11週目 独り占め

月曜日の朝、いつもどおり月ちゃんより早く着いたので、掃除を先に進めていたのだが……。


「あっちぃ……」


暑い。それはそれはとても暑かった。

5月も暑かったが6月に入ればなおさらだ。半袖、夏用ズボンにしたのに机を移動しただけで汗が止まらない。。窓を全開にしているから風は入ってくるが、その風もぬるいのがさらに不快だ。

気温が高く湿度も高い。梅雨には入っているが今日は晴れなんだからカラッとしてていいだろ……。


早く俺のオアシス、るなちゃんに会いたい。


そんな俺の願いが通じたのか、靴が床を叩く音が聞こえてきた。

汗をぬぐい、4つまで開けていたワイシャツのボタンを一番上以外ちゃんと閉め、髪型も軽く整えて出迎える。


「おはよう、ひかるくん」


俺の準備が整ったころ、開けっ放しの扉から月ちゃんがいつものように教室に入って来て、いつものように俺に挨拶をした。


……だが、俺はいつものようには返せなかった。

驚きで口は半開きになり、握っていた箒を手放してしまう。


――天使だった。


いつも寝癖でぼさぼさな黒髪は風に揺れるストレートになっており。

眠そうな顔は、目はちゃんと開かれ唇がしっかり閉じられていることによって本来の妖艶さを取り戻し。

しわくちゃだったベストやスカートはアイロンをかけたのか綺麗に整えられ、彼女の元来のスタイルの良さを何倍も魅力的に引き出している。

そして極めつけは。


「……曜くん?」


俺に向けられる、心臓を鷲掴みにするような無垢な笑顔。


「お、は、よう……」


絞り出すような声で、なんとか挨拶を返す。それでもできたのはそこまでだ。床に転がる箒を拾うことも、今日の月ちゃんについて質問することもできない。

俺の心が、彼女の姿を見ることだけに力を注いでしまっているせいだ。


俺の様子を見て、彼女も何か言わなければと思ったのか、月ちゃんの格好について彼女の方から説明を始めてくれた。


「先週、制服のボタン壊しちゃったから」

「……ボタン」


そう言った彼女は、表情だけいつものように戻っていた。

目は半開きになり、とても眠そうだ。


そんな見慣れた表情を見たおかげか、俺も少しだけ余裕を取り戻した。

彼女の言った言葉の意味を理解できるくらいには。


先週、汗で体を冷やしてしまった彼女になんやかんやでブレザーを貸したのだが……彼女がボタンを閉めた際、彼女の豊満な胸に俺のブレザーは耐えきることができず、一番上のボタンが吹っ飛んだのだ。


ボタンについては自力で直せそうだったので、『今度からは気を付けてね』と言う言葉だけで終わらせるつもりだったのだが……。月ちゃんはその日の掃除に遅刻しており、それもあって『この罪は、来週償う……!』と少しばかり重く受け止めてしまっていた。


俺としては言葉だけか、なにか具体的な行動がしたいというなら、遅刻への罰と同じようにほっぺたを触らせてもらえれば充分だったのに……。

むしろ触りたかったのに。


「えっと、先週のことへの『償い』?ってことは分かったけど、それがどうしてそうなるの?」


俺としてはそこが知りたい。もちろん月ちゃんの今の姿はいつか見たいと思っていたし、実際こうして見れたことも嬉しい。だが、月ちゃんにはそんなことを一度も言ったことはない。


そう思っての質問だったのだが、それを聞いた月ちゃんは急に不安げにこちらを見

つめてきた。


「……私のこんな姿、どうでもよかった?」

「い、いや!そういう意味で聞いたんじゃなくて!今の姿も最高だよ!俺のテンションが上がりすぎて吐血しそう!」

「それは、まったく安心できない。けど、そこまで言ってもらえるなら、頑張った甲斐もあった」

「えっと、安心してもらえたのは良かったんだけど、結局どうしてその姿を?俺、月ちゃんに一回も見たいって伝えたことないんだけど」

「……初めて会った時」


突然話が最初に戻り、慌てて記憶をたどる。

初めて会った時、というと登校初日……ではなく月ちゃんの格好に今のように衝撃を受けたときだろう。

衝撃のベクトルは真逆とはいえ、そうそう忘れてしまうようなことでもない。その日のうちに本人に恋をしたのだからなおさらだ。


「ほぼ寝てたから曖昧にしか覚えてないけど、その時の曜くん、ものすごく嫌そうな顔してた」

「あ、あはは……見られてた?ぶっちゃけ『うっわまじかよ俺の青春出だしからこんなとか最悪』って思ってた」

「……ごめん」

「あ!そ、その本気のじゃないというか今の月ちゃんには微塵もそんなこと思ってないというかむしろ月ちゃんのおかげで俺の青春が輝いてるというか……ご、ごめん。無神経だった」


月ちゃんに恋に落ちた瞬間があまりにもはっきりとしすぎているため、その瞬間の前後の月ちゃんが同一人物だという当たり前のことを失念してしまう。

本人を前にあれは最悪だ。いや、たとえ目の前の人間が本人じゃないにしろあれは失礼すぎる。


「私も今の発言は気にしないから、曜くんもそんなに自己嫌悪しないで」

「そうする……ありがと」


挙句の果てには言った相手にフォローされる始末。……月ちゃんの前では自己嫌悪は心の中にそっとしまっておこう。反省は月ちゃんが寝た後に思う存分すればいい。


「……話を戻すけど、初めて会った時のその顔が忘れられなくて、いつかこうやって見せようと思ってた。けど、それ以降曜くんはそんな顔をしなくなったから、先延ばしにしてた」

「それで今回のがいい機会だったから、と……なるほどね。でも、用意するのすごい時間かかったんじゃない?ちょっと言いづらいけど、そうやって身だしなみそろえて学校来るの初めてだよね?」


月ちゃんは小さく頷いた。

まあ、そりゃそうだろう。こんな美少女が毎日学校に来ていたら、いくらいつも寝ているとはいえ噂にならないはずがない。


身だしなみを揃えないのはギリギリまで寝ているためだろう。

おかげで恋のライバルが現れないのだから俺としては万々歳なのだが。


「だから、今回はお姉ちゃんに手伝ってもらった」

「ああ、あのすごいお姉さん……」


月ちゃんのお姉さんとは直接会ったことはないし、会話に上がったのも一度きりだけだ。だけど、月ちゃんが完璧完璧と言っていたせいで『すごい人』というイメージがついてしまっている。


「お姉ちゃんは身だしなみを整えるのも完璧。お姉ちゃんがいなかったら、1時間早く起きただけじゃ足りなかった」

「そう、さすがお姉さんはすご……1時間早く起きた!?」


月ちゃんがあまりにも誇らしく語るものだから微笑ましく見守っていたのだが、聞き逃せない発言が出てきたため食いついてしまった。


確かテスト期間の少し前に、勉強のせいで睡眠時間が30分短くなったと大層ご機嫌斜めだったはず。さらに周りの女子の会話で学校での睡眠も浅くなり八つ当たりもされた。


そんな月ちゃんが1時間も早く起きた……だと……!?


「天変地異の前触れ……いや、異世界転生の前触れの方が確率としては高いか……?」

「なんでその方が確率高いと思ったか、後で聞くとして。……そこまで驚くこと?」

「驚くよ、そりゃあ驚くよ!っていうか慄くよ!だってあの三度の飯よりスリーピングタイムな月ちゃんだよ!?そんな月ちゃんが1時間早起きって……」

「……だからこそ、罰になると思った。あと、さすがにご飯の時は起きるもん」


月ちゃんの『もん』の可愛さに悶えながらも、言われてみれば確かに、と納得する。

月ちゃんにとって睡眠とは絶対的なアイデンティティだ。それを削ることこそ、最大の罰になる。


「俺としては、その罰の姿を見れるなら遅刻もボタン破壊もいくらでも許せちゃうね」


諸々の疑問が解消してすっきりした俺は、さっきの自己嫌悪を思い出さないように話を続けるため、話題を変えることにした。

主に、今の月ちゃんの素晴らしさについて。


「ほんと、さっき見たとき教室に天使が入ってきたのかと思ったよ」


そこでようやく俺は箒を落としたままだったことを思い出した。

月ちゃんの見た目といい会話の内容といい、衝撃的なものばっかりだったから……。ごめんな、箒。


詫びを入れ箒を拾い、掃除を再開する。月ちゃんも箒を取りにいき掃除に加わった。

そこまで来てようやく、月ちゃんは先ほどの俺の言葉に声を返してくれた。


「今の私の方が、曜くんは好き?」

「え?」

「お姉ちゃんがいつも言ってる。『月はちゃんとしてればすごく可愛い』って。でも自分じゃよく分からない。それに、お姉ちゃん以外とはほぼ関わらないし、判断材料がない」

「お、俺は……」

「お姉ちゃん以外で、私を見てくれるどこかのモテ男くんは、いつも私のことを可愛いっていう。……なら、いつもの私と今の私、どっちが好み?」


月ちゃんは悪戯げに微笑みながら、俺のことを見つめてくる。

どこかのモテ男くんというのは、会話の流れ的にもしかしなくても俺だろう。

……正直、友達にも『お前はモテる』と言われているし、そろそろ周りの勘違いではなく俺が鈍感なのだと認識を改めた方がいいのだろうか。でもなあ、自分で『俺モテます』っていうのは嫌だ。そんな自分を好きになれる気がしない。


それはさておき。


「どっちが……ええぇぇ……なんでそんな質問しちゃうかな……」


箒を掃く手を止め、悩みながら月ちゃんの今の姿をこれでもかというほど凝視する。

それはもう穴が開くほどじっくりと、舐めまわすようにねっとりと。


「そんなに見られると、恥ずかしい」

「あはは、先週ブラジャー見せつけてきた子が何言ってるのさ」

「チョキで殴るよ?」

「それは殴るとは言わない、目潰しっていうんだ」


恥ずかしさか怒りか。あるいは両方が理由で、顔を真っ赤にしながら俺に戦意をぶつけてくる月ちゃんから一定の距離を保ち、それでも見るのをやめない。


やましい気持ちがあるかと言われれば否定しきれないが、それ以上に本気で悩んでいるのだ。


「いつもの月ちゃんも月ちゃんらしくていいうというか、ぼけーっとしたところが愛くるしくて可愛らしいんだけど……今の月ちゃんは俺が今まで見てきた人の中でぶっちぎりで綺麗だからな……。身だしなみ整えても整えなくても魅力的とか反則だろ、最高かよ……いや、月ちゃんは最高だな、うん」

「その評価、心の中だけでやって」


さらに顔を赤くした月ちゃんが俺を睨みつけながら言ってきた。さっきみたいにジョークを挟む余裕はもうないらしい。


声に出している自覚がなかったので、俺は意識して口を閉じながら考える。


「ちなみに、引き分けってなし?」

「ダメ、免停にする」

「だからいったい何の免許なんだ……」


ずいぶんに前に作られた月ちゃん式点数制度。あれから何回も『可愛い』を言っていると思うんだけど……。まあいいや、気にしない方向で行こう。


しかしそうか、引き分けはダメか……ダメか……どうしよう。

考え悩み……月ちゃんのことを見つめ、やがて一つの答えを選ぶことができた。


自分のことが嫌いになるような、そんな答えを。


「……いつもの月ちゃんがいいな」

「その心は?」

「ノ、ノーコメントで」


俺の返しに、月ちゃんは『NO』とこそ言わないものの視線で俺に圧を掛けてくる。


「ほ、ほら、俺の趣味嗜好なんてどうでもいいし、そろそろ掃除しよ?」

「…………」

「そういえば、そろそろ体育祭だね。月ちゃんって運動は得意?」

「…………」

「そ、そういえばこの前やったゲーム、隣のクラスの子に紹介したらドはまりして、その子の家行くことになってさー。女の子の家で二人きりなのにびっくりするくらい何も起き……いや、あれはノーカウントだよな。うん。何も起きなかったよ、うん」

「…………」

「そ、そういえば……あーもう、分かったよ……」


あっさりと根負けしてしまった。もう『そういえば』で続けられる話題がない。

ゲームの話には少し反応したからいけるかとも思ったが、途中で圧を掛けるというか射殺すつもりなんじゃないか、というくらい睨まれてしまったのでこの話題の続行は断念した。


だが、話すと決めたからと言ってそうポンポン言えるようなことでもない。心の内を……それも、醜い部分をさらけ出すようなものなのだから怖いと感じてしまっても無理ないだろう。


こんなことなら最初から『なんとなくフィーリングで』とでも言っておけば良かった。


「えっと、理由を話すのはいいんだけど……その、引いてもいいし、なんなら殴ってもいいから、『気持ち悪い』とか声に出すのだけはやめてね?」

「……分かった。曜くんがどんな趣味を持っていて、私の容姿から何を妄想してるのかを知っても、声に出して非難することはしない」

「とんでもない受け止め方された!?別に俺の性的嗜好をもとに選んだわけじゃないからね!?」


さささっと5歩ほど俺から遠ざかった月ちゃんに前もってそう伝え、俺は深呼吸をして理由説明の覚悟を決める。


「……こう言うと失礼だけど、いつもの月ちゃんってダメダメじゃん?」

「否定はしない」

「だから、月ちゃんの中身を知らないと、あれを魅力的に感じる人間ってそうはいないと思うんだ」


俺自身、恋している補正で月ちゃんのことを可愛く見ている自覚はある。よほど普通とは違う感性をしている人でなければ、最初に彼女と会った時の俺と同じような感想になるだろう。


「でもさ、今の月ちゃんってもう一目見て美少女って分かるというか……分かりやすく魅力的なんだ」

「……ありがとう」


お礼を言われてしまった。最後の結論に行きつくための途中式として口にしただけなのだが、そこにお礼を言われてしまうと俺もちょっと恥ずかしい。


軽く咳払いして、気持ちを入れ直し、同時に気合も入れ直し俺は口を開く。


「だから、そのなんというか、ね?」

「?」

「……俺以外の人間に、月ちゃんの可愛いところを見せたくないな……と、思い……まして……」


彼女でもない女の子を、俺一人で独占したいという傲慢にもほどがある願望。それが、あの質問に出した答えの理由である。


……醜い。吐き気がする。穴があったら入って一生出たくない。


胸中にうずまく自傷願望にも似た感情を押さえつけ、月ちゃんへ視線を移す。

そうだ、なにをするにしても彼女の……こんな気持ち悪い男の独占欲をぶつけられた彼女の回答が最優先だ。


彼女は俺の言葉を聞き、いったいどんな言葉を、行動を返すのだろうか。


「ふうん、そうなんだ」

「…………」

「なら、明日からはいつも通りで来る」

「へ?」


俺の回答に特に何を言うでもなく、まるで何事もなかったかのようにそう返してきた。

さ、さすがに想定外なんだけど……。


「る、月ちゃん?俺……自分で言うのもなんだけど、相当気持ち悪いこと言ったと思うんだけど」

「どこが?」

「どこがって……その、月ちゃんは俺の彼女でもないのに、あんな独占欲丸出しの回答されてなんとも思わないの?」

「独占欲くらい、誰にだってある。私にもある。それを聞きだしたのは私。押し付けられたわけでもないんだから、特にどうとも思わない」

「でも、明日からはいつも通りに来るんだよね?それって、俺が今の答えを押し付けたからじゃ……」

「だから、押し付けられたから決めたわけじゃない。曜くんの答えを受けて、私がそうしたいと思ったから、そうしただけ。……私はこういう方法で、自分の独占欲を満たすの」

「……?」


最期の言葉の意味がよく分からなかったけど……今の俺にそれを追求するだけの余力はない。


拒絶されると思ったこの感情を、まさかすんなり受け入れられるとは……。いや、受け入れられたわけじゃないのか。

あくまで押し付けなかったから聞いてもらえただけ。これからも、この気持ちは胸の中に抑えておくにこしたことはない。


「話は戻るけど」

「ん?」

「ゲームにはまった女の子の家に行って、何があったの?」


……気のせいか、月ちゃんの瞳からハイライトが消えたように見える。

さ、さすがに気のせいだろう。漫画ならともかく、現実でそんなことあり得ない。

だから、ハイライトが消えたように見えるのも急に肌寒くなったのも全部気のせいだあるいは全部雪のせい!


「……いやーそこはもういいんじゃないですかね。ほら、それよりも体育祭近いね。月ちゃんの活躍と体操着姿を楽しみにしてるよ!」

「今の性的嗜好の暴露も含めて、全部教えて」

「しまった墓穴掘った!っていうか月ちゃんどうしたのさ!そんな『主人公に惚れてるヒロインが主人公と他のヒロインが仲良くしてる現場を見ちゃって問い詰めてる』みたいな雰囲気まとって!なにがあったの!?」

「察しのいい鈍感……!」

「なにその評価!?」


愛色からふるのことは、話によっては俺の過去のことも出てくるのであまり話したくはない……。ならばここは逃走一択!


「ごめん月ちゃん、掃除任せ――」

「逃がさない」


フェイントを加えて扉へ向かおうとしたはずなのだが、目に見えぬ速さで箒を眼前に振り下ろされた。


「そ、そんな動きしたらせっかく整えた身だしなみが乱れちゃうよ?」

「もうこれで、乱れてもいい。だから、ありったけを」

「月さん!?それ絶対ここで使うセリフじゃないと思うんですが!?」


俺の静止も聞かず、月ちゃんは箒を振り回す。俺はそれを全力で避けまた追撃され、を繰り返し……。


二人が我に返って掃除を再開させたころには、月ちゃんの姿はいつも通りに戻ってしまっていた。

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