだ無言で立っている。年齢のことを言われたのが、よっぽどショックだったのだろうか?
「――あ、あの……、明日香さん。そんなに、気にすることはないですよ。僕は、そんなこと、これっぽっちも気にしていませんから」
と、僕は優しく微笑んだ。
「――えっ? ごめんなさい、明宏君。何か、言った?」
と、明日香さんは、いつもと変わらぬ感じで言った。
「あっ、いえ……。そんなに、気にすることはないですよ――って」
しまった……。これは、逆効果だっただろうか?
「ええ……、それもそうかもね」
と、明日香さんは、うなずいた。
「そうですよ。人間、年齢じゃないですよ」
よかったぁ。逆効果じゃなかった。僕は、ホッと胸をなでおろした。
「そうよね。とりあえず、松田さんのアリバイは、確認できたんだからね」
「えっ?」
いまいち、明日香さんと話が噛み合わない。
「いくら、松田さんが、真由実さんくらいの年齢の女の子が好きだからといっても。松田さんが、どこかに、真由実さんを監禁しているなんて、私の考えすぎよね」
と、明日香さんは、再びうなずいた。
「そ、そうですよ! 松田さんが、真由実さんを監視している人物だったら、真由実さんのことを聞きに来た僕たちを、部屋に入れてくれるわけがないですよ」
そうか。明日香さんが気にしていたのは、自分の年齢のことじゃなくて、真由実さんのことだったのか。
「明宏君、あなた、何か勘違いしてない?」
ギクッ!
「べ、別に、そんな失礼な勘違いしていませんよ……」
「ふーん――。まあ、いいわ。一度、事務所まで帰りましょう」
「はい」
「松田さん、山陰に出張って言っていたけど、明宏君って確か、山陰の方の出身だったわよね?」
「はい。鳥取県です」
僕たちは、車に乗り込むと、探偵事務所まで帰ることにした。
さすがに、帰りは道に迷うこともなく、すんなりと探偵事務所の近くまで帰ってきた。
もう少しで、事務所に到着するというときに、明日香さんが口を開いた。
「――ねえ、明宏君」
「なんですか? 帰りは、道に迷っていませんよ。人生には、迷っているかもしれませんけど」
と、僕は、会心のギャグを言い放った。
「明宏君も――20歳くらいの、若い女の子が好きなの?」
「えっ?」
僕は、会心のギャグをスルーされ、想定外の質問をされたので、びっくりしてしまった。
「な、なんですか、いきなり。まだ、松田さんのことを疑っているんですか?」
「違――、え、ええ。ちょっとだけね」
うん? 今、一瞬、違うって、言いかけたんじゃ?
いや、僕の聞き間違いだろう。つっこんだら、明日香さんに怒られるかもしれない。
「でも、僕の意見なんか聞いて、参考になるんですか?」
「なるかならないかは、私が決めるわ」
「そうですねぇ……。僕は別に、そんなことは――」
僕は、明日香さんのことが好きです! と、面と向かって話すのは、さすがに恥ずかしい。
っていうか、明日香さんも、僕が明日香さんのことを好きだということは知っているじゃないか。
しかし、明日香さんは、僕を相手にしてくれない。やっぱり、年下の僕なんか、無理なんだろう……。
「でも、さすがに、5歳も10歳も上だと興味はない?」
「それは――」
と、こたえようとしたとき、明日香さんの携帯電話が鳴った。
「もしもし、明日菜?」
明日菜ちゃんからか。
「分かってるから――。えっ? 何よ?」
明日香さんの電話が終わらないうちに、事務所に着いてしまい、この話は、うやむやに終わってしまったのだった。
いったい、明日香さんは、何が聞きたかったんだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます