第2話
僕と明日菜ちゃんは、学生たちの人ごみを抜け出し、大学の駐車場に戻ってきていた。ここにも、数人の学生と思われる人たちがいたが、幸いにも明日菜ちゃんの存在に気づく人はいなかった。
「あぁ、びっくりした。あんなに囲まれるとは、思わなかったよ」
僕は改めて、明日菜ちゃんが人気モデルであることを思いしらされた。
「私も驚いたわ。こんな場所に来たことは、なかったから」
明日菜ちゃん自身も、驚いているみたいだ。
しかし、よく考えてみれば。ここは明日菜ちゃんのファン層である、若い女性たち(男性もだけど)が大勢いる大学である。見つかればこういう事態になることは、事前に想定できたはずだ。
僕も明日香さんも、特に何も考えずに明日菜ちゃんを一緒に連れて来たことは、反省せねばいけないだろう。
あっ、そういえば、明日香さんは、どうしただろうか? 愛する明日香さんを、身代わりのように置いてきたことを後悔していた。
「もしもし、お姉ちゃん?」
明日菜ちゃんが、明日香さんに電話をかけている。
「お姉ちゃん、今どこにいるの? 私たちは、駐車場にいるわ――。うん。分かった。明宏さんに伝えておくわ」
伝えておく? いったい、何だろう?
明日菜ちゃんは、電話を切った。
「明宏さん。お姉ちゃん、すぐに来るって」
なんだ、伝えておくって、そんなことか――
僕は、少しホッとした。
「それから――」
それから?
「よくも、私を置いて逃げたわね。どうなるか、覚えてらっしゃい。クビにしてやるから――。ですって」
と、明日菜ちゃんは真顔で言った。
「…………」
ヒーッ! 本当にクビになった……。
鞘師警部、助けてくださぁーい!
「明宏さん? 大丈夫? 冗談よ。クビにするとまでは、言ってないから」
僕は頭が真っ白になり、明日菜ちゃんの声も耳に入ってこなかった。
「なんで、明宏君をクビにするのよ? 私、そんなこと言ってないわよ」
と、明日香さんが言った。
明日菜ちゃんが電話を切ってからすぐに、明日香さんも駐車場に戻ってきていた。
「ほ、本当ですか?」
「何? クビになりたいの?」
僕は、無言で首を横に振り続けた。
「それにしても、私だけ置いて逃げるなんて、二人とも酷いじゃない」
「明日香さん、すみませんでした。でも、明日菜ちゃんを連れ出さないと、もっとパニックになりそうだったんで……」
と、僕は、明日香さんに謝った。
「お姉ちゃん。私が明宏さんと手を繋いだから、やきもちをやいてるんでしょう?」
と、明日菜ちゃんが言った。その瞬間に、車のクラクションが『ブーッ』と鳴った。僕の立っている位置が、車の通行に邪魔だったみたいだ。僕は、慌てて移動した。
「バ、バカなことを言わないでよ。そ、そんなわけ、ないでしょう」
と、明日香さんは、顔を赤くしている。
クラクションの音で、明日菜ちゃんが、なんて言ったのか分からなかったな。明日香さんは、なんで顔を赤くしているんだろう? 風邪でもひいたんだろうか?
そうか――
顔を真っ赤にするほど、明日香さんは本気で怒っているのだろう。
「素直じゃないんだから」
と、明日菜ちゃんがつぶやいた。
素直じゃない? そうか、もっと素直に、ちゃんと謝れと、明日菜ちゃんは僕に言っているんだ。
きっと、そうに違いない。明日菜ちゃん、こんな僕にアドバイスをありがとう!
これは、すぐに実践せねば。さっそく僕は、明日香さんの正面に立つと、
「明日香さん。明日香さんを置いて明日菜ちゃんと二人で逃げてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
と、僕は深々と頭を下げた。
うーん……。明日菜ちゃんととは、言わない方がよかったかな?
これじゃあ、明日菜ちゃんに責任を押しつけているみたいに、とられるかもしれない。
「な、何よ。そこまでしなくてもいいわよ。気持ち悪いわね」
と、明日香さんは、若干、引きぎみだ。
あれ? 明日菜ちゃんのアドバイス通りに、やったつもりなんだけどな。
まあ、明日香さんの怒りもおさまったみたいだし。よかったよかった。
僕は、明日菜ちゃんに向かって、ありがとうという意味で、右手の親指を立ててみせた。そんな僕に、明日菜ちゃんは、首をかしげていた……。
「明日菜、あなたは、もう帰りなさい」
と、明日香さんが言った。
「えっ? どうして?」
「あなたがいると、調査にならないわ。お昼から、仕事もあるんでしょう?」
「そうだけど……。もうちょっと。あと一時間くらいは――」
明日菜ちゃんは、まだまだ帰りたくないみたいだ。
「明日菜。あなたの気持ちは分かるけど、ここは私と明宏君に任せて。何か分かったら、マネージャーの松坂さんの携帯にでも連絡をするから」
と、明日香さんは、明日菜ちゃんを説得している。
「――うん。分かった……」
と、明日菜ちゃんはうなずいた。
僕は、明日香さんが、『私と明宏君に任せて』と、僕の名前も出してくれたことが嬉しかった。明日菜ちゃんの為にも、絶対に真由実さんを無事に見つけよう。
「それじゃあ、大学前のバス停まで送って行くから、明日菜は、それで仕事に行きなさい」
と、明日香さんが言った。
「えっ? いいよ。一人で行けるわよ」
「だめよ。明日菜のことだから、帰ったと思わせておいて、こっそり付いてくる可能性があるから」
「そんなことしないわよ。お仕事に、遅れちゃうじゃない。私、こう見えても、遅刻したり休んだりしたことないんだから」
「つべこべ言わずに、行くわよ」
と、明日香さんは、無理やりバス停に付いて行った。仕方がないので、僕も二人のあとを追った。
「それじゃあ、お姉ちゃん、明宏さん。あとは、よろしくね。絶対に、真由実を見つけてね」
「明日菜ちゃん、僕たちに任せておいて」
明日菜ちゃんは、バスで帰っていった。
「明日香さん、これからどうしますか?」
「そうね――。少し早いけど、お昼にしましょうか」
僕は、腕時計に目をやった。11時50分か。そこまで、早すぎるということもないだろう。注文をしてから料理が出てくれば、ちょうどいい時間だ。
「あそこに、行きましょう」
明日香さんの指差す先、道路の反対側に中華料理店がある。
「いらっしゃいませ! 申し訳ありませんが、10分くらいお待ちいただけますか?」
お昼時ということもあって、店内は多少混雑していた。大学の前ということもあって、お客さんの大半は、大学生のようだ。もう少し遅ければ、10分待ちどころでは、ないだろう。
僕たちが、入り口横のイスに座って待っていると、あとから入ってきた男性が、僕に話しかけてきた。
「あの、すみません」
「はい。なんですか?」
「先ほど一緒におられた女性は、もしかして、モデルのアスナさんですか?」
と、その男性が聞いてきた。
明日菜ちゃんの、ファンだろうか? もしもファンなら、正直に話すと面倒なことになるかもしれない。
僕が考えていると、
「あの、失礼ですけど、あなたは?」
と、明日香さんが聞いた。
「これは大変失礼しました。申し遅れましたが、私は、そこの大学の野球部の元主将で四年生の、
と、阿部さんは頭を下げた。
「間違いだったら申し訳ありません。私の知人が、アスナさんの同級生だと話していたもので、もしかしたら、彼女に会いに来られたのかと思ったので」
知人が、明日菜ちゃんの同級生? それって、もしかして――
僕は、明日香さんと、顔を見合わせた。
「明日菜は、私の妹です。阿部さん。その知人って、もしかして、この女性ですか?」
と、明日香さんが、明日菜ちゃんから預かった写真を見せた。
「アスナさんの、お姉さんですか。一緒に写っているのは、アスナさんですね。私の知人は、こっちの赤井真由実さんです。高校生の頃の写真ですか? 今と、あんまり変わりませんね」
そうだ。真由実さんは、野球が好きだった。最初から、野球部の関係者に当たればよかったんだ。
「阿部さんは、真由実さんとは、どういう関係ですか? もしかして、彼氏とか?」
と、僕は聞いた。
もしも阿部さんが彼氏なら、阿部さんが真由実さんを監視している人物かもしれない。――いや、彼氏じゃなくても、その可能性は否定できないけど。
「いえ、私は彼氏ではないです。赤井さんは、私の野球部の後輩と付き合っていました」
「付き合っていましたっていうことは、今は別れたということですか?」
と、僕は聞いた。
「そうですけど――。何故、そんなことを聞くんですか?」
と、阿部さんは不思議そうな顔をしている。
「それは――」
どうしよう。素直に、話すべきだろうか?
僕は、明日香さんの方を見た。ここは、明日香さんの判断に任せるべきだ。
「阿部さん。私は、探偵の桜井明日香と言います」
明日香さんは名刺を一枚取り出すと、阿部さんに渡した。明日香さんは、阿部さんが真由実さんを監視している人物ではないと、判断したみたいだ。
「僕は、助手の坂井明宏です」
ちなみに、僕は名刺を持っていない。明日香さん曰く、『明宏君に、名刺は百年早い』ということらしい。僕も、早く明日香さんに認められる探偵になりたい。
「探偵? どういうことですか?」
阿部さんは、ますます不思議そうな顔をした。
「実は、真由実さんの所在が分からないんです。明日菜が、先週の金曜日に偶然出会って、真由実さんに誰かに監視されているので、相談にのってほしいということだったみたいなんです。そのときは、監視をしている相手が誰かは聞けなかったみたいなんです。ですが、真由実さんの口ぶりから、真由実さんが昔から知っている人物だと、私は思っているんです」
「なるほど――。その人物が、赤井さんの交際相手の可能性があるということですね?」
「はい。もちろん可能性があるだけで、その交際相手だとは限りませんが」
「――分かりました。そういうことなら、お話しましょう」
「ちなみに、今日は真由実さんに会いましたか?」
と、僕は聞いた。
「いえ、今日は会っていないですね。最近は、ほとんど会っていないんですよ。たぶん、ここ数ヶ月は会っていないかもしれません。時々、大学内でチラッと見かけたことは、ありますけど」
「そうですか……」
「それじゃあ、場所を移動しましょうか」
と、明日香さんが言った。
僕たちは、近くのカフェに場所を移した。
「あれ? 阿部さん、その包帯は、どうかされたんですか?」
と、僕は聞いた。
阿部さんの左手の親指に、包帯が巻かれていた。
「ああ、これですか? ちょっと、料理中に火傷をしてしまいまして」
「阿部さん、料理をされるんですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「最近、始めたばかりで、まだまだ下手くそなんですが」
「すごいですね。僕は、全然できないですよ」
と、僕は言った。
「明宏君。今の時代は、男も料理くらいできないと」
と、明日香さんが言った。
そうか――。料理くらいできないと、明日香さんにも好かれないかなぁ……。僕も、がんばろう……。
「阿部さん。それでは、真由実さんの交際相手について教えていただけますか?」
と、明日香さんが言った。
「赤井さんは、野球部だった、
「野球部だったというのは?」
と、僕は聞いた。
「黒崎はピッチャーだったんですが、練習中に肘を故障して、野球を辞めたんです。それが、二年生の秋でしたから、今からちょうど一年前ですね」
「それで、二人は、どうして別れたんですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「一言で言うなら、黒崎の浮気ですね」
「浮気ですか――」
と、明日香さんが不快感を示した。
「ええ。黒崎は、肘を壊して野球を辞めないといけなくなったときに、自暴自棄になりまして。酒に酔った勢いで、違う女性とホテルに行ったんです」
「最低ね」
と、明日香さんが言った。
「まったく、その通りです」
と、阿部さんは、うなずいた。
「自暴自棄になる気持ちは、分からなくもないですが、それとこれとは別問題です。黒崎も反省して、赤井さんに謝ったんですが、赤井さんは許しませんでした」
「そんなの、当然よ。私だって、許さないわよ」
と、明日香さんは怒っている。
「本当ですね。僕は、絶対に浮気なんかしませんよ」
と、僕は、どさくさにまぎれて、明日香さんにアピールしてみた。
「そういうアピールする男ほど、私は信用できないわね」
逆効果だったみたいだ……。
「それで、二人は、その後は?」
と、僕は聞いた。
「黒崎は、今は新しい彼女がいるみたいですね。ただ、黒崎にも、野球部を辞めてからは、あまり会っていないので、詳しいことは分からないです」
「黒崎さんは、今、大学内にいらっしゃいますか?」
と、明日香さんが聞いた。
「どうでしょうか――。分からないですね。電話をしてみましょうか?」
「お願いします。ただ、真由実さんと連絡が取れないということは、言わないでください。あくまで、黒崎さんに、ちょっとお話をお聞きしたい人がいるということで」
と、明日香さんが言った。
「お待たせしました。黒崎は、今日は来ていないみたいです。というか、最近は休みがちのようですね。今は、ホテルのレストランで、彼女と食事中のようです」
「ホテルのレストランですか?」
と、僕は聞いた。
大学生が、ホテルのレストラン?
「ええ。なんでも、今の彼女が、いいところのお嬢様らしいです」
なるほど。彼女のお金というわけか――
「今すぐ来てくれたら、少しだけなら話を聞いてくれるそうです。探偵さんだということも、ふせておきましたので」
「阿部さん、ありがとうございました」
僕たちは、阿部さんにホテルの場所を聞くと、車で向かうことにした。
結局、昼ごはんを食べそこねてしまったな。
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