第5話
「えっ? そ、そういう、あんたこそ誰だよ」
その男性は、明日香さんに突然話しかけられて、とても驚いているようだ。
「すみません。もしかして、真由実さんの、お兄さんか彼氏さんですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「…………」
男性は、何故か黙り込んでいる。
そこへ、
「あっ! その人が、さっき話した、赤井さんのお兄さんですよ」
と、僕のあとに続いて外に出てきた、松田さんが言った。
この人が、真由実さんのお兄さん?
「ええ。そうですよね? 赤井さんが引っ越してこられたときに、一緒にあいさつに来られましたよね?」
と、松田さんが、男性に聞いた。
「――ああ。そうだけど」
と、男性は、ちょっと間をおいてからから言った。
今の間は、なんだろう? まるで、否定しようとしたけれど、知っている相手だったから、仕方なく認めたような感じがした。
しかし、真由実さんのお兄さんが、何故ここに? まあ、妹の部屋を訪ねてくること事態は、不自然ではないけれど。
「すみません。僕は、これから出かけるので、これで失礼します」
と、松田さんが僕に言って、出かけていった。
「どうも、ありがとうございました」
と、僕は、お礼を言った。
「真由実さんのお兄さんですか。ちょうどよかったです。少し、お話をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
と、明日香さんが聞いた。
「だから、あんた、誰だよ?」
と、真由実さんのお兄さんは、改めて聞いてきた。
「失礼しました。私は、こういう者です」
と、明日香さんは名刺を差し出した。
真由実さんのお兄さんは、右肩に大きなカバンをかけて、右手でカバンの紐を持っていたので、ポケットに入れていた左手を出して名刺を受け取った。右手がふさがっていたから、左手で受け取ったということで、別に左利きだというわけでは、ないかもしれない。しかし、いったい何が入っているんだろうか?
「探偵? 探偵が、何の用ですか?」
と、真由実さんのお兄さんは警戒するような目で、明日香さんと僕を交互に見ている。何も、そこまで警戒しなくても、よさそうなものだけど。
「お兄さんの、お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「名前? どうして、そんなことを――」
「何か、不都合でも?」
「いや、別に。
嫌がっていた割には、漢字まで教えてくれるのか。
「お兄さんは、今日は、どうして真由実さんのところへ?」
と、明日香さんは、改めて聞いた。
「どうしてって――兄貴が妹の部屋を訪ねて、何が悪いんだよ」
確かに、その通りだけど、お兄さんは、真由実さんがいなくなったことを知らないのだろうか?
「お兄さんは、真由実さんがいなくなったことは、ご存じですか? 私たちは、ある人の依頼で、真由実さんを探しているんです」
「――ああ、知ってるよ。ここの大家さんから、連絡があったんだ。今月の家賃を払ってもらいに、土曜日の夜と日曜日の昼にもいなくて、今日の昼も夕方もいないんだけど何か知らないかって。今まで、連絡なしで二日以上連続でいなかったことは、一度もないからって。大家さんは70過ぎの婆さんなんだけど、自分で車を運転して、家賃を現金で取りにくるんだ。それで、俺も真由実に電話をかけたんだけど繋がらないんだ。それで、様子を見に来たんだ」
「大家さんが、お兄さんの電話番号をご存じなんですか?」
と、僕は聞いた。
「真由実がここに入居するときに、聞かれたんだよ。何かあったときの為の連絡にって」
「そうですか。分かりました」
と、明日香さんは、うなずいた。
「それよりも、ある人の依頼って、誰だよ?」
「そこは、守秘義務がありますから。お兄さんとはいえ、お教えできません」
と、明日香さんは、きっぱりと言い切った。
明日香さんは、どうして明日菜ちゃんのことを言わないんだろう? まあ、確かに、守秘義務といえば、そうかもしれないけど。真由実さんの身内なんだから、教えてもいいのでは?
「お兄さんは、真由実さんの部屋の合鍵は、お持ちなんですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「いや、俺は持っていないよ。真由実自身が持っている分以外には、大家さんが持っているだけさ」
「そうですか、残念ですね。ぜひとも、中に入ってみたかったんですが――お兄さん、大家さんの連絡先を教えていただけますか?」
「どうして?」
「大家さんに開けてもらって、中を調べさせてもらうんです」
「どうして、そこまで? どこかに、旅行にでも行ってるだけかもしれないだろう? プロ野球好きだから、プロ野球でも見に行ってるんじゃないか?」
「今は、11月の下旬ですよ。プロ野球は終わっていますよ」
と、僕は言った。
「そうなのか? 俺は、野球なんか全然興味がないから、知らないんだよ」
と、お兄さんは笑った。
お兄さんは、真由実さんのことが、心配ではないのだろうか?
「お兄さんは、真由実さんが、誰かに監視されていると話されていたのは、ご存じですか?」
という明日香さんの言葉に、お兄さんの顔つきが変わった。
「――監視? いったい誰が? そういえば、そんなようなことを言っていたような……」
お兄さんは、みるみる顔を紅潮させていった。お兄さんも、監視している人物に、怒りを覚えているのだろう。お兄さんの気持ちは、僕にもよく分かる。
「お兄さん。真由実さんの、新しい交際相手って、ご存じないですか? 僕は、その相手が怪しいんじゃないかって思っているんです」
と、僕は聞いた。
「――そういえば、真由実が言っていたっけ」
「ご存じなんですね?」
と、僕と明日香さんは、同時に言った。
「俺も、そこまで詳しくは聞いていないんだけど。なんか、料理が苦手とかなんとか言っていたっけ」
「料理……、ですか?」
と、僕は聞いた。
「確か、フライを揚げるのが苦手とか、そんな話をしていたのを覚えているよ」
「フライ? 魚のフライとかですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「そうだと、思うけど」
魚のフライか――
僕は、苦手どころか、そもそも挑戦したことすらない。やっぱり、今の時代は、男も料理の一つくらいできないとなぁ。
「その他に聞いていることは、ありませんか?」
「他は特に……。俺も、よく聞いていなかったから。妹の彼氏の話なんて、興味がないし……」
と、お兄さんは笑ったけど、どう見ても、目は笑っていなかった。
妹の彼氏に、嫉妬でもしているのだろうか? それだけ、妹のことがかわいくて、たまらないのだろう。
お兄さんの為にも、早く真由実さんを見つけないと。
「でも――。あんまりうまくいっていないようなことは、言っていたかな」
と、お兄さんは、思い出したように言った。
「それは、いつ頃のことですか?」
「一ヶ月くらい前かな。真由実に会ったときに、そう言っていたな」
「その後、真由実さんには会われましたか?」
と、明日香さんが聞いた。
「いや、その後は、会っていないし、電話もしていないよ」
「そうですか、一ヶ月前ですか」
と、明日香さんは、うなずいた。
「それじゃあ、大家さんの連絡先を教えてください」
と、僕は言った。
「それと、お兄さんの連絡先もね」
と、明日香さんが言った。
僕は、お兄さんから、大家さんと、お兄さんの連絡先を教えてもらうと、手帳にメモをした。
「明宏君、これから行ってみましょうか」
と、明日香さんが言った。
「はい。分かりました」
「いや、今日は、もうやめといたほうがいいぜ」
と、お兄さんが言った。
「どうしてですか?」
と、僕は聞いた。
「大家の婆さん。夜は、めっちゃ早く寝るらしいぜ。明日にしておいたほうがいいよ。ここから、結構遠いし」
「そうですか」
「明宏君。それじゃあ、明日の朝にしましょうか」
と、明日香さんが言った。
「分かりました」
と、僕は、うなずいた。
「お兄さんも、ご一緒にどうですか?」
と、明日香さんが、お兄さんに聞いた。
「一緒に? 何を?」
「明日、一緒に、大家さんのところに行きませんか?」
「――俺は、いいよ」
「そうですか。でも、妹さんのことが、心配でしょう?」
「それは心配だけど、仕事があるからな。忙しくて、土曜日や祝日も休めないんだよ。それに、人探しは、あんたたち探偵の専門だろう? あんたたちに任せるよ」
「そうですか。分かりました」
「それじゃあ俺は帰るから、あとは頼んだよ。何か分かったら、連絡をしてくれ」
お兄さんの期待に応えて、明日からがんばろう。
「それにしても、お兄さん。大きなカバンですね」
と、僕は、さっきから気になっていたことを聞いてみた。
「ああ、これかい? 別に、何も入っていないよ」
と、お兄さんは笑った。
「あっ、そうなんですか」
てっきり、何か凄い物でも入っているのかと思った。
「お兄さん。お帰りでしたら、もしよろしければ、車で送りましょうか?」
と、明日香さんが言った。
「いや、いいよ。俺も、車で来てるから」
と、お兄さんは、一台の乗用車を指差した。明日香さんの軽自動車の隣に、黒い乗用車が一台停まっていた。
「ああ、そうなんですね」
何故か明日香さんは、ちょっと驚いているみたいだった。
「それじゃあ、俺は、これで」
と、お兄さんは言うと、車に乗って帰っていった。
「明日香さん。僕たちも、そろそろ帰りましょうか?」
「…………」
明日香さんは、お兄さんの車が走り去って行った方向をじっと見つめながら、何か考え込んでいる。
「――明日香さん? どうかしましたか?」
「――えっ? ううん。何でもないわ」
と、明日香さんは、首を横に振った。
「明宏君。何を、ぐずぐずしているのよ。もう、帰るわよ」
と、明日香さんは、さっさと車の助手席に乗り込んだ。
えっ? 僕が、怒られるの? どうして?
僕は、その言葉を、そっくりそのまま、明日香さんに言い返したかったけど、もちろん言わなかった。
それにしても、明日香さんの怒った顔も、やっぱりかわいいなぁ。
僕たちが、午後7時過ぎに探偵事務所に帰ってくると、事務所の電気が点いているのが見えた。たぶん、明日菜ちゃんが来ているんだろう。明日菜ちゃんは、ここの合鍵を持っている。
ちなみに、探偵事務所の合鍵を持っているのは、明日香さんはもちろんのこと、僕と明日菜ちゃん、それと明日香さんたちのお父さんも当然持っているので、全部で四つだ。
真由実さんの部屋の合鍵も、それくらいあれば、お兄さんも持っていただろうに。
「明日香さん。明日菜ちゃんが、来ているみたいですね」
まさか、お父さんが来ているわけはないだろう。一度も、来たことがないから。
「そうね」
と、明日香さんが、うなずいた。
僕たちが階段を上がり事務所に入ると、そこにはやっぱり明日菜ちゃんが待っていた。
「お姉ちゃん、明宏さん、おかえりなさい」
と、明日菜ちゃんが出迎えてくれた。
「明日菜ちゃん、ただいま」
「明日菜、いつから待っていたの?」
「私も、ついさっき来たところよ。電話をかけてみようかと思ったけど、大事なお仕事中だったらまずいかなって思って、ここで待っていたの」
「明日菜ちゃん、ごめんね。僕も、明日菜ちゃんに連絡をしなきゃって思っていたんだけど、ついついかけそびれちゃって」
と、僕は、明日菜ちゃんに謝った。
「ううん。大丈夫よ、明宏さん。私も、仕事中だったし」
「マネージャーさんにでも、電話をすればよかったんだけど――」
「あっ、今日、マネージャーの松坂さん、風邪でお休みだったから。松坂さんにかけても、私には繋がらなかったけどね」
「そうなんだ」
「だから、今日は新人のマネージャーさんが付いてくれたんだけど、結構大変だったわ」
と、明日菜ちゃんは笑った。
「松坂さん、土曜日から体調が悪かったみたいで、途中で帰っちゃってたみたいなの。私、土曜日は夕方から事務所でインタビューとか打ち合わせとかいろいろやって、そのまま帰ってきたから、松坂さんが風邪だって知らなかったの。事務所のどこかに、いるのかと思ってたわ」
「明日菜ちゃんは、大丈夫なの?」
「私は、いつも元気よ」
「まあ、何とかは風邪をひかないって言うからね」
と、明日香さんが笑った。
「そうだ。二人とも、ご飯食べた?」
と、明日菜ちゃんが聞いた。
「いや、まだだけど――」
「よかったぁ。私、お弁当もらってきたの。食べない?」
弁当か。これは、ありがたい。昼食が遅かったとはいえ、もう、お腹がペコペコだ。
「もちろん、食べるよ」
「お姉ちゃんも、食べるでしょう? 結構、高いお弁当よ」
「ええ。いただくわ」
「それじゃあ、お姉ちゃんの部屋で、レンジで温めてくるね。食べながら、今日のことをおしえてね」
と、明日菜ちゃんが、お弁当を持って、三階の明日香さんの部屋に向かった。
明日菜ちゃんは、明日香さんの部屋の合鍵も持っている。当然だけど、僕は、明日香さんの部屋の合鍵は持っていない。
――そっちの合鍵も、ほしいなぁ……。
「そうなんだ。真由実の、お兄さんにも会えたんだ」
「うん。偶然にね」
と、僕は弁当を食べながら言った。
「それじゃあ、その真由実の新しい彼氏が、真由実を監視していたっていうこと? でも、どうして彼氏が?」
「さあ……。それは、分からないけど……」
「もしかして、真由実にふられて、ストーカーにでもなったのかしら?」
なるほど。明日菜ちゃんの、言う通りかもしれないな。一ヶ月くらい前から、うまくいっていなかったと、お兄さんも話していたし。
僕が納得していると、
「明宏君も明日菜も、まだ、そうだと決まったわけじゃあ、ないわよ」
と、明日香さんが言った。
「でも、お姉ちゃん。他に、誰がいるっていうのよ?」
と、明日菜ちゃんは反論した。
「――それは、まだ分からないわ。まだ、私たちがたどり着いていない人物かもしれないし。もしかしたら――」
明日香さんは、そこまで言うと、口を閉じた。
「もしかしたら?」
と、明日菜ちゃんは聞き返した。
「明日菜は、そんなこと、気にしなくてもいいの」
「どうして? 私が依頼人なんだよ?」
と、明日菜ちゃんは不満そうだ。
「依頼人は依頼人らしく、おとなしく待っていなさい」
「なによ、それ」
と、明日菜ちゃんは、不服そうに、ほっぺたをプクッと膨らませた。テレビでも見せるその表情は、とてもかわいらしかった。
「明宏さんも、なんとか言ってよ」
「えっ? 僕? ――うーん……。そう言われてもねぇ……」
「明宏君も、余計なことは言わなくてもいいから」
「はい」
ハハッ。板挟みだ。どうしよう?
たぶん、明日香さんが言いかけたことは、『もしかしたら、今日会った人物の中に、真由実さんを監視している人物がいるかもしれない』ということだと思う。
しかし、明日菜ちゃんに、それを言ってしまうと、明日菜ちゃんが自分で勝手に調べて、会いに行くようなことをするかもしれないと、心配をしているのだろう。
「明宏さんも、お姉ちゃんの味方をするのね?」
「いやぁ……。どっちの味方とか、そういう問題では……」
「もうっ! 分かったわよ。おとなしく待っているから、何か分かったら、ちゃんと私にも教えてよね」
「もちろん。依頼人には、ちゃんと報告するわよ」
「約束だからね」
なんとか、話がまとまったみたいだ。僕は、ホッと息をついた。
「ねえねえ、明宏さん。真由実の彼氏って、どんな人なの?」
と、明日菜ちゃんが、興味津々で聞いてきた。
「お兄さんの話だと、料理が苦手な人っていう話だよ」
「ふーん。そうなんだ」
「フライを揚げるのが、苦手なんだって」
「フライ以外は、得意なの?」
「さあ? そうだったら、苦手とは言わないんじゃない?」
「それもそうね。明宏さんは、お料理できるの?」
「僕は、正直……」
一人暮らしも長くなってきたけど、卵を焼いたりとかはできるけど、フライを揚げたりは、やろうとすら思わない。
「明宏さん。お料理くらいできた方がいいわよ」
「そうだなぁ……」
と、僕が考えていると、明日菜ちゃんが僕の耳元で、
「お姉ちゃんも、喜ぶから」
と、そっとささやいた。
「――えっ? そ、それは、どういう意味?」
明日香さんが、喜ぶとは?
僕は、急に、ドキドキしてきた。
「明日菜も明宏君も、何をこそこそ話しているのよ?」
と、明日香さんが、こっちを睨んでいる。
「あ、いえ……。大したことでは……」
「明宏さんも、料理がやりたいんですって」
と、明日菜ちゃんが、とんでもないことを言い出した。
「明宏君が?」
「い、いえ、そんなことは……。ちょっと、明日菜ちゃん」
急に、何を言い出すんだ。
「お姉ちゃんに、作ってあげるって」
「私に? ――うーん……。遠慮しておくわ。食中毒が怖いわ」
と、明日香さんは拒否した。
しかし、明日香さんが少し嬉しそうに見えたのは、気のせいだろうか?
ま、まさか! 僕に、事務所の掃除をさせるだけではなく、炊事まで押し付けるつもりなのか?
…………。それはそれで、嬉しいかも?
「それじゃあ、私、明日は早いから、これで帰るね」
と、明日菜ちゃんが言った。
「明日菜ちゃん、気をつけてね」
と、僕は言った。
「明日菜、あなたは心配しなくてもいいからね。私たちに、任せておいて」
と、明日香さんが言った。
「うん。お姉ちゃん、ありがとう。おやすみなさい」
「明宏君も、今日は、もういいわよ。明日も、8時にね」
「あっ、はい。お疲れ様でした」
僕は、明日菜ちゃんと一緒に、探偵事務所をあとにした。
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