EX4 清楚な土曜
太陽が鬱陶しい6月のとある土曜日。
俺は1年A組の三大美女の一人、
クラスのみんなで遊びに出かけているわけではない。ここにいるのは俺と安土さんだけ。なお、人以外もカウントするなら安土さんのペットのチワワもいる。
容姿端麗、文武両道、品行方正。それに加えて家は金持ちなお嬢様。
非の打ちどころがない完璧人間ともっぱらの噂の安土さん。
――話は数十分前に遡る。
***
その日、俺はいつもランニングで使っている公園に来ていた。
といっても今日はランニングではなく、筋トレが目的だ。
この公園にはアスレチック広場と呼ばれる場所があり、まあ文字通りアスレチックがいくつかある。
そこで体を動かすもよし、広場の端っこにある筋トレ用具で筋肉を鍛えるもよし。
俺のように家に筋トレマシーンがない人間にとっては鍛えづらい筋肉をトレーニングできるありがたい場所なのだ。
とはいえ、ここには土曜日しか来ない。平日に来ると、遊びに夢中になって学校に遅刻してしまうからだ。一度経験しているから間違いない。
「ふわぁ……5時はさすがに眠い……」
アスレチックは子供向けのものばかり。そのため、朝のかなり早い時間に来ないと子供でごった返してトレーニングどころではなくなってしまう。
早く着たおかげでいつも通りガラガラのアスレチック広場で体を動かし、今日はもう帰ろうかというところで、
「ワン!ワン!」
少し離れたところから、やけに響く犬の鳴き声が聞こえてきた。
いつもなら無視して帰るところだが、なんとなく気になった俺はそちらに足を運んだ。
そこでは、
「いいだろお嬢ちゃん。散歩なんかより楽しいこと教えてやるからよ」
「そうだそうだ、カズちゃんのテクニックは本物だから安心しろって」
「い、いえ……結構ですので」
「そう言わずにさぁ!」
質の悪いナンパが行われていた。
俺と同じくらいの年の不良男子が、3人ほどで一人の女の子を取り囲みしつこく遊びに誘っている。だが、女の子の反応を見れば本気で嫌がっているのはすぐに分かった。
女の子の足元では、彼女が散歩させているのであろうチワワが、飼い主の身を守るために何度も声を出している。
さっきの犬の声はあのチワワのものだったらしい。
そんな、見るからに助けが必要そうな場面に偶然にも立ち会った俺は、気づけばこう叫んでいた。
「早すぎない!?」
他に言うことあるだろと言われたような気もするが、だってどうしてもこれを言いたかった!
公園備え付けのアナログ時計は6時ちょっと前を差している。空気は澄み切り、すがすがしい一日の始まりを予感させていた。
――そんなモノローグが似合うこんな時間帯になにやってんだよ!そういうのって人で溢れる昼の町中でやるものだろ!朝の公園でやることじゃねえよ!
そんな魂の叫びが、どうにもガラの悪い3人と囲まれた女子、さらには犬にまで届いてしまったようで全員がこちらを見つめていた。
……こうなってしまえば仕方がない。
「どこ探してもいないと思ったらこんなとこに居たのかよー。まったく探させるなよなー」
ナンパされてる女の子の助け方の王道Ver。
意外と自然にできたことに驚きながら、俺はあえてナンパしている3人を意識から外しながら女の子に近づいて行った。
「……
近づき、顔がよく見えるようになって初めて気づく。
今囲まれていた女子はクラスメイトの
安土さんと言えば、1年A組の三大美女の一人だ。
ちなみに残り二人はランニング仲間の
月ちゃんが入っていないことに異議を唱えたいところではあるが、月ちゃんが美少女と認識されるのも嫌だというこの面倒な矛盾をどうにかしたい今日この頃である。
安土さんは白いワンピースに麦わら帽子という、『THE・清楚!!』という感じの服装だった。確かに街に居ればナンパしたくなる気持ちも分かる。
「そうだよ、てぃ、
不良たちの間にぬるっと割り込み、安土さんの手を取る。そのまま自然な流れでこの場を離脱しようと……。
「ちょっと待てやこら」
当然のように不良たちに道を阻まれた。
……さてどうしよう。何も考えていなかった。
「お前なに何事もなかったかのように行こうとしてるんだよ。もうちょっと周り見ろや」
不良三人は俺と安土さんの二人を囲むように配置を変える。完全に逃げ道を絶たれ、冷や汗が流れてくる。
ほんとどうしよう、喧嘩とか一回もしたことないから力ずくで突破できる気もしないし、かといってこんな朝早い誰もいない時間では助けを呼ぶこともできない。
俺の返答を待つ不良。安土さんの足元で吠えるチワワの声だけがやけに響いている。
「あの」
緊迫した状態の中で声を出したのは、俺でも不良たちでもなくなんと安土さんだった。
安土さんは俺の手を振りほどくと、疑問に満ちた表情でこちらを見てきた。
一体どうしたんだろう、この状況で何を……。
「私、紅野くんと約束した記憶ないんですけど……勝手なこと言わないでもらえますか?今この人たちとお話ししてたので、どこか行きたいところがあるのならお一人でお願いします」
「俺の行動理解してもらえてない!?」
安土さんの発言に俺だけでなく不良たちも驚く!
相当分かりやすい行動したはずなんだけど……。くっ、やはりどんな物事も言葉にしないと伝わらないのか!でも今回くらいは伝わってほしかった!
「いや、あのね?約束とかしてないけど……ほら、よくあるじゃん。ナンパされてる女の子を通りがかった人があらかじめ約束してた風にして助けに入るやつ」
「……助けなんて必要としてませんが?」
「おおう、まさかの切り返し。どうしよう不良さん」
「帰れよ」
そっけなく言われてしまいさすがに心が折れ掛ける。思わず俯いて下を見れば、目が合ったチワワにこれでもかと吠えられた。
……泣きたい。
「しかし、この状況で助けを必要としないなんてな。なんだよお嬢ちゃん。なんだかんだ言いながら、股開くのは嫌じゃないってか?」
「それもありえません。私一人でどうとでもできると言っているんです」
「……ほう、ずいぶんと大きな口叩くじゃねえか。この状況でどうしようってんだ?」
「それは……」
助けを求めない、なんて言った割には方法は考えてないらしい。返す言葉に力はなく、その続きが語られることもない。
「ワン!ワン!」
相変わらず、吠え続けるチワワ。再度視線を向ければさきほどと同じように俺に対して吠え続けていた。
……こいつは俺を敵と認定しているのだろうか。
そう考えた時だった。
安土さんの震える手が、俺の裾を掴んだのは。
それを見た瞬間、すべてが繋がった気がした。
頭がいいはずの彼女が、分かりやすい俺の演技に乗らなかった理由。
――俺を巻き込みたくなかったから。
ペットのチワワが不良たちにではなく俺に吠えていた理由。
――飼い主を助けてくれと、伝えたかったら。
どちらも確証はない。俺の都合のいい解釈だ。
けれど、これで逃げるなんて選択肢を選ぶようであれば、俺に月ちゃんを口説く資格などない。
「ちっ、さっきからうるせえな。この犬」
不良のリーダーと思われる男がチワワに手を伸ばす。なにをするつもりか分からないが、少なくとも可愛がる目的でないことだけは確かだ。
安土さんが『あっ』と声を漏らす。けれど、恐怖に震える彼女はそれ以上のアクションを起こせない。
……俺だけしか動けない。だが逆に言えば俺は動ける!
考えろ思考を止めるな解決法をもぎ取れ。力で突破できないのなら説き伏せろ!
「ふっ、お前らに良いことを教えてやろう」
思いついた言葉をそのまま口にする。不良のリーダーは俺の言葉を聞き流し、こちらを見ることすらなくチワワに手を伸ばす。
頭を回せ、言葉を紡げ、この場を嘘で塗り固めろ、流れを掌握してみせる!!
そして神に祈れ。
「チワワの口が小さいのは――肉を効率的に噛み千切るためだ」
――こいつらが、見た目通りの馬鹿であることを!
「ワン!」
「!?」
まるでタイミングを合わせたように、チワワが不良の手に噛みつこうとする。
いつもであれば気にも留めないのだろうが、なにぶん俺の言葉とチワワの行動のタイミングが良すぎた。不良はさっと勢いよく手を引き、数歩後ずさる。
「お、おいカズちゃん!なにビビッてんだよ!」
「ばっ、馬鹿野郎ビビッてねえよ!つうかてめえ適当なこと言ってんじゃねえよ!!」
「ほう、じゃあお前は俺の言葉が嘘と言えるくらいにチワワのことに詳しいのか?」
「い、いや……」
あまりにも自信にあふれた俺の態度に、不良たちは強く出れないようだ。ただ一人、俺の言ったことが嘘だと分かる安土さんは冷めた目で俺を見ているが、そこは気にしたら負けだ。
「他の犬が体や口を大きくさせ『噛みつく』という進化を選んだのに対し、チワワは自分を小さくすることで『噛み千切る』ことに特化した。速さで相手を翻弄し、その小さな口で相手の肉を引きちぎって弱体化させる。見た目にそぐ合わない残虐性を持つことから、リトルケルベロスの名を持つ」
「ワンワンワン!!」
思い付きの説明に、タイミングばっちりの威嚇。
不良たちは驚くほどの馬鹿なのか、それとも朝だから頭が回っていないのか分からないが、不良は三人ともが完全にチワワにビビッていた。
「チ、チワワがなんだ!!三人でいきゃどうでもできるだろ!!」
「そうだ!カズちゃんの言う通りだ!同時に行けば大丈夫のはずだ!!」
「ワンワン!!」
さすがに数の利はあちらにある。俺の言葉でビビらせられたとはいえ、チワワ一匹で帰ってくれるほどの馬鹿ではなかったらしい。膠着状態にできたとはいえ、あまり長くは続かなさそうだ。
「……仕方ないか」
「あ、紅野くん……?」
俺の呟きを聞いた安土さんが、俺の服を掴んだまますがるように見つめてきた。
その期待に応えるように微笑んでみせる。
この方法はあまり使いたくなかったが……俺たちが無事に帰るためにはもうこれしかない!
「よし行くぞ、あんな上玉そうそうないんだから」
「お前ら、それ以上近づいてみろ。……消せないトラウマを残すことになるぞ?」
「ああ?なんだよ、チワワにはまだなにかあんのか!」
怒鳴る不良たちの表情にはまだ微妙な恐怖が残っているように見える。
その心のブレに、どれだけこちらの嘘を刷り込ませられるかが勝負だ。
……大丈夫、流れはこちらにある。あとはどんな突拍子のないことでも、俺が自信満々に言えばまかり通るはず!
「ここにいる安土さんと俺はクラスメイトだ。だから彼女が所属する部活も知っている」
「部活?柔道部とか剣道部にでも入ってるのか?それでも三人対一人なら――」
「違う、安土さんは――ゴリラ部だ」
……時が止まったかのような錯覚。不良も安土さんも言葉を失い黙っている。リトルケルベロス……じゃなかった、チワワも急に吠えるのをやめていた。
ここで止まれば俺はただの頭のおかしい奴だ。
だから止まるな俺!心を強く持つのよ俺!
「ゴリラ部が何の部活かって?簡単だよ、ゴリラを愛する少年少女たちが日夜ゴリラをする部活さ」
「ゴリラをするってなんだよ」
「ゴリラの物真似に決まってるだろう」
「ちょっと」
最後の呼びかけは不良ではなく安土さんからのものだ。だがその声はあえて無視する。
なにも場を凍らせるためにこんなことを言ったんじゃない。あいつらから『ナンパしたい』という気を失わせるため!
俺ではあいつらの行動を止めることはできない。ならあいつら自身がその行動をしたくないと思えばいい。
これが俺の秘策――名付けて『
「安土さんは一年生にしてゴリラ部のエース!そのドラミングは本物のゴリラが重なって見えるほどの精度!!」
「あの、紅野く――」
「さあ近づけるものなら近づいてみるがいい!お前たちがあと一歩でも近づいた瞬間安土さんのゴリラが炸裂するぞ!」
「ゴリラが炸裂……だと!?」
「ふはは!!お前たちはこんな美少女がゴリラをするところを見たいか!?拳を地面につける歩き方をしながら、『ウホッウホッ』と言って胸をバンバン叩く美少女の姿を見たいのか!?」
「くっ!」
「さぞやすごいトラウマになることだろうな!!このあと仮にナンパが成功したとしても、彼女の顔を……いや、美少女の顔を見るたびにゴリラを思い出すことになる!!お前たちはそれでもこのゴリラさんをナンパするのか!?」
「ど、どうするカズちゃん!」
「こ、こんなところで逃げるわけには……」
「そうか……残念だよ。ならば来るがいい。リトルケルベロスの制裁を乗り切り、ゴリラさんのゴリラを見て、それでも彼女をナンパしたいのならすればいい。……行くぞ、ゴリラさん!リトルケルベロス!」
「…………」
「ワンワンワン!!!」
ゴリラさんからの返事はないが、リトルケルベロスは元気よく返事をしてくれた。
……その勢いに気圧されたのか、不良たちはこちらに進もうとするのをやめる。
「ちっ……完全に萎えた。もうその女をナンパしようと思えねえ。そっちに近づかなくても、会話を続けるだけでそいつがゴリラに見えてくる。……帰るぞお前ら」
「賢い選択だ。……もう会わないことを祈るよ」
「ああ……俺もだ」
ニヒルな笑いを浮かべながら、俺たちに背を向ける不良リーダー。『カズちゃん』と呼ばれていたその男を追いかけ、残り二人も立ち去っていった。
……不良の姿が見えなくなるのを確認した瞬間、力が抜けて膝が崩れてしまう。
尻もちをついてしまった俺に、リトルケルベロスが近づいてきてくれた。
「おー、ナイスアシストだったぞリトルケルベロス」
「ワン!ワン!」
「よしよし」
「ワン!」
まだ会って間もない俺にこんなに懐いてくれるなんて、よほど人懐っこい犬なのだろうか。
リトルケルベロスを可愛がるのもそこそこに、俺は今回の一番の被害者である安土さんに声を掛けた。
……顔見るのが怖いけど、このまま無視もできない。
「ゴリ……安土さんも朝から災難だったね」
「…………」
「それじゃあ俺はこのへんで。じゃあまた学校で、ゴ……安土さん」
立ち上がり、トレーニングで疲れ切った体を動かしてその場を離れようとする。リトルケルベロスをもう一度撫でてから家に帰――
「紅野くん。この近くに、朝から開いているペットOKの喫茶店があるんです」
後ろから肩を掴まれる。……ギリギリと指を食い込ませるほどの力が、俺を逃がさないという意思を表していた。
振り向けない。振り向けば心が折れる気がする。
だが、振り向かずとも彼女の声は無慈悲にも届いてしまう。
「少しお話があるので、そちらに寄っていきません?」
疑問形にもかかわらず選択を許さないその問いに、俺は『はい』と返すことしか許されなかった。
***
と、そんな経緯を経て俺は喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
目の前には笑顔でプレッシャーを放ってくる安土さん。こんな安土さん教室で見たことない。怖い。
「ゴリ……安土さんを助けるためとはいえ、大変な失礼をして申し訳ございませんでした。ゴリラ……安土さんとリトルケルベロスが無事だったのでなんとか穏便に流していただけると幸いです……」
誠意を示すために自分に合わない言葉遣いで謝罪した。
リトルケルベロスが俺のことを気遣うように見つめている。ありがとうリトルケルベロス。
目の前では安土さんがアイスティーを飲んでいる。それから一息つくと、ようやく口を開いてくれた。
「まず、最初に誤解を解いておきますが、別に私はさっきのことをそこまで怒っているわけではありません。もちろん一言二言……それ以上に言いたいことはありますが、助けていただいた上に謝罪もしていただきましたので、これ以上は何を言いません。」
「あ、そう?それはよかったゴ……安土さん。えっと、じゃあなんでこんなとこに?」
「私のことをゴリラと言いかけないでください。その、ここに来て頂いたのは……今日あったことを、誰にも言わないでほしくて」
もじもじと恥ずかしながら提案する安土さん。こんな姿も教室では見たことがない。
安土さんはいつも笑顔で、そのうえ様々な出来事に全て冷静に対応している。そのスペックの高さとお嬢様という肩書きから高嶺の花扱いされている彼女が顔を赤らめ恥ずかしそうに身をよじる姿など、もしかしたらあのクラスで俺しか見たことないんじゃなかろうか。
「名前の件は気を付ける。それにさっきのはもとから誰にも言うつもりないし大丈夫だよ。というか安土さんをゴリラ扱いしたことがばれたらいろんな人に怒られそう」
「……本当に秘密にして頂けますか?助けて頂いた上に、秘密にするのもそこまで簡単に了承されると、その……正直、助けて頂いた時点でお礼としてなにか要求されるものと思っていたので」
「別になにか欲しくて助けたわけじゃないし」
「ほ、本当ですか?地位か名誉か私の初めてのどれかは覚悟していたのですが」
「…………」
俺……学校でどんなイメージを持たれてるんだろうか……。今度
「まあ俺のイメージはさておき特に何かを求めるつもりはないよ。……しいていうならこのコーヒー代出してもらえると嬉しいかな」
「は、はい。それは当然。ですが……」
「えっと……質問なんだけど、今回のことを言いふらされるのって、安土さんにとってそんなに重く考えるほど都合が悪いことなの?安土さんくらいの美少女ならこんなことよくありそうだし、知られてもなにか不都合があるとは思えないんだけど」
俺の発言のとこに反応したのか分からないが、安土さんは照れたように顔を赤くする。だがそれも少しの間で、彼女は下を向くと小さく呟いた。
「……私は、完璧でなければいけないのです」
「完璧?」
「そうです、完璧です。完璧な私が助けられるなんてあってはいけないのです」
「……そう。なんかよく分からないけど、まあ元から言うつもりなんてないしこのことは秘密にしとくよ」
「ありがとうございます」
安土さんはお礼の言葉とともに顔を上げた。再度こちらを見つめる視線が、言葉なしに何かを問うようで俺は首を傾げた。
「……他にもなにか要望が?」
「い、いえ、そういうわけではなく……紅野くんがなにかを言いたげだったので」
「げ、顔に出てた?」
安土さんの言葉を受けて言いたいことがあったけど、ただのクラスメイトが言うことでもないだろうと思い言葉にすることはなかったのだが……顔に出てしまっていたようだ。今度ポーカーフェイスを習得することにしよう。
「意見があるようであればぜひ。紅野さんの要望に応えることで、より完璧になれる可能性もありますので」
「あー、言いたいことはあるんだけど多分その期待には応えられないというか……むしろ真逆というか」
「構いません」
「いやでも」
「むしろ言ってください」
「……じゃあ僭越ながら」
自分でもどうかという言葉遣いで、彼女に急かされるまま思ったことを伝える。
「ありもしない完璧なんて、目指すだけ無駄じゃない?」
ダンッッッ!!!と。
俺が言い切った瞬間、いや言い終わるよりも少し前に、安土さんが机を強く叩いた。
数少ないお客さんの視線を集め、店員さんもこちらに注意しに来るべきか迷っているのか右往左往している。
対して、こうなることを想定していた俺は冷静に対応した。
「安土さん、落ち着いて。お店の迷惑になるよ」
「……失礼しました」
立ち上がり、詫びながら周囲に頭を下げる安土さん。それに続くようにリトルケルベロスも『くぅーん……』と申し訳なさそうに鳴いた。
あれ、お前この流れ理解してるの?すごくない?
安土さんは声音こそ冷静ではあるが、その目にはこちらへの怒りが分かりやすく宿っている。
彼女は椅子に座ると、その怒りの言葉に乗せ、明確な敵意とともに俺にぶつけてきた。
「ずいぶんと、偉そうなことをおっしゃるんですね。神か何かですか?」
「人です。……こうなるから言わなかったんだよ。これについては強く主張したいわけでもないし、今の発言無かったことにして帰らない?リトルケルベロスも切なそうにしてるよ」
「リトルケルベロスではありませんむーちゃんです」
むーちゃんって言うのかこのチワワ。いやまあリトルケルベロスなんてないだろうとは思ってたけど、こいつそれで呼んでも反応するから完全にリトルケルベロスで覚えてたわ。
「さきほどのお話ですが、私としては流すわけにはいきません。……説明を」
「……はあ。あくまで俺個人としての考えだけど」
話を始める前にコーヒーを一口。苦味で頭が冴えるのを確認して、俺の考えを彼女に伝えるため話し始める。
「俺は、この世界に完璧なんてないと思ってる」
「……なぜ?
「ああみんな言ってるね。うちのクラスだと安土さんと
一人は
というか今はそこはどうでもいい。
「誰かが完璧って言ったら完璧になるの?俺はそうじゃないと思うんだけど……安土さんにとって、完璧ってなに?」
「欠点がないことです」
「じゃあ欠点ってどういう定義で決めるの?」
「は?」
どうやらこの切り返しは想像していなかったらしい。彼女は口を開け、『ポカンとする』という表現を体現したかのような顔をしていた。
しかしそれも一瞬のこと。大きめに咳ばらいをしていつものよう戻ったかと思えば、先ほどよりも眉間にしわを寄せながら俺を睨みつけてきた。
「禅問答がしたいのですか」
「定義の話がしたいんだよ。欠点がなければそれは完璧なんだろうけど、その欠点の定義が曖昧じゃ、完璧になんてなれないでしょ?」
「それは……。では、あなたにとって欠点とはなんなのですか?」
「俺の気に食わないところ」
俺の回答に、再度面食らったように動きを止める彼女は、今度は先ほどよりも少し時間をかけて通常運転に戻り、俺への質問を再開する。
「あ、あなたは自分が世界の中心だと考えているのですか?自分が気に食わないからそこが欠点なんて、おこがましいと思わないのですか?」
「思ってるよ。でも世界なんて自分の主観でしかないんだから、俺の世界の中心は俺でしかない。なら俺の主観で欠点だと思えば、それはもう完全な欠点だ」
「ならば、あなたにとっての完璧とは」
「俺の気に食わないところが一つもない人間。俺に不快感を与えない人間。俺にとって何一つ不都合のない、都合のいい人間。……そんな人間、いると思う?」
問いかけに、彼女は目をつぶり考える。こんなことを真面目に想像してくれるなんてなんていい人なんだろうか。
彼女は数秒の間をあけて目を開くと、迷いのない言葉で俺に返してきた。
「いないでしょうね。いたらいたで気味が悪い」
「その通り。仮にいたとしたら俺はその人間が気持ち悪くて仕方がない。ならもうどうあったって完璧なんて存在できない」
「ですが、それはあなたにとっての完璧でしょう。私の完璧が存在しない理由にはなりません」
「うん、そうだね。だからこれはあくまで俺個人の話。君にとってちゃんと完璧の定義があるのなら、俺はそれを聞きたいんだけど」
そう返すと、彼女は黙って何も言わなくなってしまった。彼女の足元ではリトルケルベロス……ではなく、むーちゃんが俺のことを責めるように見つめている。
どうやら、彼女の中には確固たる定義は存在しないらしい。
別に彼女を言い負かしたくてこんな話したんじゃないんだけどな……。
「それでも私は……安土家の人間として……」
「まあそんな理由だろうとは思ってたけど」
彼女の呟きが、完璧を求める理由を明らかにしていた。
予想通りというか、『せやろな』くらいの感想しか出てこなくて申し訳なくなってくる。
重たい空気を変えようと、彼女の答えを待たずに話題を変える。
「そもそも、君の家族ってどんななの?『この人は完璧!』って人がいればその人目標にすればいいと思うんだけど」
「……自分で言うのもなんですが、私の家族はみな素晴らしい人ばかりです。自分にも他人にも厳しく、けれど思いやりを忘れない。だから私はそんな家族に並びたくて……」
「その程度?それなら充分並んでると思うんだけど」
「そ、その程度とは――」
「あーごめん。今のは俺の言い方が悪かった。だから怒らないで。いや、てっきりやることなすこと全部うまく行って、いろんな人から崇拝されてる……そんなレベルの話が出るのを覚悟してたから」
「そ、そんな神みたいな人……」
「いないよね。ならやっぱり、君の家族にも君にとっての完璧はいないってことだ」
安土さんは俺へ反論できないことを唇を噛んで悔しがる。
たったそれだけで、彼女の家族愛が伝わってきたような気がしてつい微笑んでしまう。
「なにを笑っているのですか」
「こんなに家族に愛されて、君の家族は幸せだなと温かい気持ちになってただけだから気にしないで」
「私を見て勝手にほっこりしないでください」
「そんな注意される日が来るとは思わなかった」
このやり取りで少しだけ空気が軽くなったように思えたが、肝心の完璧に対する悩みが解決していない。安土さんはアイスティを一気に半分ほどまで飲むと重たいため息をついた。
「……今までも、ただがむしゃらに走っているだけではないかと思うことは何度かありました」
「そう」
「けれど今日、それを明確に認識させられました。……どこを目指しているかも分からないのに、たどり着けるはずもないのだと」
「そうだね」
「私はどうしたらいいのでしょうか」
「もっと曖昧にしたら?」
彼女の悩みに対し、俺は俺なりの解決策を提示する。
自分で考えて、と突き放すこともできたが……ここまで話したのだ、最後まで一緒に悩もうじゃないか。
「……それは、今までの会話を全否定している気がするのですが」
「ちょっとだけ違うよ。俺は存在しない『完璧』を目指すことを無駄って言ったんだよ。だからその目標を曖昧にしたらいい。『完璧っぽいなんかいい感じの』にないりたい、くらいに。そうすればハードルは下がるし気持ちも軽くなる。存在しないものを目指すよりは、曖昧でも存在するもの目指した方が楽だよ。だから俺の目標も曖昧だし」
「『完璧っぽいなんかいい感じの』とは」
「そこはほら、曖昧なんだから自分で決めればいい。完璧っぽいならテストはこれくらいできないととか。運動はこれくらいできないととか。ドラミングはこれくらいできないととか」
「さらりとゴリラを混ぜないでください」
サブリミナルゴリラに気付かれてしまった。まあ隠す気もなかったけど。
「それくらい気楽にでいいんだよ。死ぬ気でなにかをしたいなら、具体的にやりたいことが見つかってからでいい。それまではなんかいい感じのになろうとすればいい」
「……私がいい感じだと思うものが、実際に良いものだという保証なんてないと思うのですが」
「それについては大丈夫。俺が保証するから」
「なぜ?」
「だって安土さんは、ただのクラスメイトの俺を逃がすためにあんな演技ができる人だもの」
「っ!」
不良たちに絡まれていた時のことを思い出したのか、彼女は顔を赤らめ照れ隠しのように紅茶を一気に飲み干した。
なくなったにもかかわらず吸い続けるものだから、ずずずっという音を出し続けている。
「別に、あなたのためでは」
「はいはいツンデレツンデレ。まあとにかく」
彼女の意外な属性を聞き流しつつ流れを元に戻す。
俺は、今までの会話をまとめて彼女にこう伝えた。
「俺は君のことも君の家族のこともよく知らないけど、あんな勇気ある行動ができるのなら、君はもう家族に並んで立てる人間だと思うよ。なにも完璧でいることだけが全てじゃない、俺は君の在り方を……すごい素敵だって思う」
「す、素敵……」
「人のために頑張れて、それでも自分に満足せずにさらに上を目指し続けてる。無駄だとは言ったけど、笑うつもりはない。尊敬するし憧れる。……素直に魅力的だと思える」
「あ、あにゃっ、あなたはっ!」
俺はほめちぎっていたはずなのだが、彼女はなぜか俺の発言にかぶせるように声を出した。
顔は真っ赤だし声も大きめ。
……も、もしや知らぬ間に逆鱗に触れた?
「ど、どうしてそんな恥ずかしいことをぽんぽんと言えるのですか!もっとこう……言われる立場の身にもなってください!」
「ご、ごめんなさい?」
なにが悪いのかよく分からなかったが、勢いに負けて謝ってしまう。
ああそんな大声出したらまた周りの人が驚いちゃう……と思って軽く周囲を見回してみたのだが、先ほど安土さんが机を叩いた時のようなびくびくした雰囲気はなく、なぜか生暖かい目でこちらを眺めている人ばっかりだった。
レジからこちらを見てる店員さんも『若いっていいわねぇ』とでも言いたげな顔だ。なんだか無性に恥ずかしい。
「と、とにかく、俺の主張は以上です。ただ押し付ける気はないから、これを受け入れるのも受け入れないのもご自由にどうぞ」
「はい。……ところで、紅野くんの目標とはなんですか?」
「俺の?そんな大層なものじゃないけど」
「それでも気になるんです」
期待に満ちた目で見つめられれば言わないなんてできない。
恥ずかしさをごまかすように頬をポリポリ掻きながら微妙な笑顔を浮かべて答える。
「好きな人に振り向いてもらえるくらいかっこいい男になること、かな」
「好きな人、ですか。……はっ!!」
俺の発言を受け止め、どんな返しをされるのかと思えば、彼女は何かに気付いたように目を見開き……なぜか俺に優しく微笑みかけてきた。
「私を助けた上に要望を聞き、さらには親身にアドバイスをくれたのになぜ見返りを求めないのかと不思議でしたが……なるほど。そういうことでしたか」
「え、なに?なんでそんないい笑顔してるの?なんで悟りましたみたいな顔で俺を見てるの?」
「恥ずかしがらないでください紅野君。……いえ、
……とんでもない勘違いされてるなぁ。
とは思うものの訂正するのも面倒だ。体を動かした後だからすごいクタクタなんだよ……早く風呂入って汗を流したい。
「じゃあ
「そうですね。私もむーちゃんのお散歩に時間をかけすぎてしまいました。早く帰らないとじいやに何を言われるか」
「じいやとか本当にいるんだ……すげえ……」
「むーちゃん、帰りますよ。……むーちゃん?」
席から立ち上がり、むーちゃんのリードを
今までの様子を見る限り、こんなとこで無駄な反抗をするような犬とは思えないのだが……。
……もしや?
「むーちゃん、むーちゃん?むう、なぜ動かないのでしょうか」
困り果てた
そんな彼女の横で、俺は小さく呟いた。
「……帰るぞ、リトルケルベロス」
「ワン!」
「…………」
「…………」
俺の声に反応したむーちゃんは、お座りの状態からすっと足を伸ばして
その一連の動きを見た俺は、さっと
「じゃあ
ここに連れてこられた時と同じ方法で、かつさっきよりも力強く動きを制限される。
腕力すげえな!こんなに力があるならあの不良どうにかできたんじゃねえの!!
「私の家に、むーちゃんの世話をいつもしてくれてるじいやがいるんです。ちょっとお話があるので、そちらに寄っていきません?」
「むーちゃんの世話じいやに任せてんのか!だから違う名前で反応しちゃうようになるんだよ!それに寄ってくっていうか家に連れ込もうとしてるよね!?」
「だまらっしゃい!私のことが好きなのならこれくらい素直に喜んだらどうですか!!」
「やっぱり勘違いしてんじゃねえかああああ!!!」」
ギリギリと音が出るくらいの力で肩を掴まれ破壊されそうになりながら、喫茶店を後にする。
喫茶店を出た後も解放してもらえることはなく、むーちゃんからの『諦めろよ相棒』という視線を受けながら彼女の邸宅へ連行もとい招待されることになった。
……結局俺はこの日、むーちゃんがむーちゃんと呼んで反応するようになるまで、汗も流せないまま
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