9週目 好きなもの

月曜日の朝。……といっても掃除は終わり、俺もるなちゃんも席へと戻っている。


月ちゃんはすでにすやすや眠っており、俺は自分の席でゲームに勤しんでいた。

プレイしているのはメジャーなアクションゲーム『バケモノハンティング』。


様々な武器を使って自分よりも大きな『バケモノ』を狩猟し、その『カケラ』から新しい武器を作ってさらに強い『バケモノ』を狩猟していく……といった感じの内容だ。

後半に行くにつれ『バケモノ』の強さが手に負えなくなっていくことで有名で、最上位のランクまで行くともう一人ではやってられない。もともと4人協力プレイを前提にしてはいるそうだが……それにしたって、


「これはやりすぎだろ……」


ポータブル型のゲーム機、その画面の中では俺の操るプレイヤーが悲惨な死を遂げていた。

俺が挑戦したのは、最上位クエストの中でも比較的簡単なクエスト『緋獅子ギラブレオス』の狩猟だ。

だが、鬼畜設定の『ギラブレオス』に俺は勝つことができず、開始数分でHPを削りきられて地面に倒れ伏していた。


画面の中では名前通りライオンの形をした緋色の獣が、プレイヤーの周りでシステムの命ずるままに暴れまわっている。数秒後には画面が切り替わり、表示されるのは『GAME OVER』の文字。


「ああぁぁぁぁぁ…………」


呻くように声を漏らし、丸まった背筋を伸ばすために背筋を反らせる。

目をつぶり、両手を伸ばし、体全体に力を込めてから一気に力を抜く。この脱力感がたまらない。特に今まで集中していたからなおさらだ。


俺は閉じていた両目を開き、ただの白い天井と視界の端に見えた月ちゃんの顔を見ながら、気分一転新しいクエストに――


「うぉっ!?」


抜いた力を再度込めて身を起こす。今一瞬ありえないものが見えた気がする。いやだって月ちゃん寝てるはずだし。

分身?あるいは偽物?


特に何があるわけでもないというのに、無駄にビクビクしながら振り返る。

俺の目に映ったのは、


「なに、してるの?」


俺の好きな人兼、掃除の時間以外起きてるのを見たことがない――月ちゃんだった。


「る、月ちゃん……?」

「どうしたの?まるで、お化けでも見たみたい」

「まさにそんな感じなんだけど」


俺が今しがた失敗したクエストを始めたころには間違いないく寝ていたはずだ。だが、今こうして起きているということはつまり、


「……もしかして起こしちゃった?」


かなり白熱した戦いをしていたし、自分でも気づかない間に声を出してしまっていたかもしれない。いや、それでなくても静かな教室なのだ。ゲーム機をカチカチしているだけでも十分うるさいだろう。


月ちゃんの安眠を妨害してしまったとなれば、いったい何を言われるか分からない。現に以前、俺の噂のせいで寝れないと言われたときにはそれはそれは睨みつけられたものだ。


不安な気持ちでいっぱいになりながら、俺を見下ろす月ちゃんを恐る恐る見上げる。


「別に、そんなことないよ。起きたいから、起きただけ」

「えっと……なんで起きたの?お腹でも壊した?」

「女の子にその質問は、ちょっとデリカシーがなさすぎ」

「えっ!?ご、ごめん!そんなつもりじゃ……」

「分かってる。いじわるしただけ」

「そ、そう……」


いじわるとかなにそれ可愛い。でも心臓に悪いからできれば控えてほしい。

苦笑いをうかべながら、『それで』と俺は話を戻した。


「実際はどうなの?月ちゃんが睡眠を切り上げるとか相当なことだと思うんだけど……」

「そこまで、大げさなことじゃない。ひかるくんが、私が寝た後に何をしてるのか、少し気になっただけ」

「お、俺のことが気になって……」

「……ニュアンスが違う気がするけど、だいたいその通り」


俺の中で一部ポジティブな脳内変換が行われたが、それでも俺への興味が一時とはいえ月ちゃんの睡眠を上回ったことは事実!!


俺のことが……俺のことが気になってつい起きちゃったなんて!!


「曜くん、顔が気持ち悪いよ?」

「舞い上がってるときに罵られるとへこみ具合がいつもの2倍に感じる!」

「それは置いといて。……いつも、ゲーム?」


月ちゃんは俺のゲーム画面をじっと見つめていた。今はクエストが終わってホームに戻って来ているから面白いものなんてなにもないが……普段ゲームをやらなそうな月ちゃんから見たら、クエスト前のこの画面でさえ未知のものに見えるのだろうか。


「6割方ゲーム、残り4割は自習ってとこかな。……ゲーム、やってみる?」


ゲーム機を月ちゃんに手渡そうとするが……なぜか月ちゃんは出した手を引っ込めて、ふるふると首を横に振った。


「見てるだけで、いい」

「の割にはずいぶんと熱心にご覧になられてますね」

「そんなことない」


無理強いするほどのことでもないため、渡そうとしたゲームを引っ込め次のクエストを選びに受付所へ赴く。


その間も背後から視線を感じる。というか頬と頬がくっつくんじゃないかというレベルで顔が近くにあるせいで俺の心臓がマッハでビートを刻みそう。端的に言えば緊張しすぎてゲームに集中ができない。


「る、月ちゃん……近くない?」

「だって、こうしないと見えない」

「そうかもしれないけど……」


耳元で囁かれるせいで、俺の心臓がバッハでビートを刻みそう。端的に言えばG線上のアリア。


もはや自分でも何を言っているのか分からない。


あっダメ!肩に手を置かないで!ときめいちゃう!!


「ゲーム、進めて」

「いやでも……」

「早く……して?」


……耐えてくれ!俺の理性!!


男子高校生の性欲が胸の中で暴れだす。それを無理やりバッハの顔を思い出すことで抑え込んだ。


ありがとうバッハ。フルネームでヨハン・ゼバスティアン・バッハさん。音楽の授業であなたの曲を演奏することがあったら全力を出すことを今ここに誓うよ。


「顔が真っ赤だけど、どうしたの」

「大丈夫、思春期男子にはよくあることだから」


適当なことを言ってごまかし、クエスト選びを再開する。


……やっぱりさっきのクエストどうにかしたい。あの敵から取れる『カケラ』が欲しい武器に必要なんだよなぁ。


「あんまりいいところ見せられないけどいい?」

「普段通りを見たいから、私のことは気にしないで」


まず無理なんですけど。月ちゃんが話すだけで……いや呼吸するだけで、その音が脳内をとろけてさせていくんですが。


「ま、まあ頑張るよ。とりあえずすごい難しいやつ行くから……思う存分見ていてください」


離れてほしいようなもっと近づいてほしいような複雑な男心に揺れつつも、表情には極力出さないままクエストを受け付ける。


画面が暗転し、数秒後には狩場へとフィールドが切り替わる。……フィールドには雑魚はおらず、狩り対象のエネミー1体のみがいる。


だだっ広いフィールドには隠れるところなどどこにもない。ゆえに数人プレイで陽動、攪乱、攻撃を分けながら狩るのが基本なのだが、一人ではそんなこともできない。敵のモーションを見切ってカウンターを狙っていくしかない。


……ゲームは好きだが、ガチのゲーマーではない人間にとって、こういう難易度のクエストはクリアはかなり難しい。だが月ちゃんが見ているのだから、そう簡単に死ぬのも嫌だ。


よし、今回はむやみやたらに突っ込むのはやめて、ちゃんと見切っていこう。


そして――


「これって、何回やられてもいいの?」

「……1回のクエストにつき3回までです」

「もう2回やられてるけど」

「つまりはそういうことです」


――簡単に追い詰められていた。


強い。


体力や攻撃力が今までの難易度より強化されているのも要因の一つではあるが、一番はモーションの多様性だ。

一個下の難易度の同個体にはないモーションがいくつか追加されているせいで攻撃が読みづらい。その上、出だしが似ているものが多すぎて読み間違えるとその瞬間攻撃をお見舞いされ、一撃でHPを半分ほど持っていかれる。


「この『ハントスキル』っていうのは使わないの?」

「能力がピーキーすぎて、このレベルの敵には使えないんだ……」


このゲームには武器での通常攻撃とは別に、『ハントスキル』と呼ばれる技がいくつかある。

いくつかあるうちの中から2つを選択しクエストで使えることができ、俺が今のクエストで使えるのは攻撃と防御のハントスキルが各1つずつだ。


通常攻撃の何倍の威力もある攻撃技『裂帛斬スカルブレイド』。

ただし発動前も発動後も隙がありすぎて一人プレイの時にはまず使えない。


敵のどんな攻撃も弾き返す防御技『瞬閃鏡ストレンジシールド』。

ただし相手の攻撃をコンマ数秒の防御アクションにドンピシャで当てさせなければ発動が出来ない。


……2つとも、モーションの読み切れる難易度であれば使用可能な強力なスキルではある。だが、『ギラブレオス』はモーションが読み切れないために苦労しているのだ。そんなやつにこれを使えば返り討ちがいいところである。


これが使えれば相当楽になるとは思うのだが……使いたくても使えないこのもどかしさ!


ああもう本当に……!


「なんだか、とても楽しいって顔してる」

「……これくらいの強さが俺的には一番燃えるんだよ」


強すぎて心が折れそうになるが、決して一人で勝てない強さじゃない。

事実、初見プレイ時よりも格段にカウンターが成功している。これは俺が『バケモノ』の動きを少しずつだけど見切ることができるようになっている証拠だ。


これがダメならまた次。それでもダメならまたその次。

コンティニューにコンティニューを繰り返して敵を攻略するこの感覚は、現実ではそう味わえない。だからこそゲームは楽しいのだ。


「そっか。わざと敵の攻撃に突っ込んでるのも、楽しむためなんだね」

「……?なんのこと?」


言われた言葉の意味がよく分からなかった。

俺は月ちゃんの前で一度も自滅行動など取った覚えはない。ならば『わざと』なんて単語が出るのはおかしいのだが……。


「だって、相手が攻撃してくる場所にわざと移動することが、何回もあった」

「いやいや、モーション読み間違えてそうなったことは何回かあったけど、わざとなんて一回もないよ?」

「え?」

「え?」


かみ合わない会話。二人そろって首を傾げ……俺はある一つの答えにたどり着いた。

ゲームを一時停止にして、もう真横にあると言ってもいい月ちゃんへ、小さく呟いた。


「もしかして……モーション、完全に見切ってる?」

「見切るも何も、一回見れば、動きなんて大体分かる。でしょ?」

「…………」


それができずにもう5回近くこのクエスト失敗してるんですが。


し、しかしそうか……本人がポケポケしてて忘れてたけど、この子って頭いいんだったっけ……。


「今、とても失礼なことを、考えられた気がする」

「ははは、まさか。月ちゃんは世界一可愛いって考えてたんだよ。ところでさ」


疑いの目をやり過ごしながら、俺はにやりと笑いながら問いかけた。


「二人でこいつを攻略してみない?」


***


「右、そこで攻撃」

「よっと」


俺が画面のキャラクターを操作した瞬間に、敵はちょうど俺がいたところに腕を振り下ろした。

避けたところの眼前にがら空きの胴体。俺は2発だけ入れると即座にバックステップで距離を開けた。


後ろからまた、方向だけの簡易的な指示が飛んでくる。俺はそれに従いキャラクターを素早く操作していた。


これが俺の提案した二人で一つのキャラクターを操作する作戦だ。


見切りがどうのコンティニューがどうのと言ってはいたが、思いついたらやってみたくなるものだ。

それに月ちゃんとの共同作業という字面が素晴らしい。毎週掃除は一緒にやっているが、それはあくまで学校からの指示だ。自主的に何かを一緒にやるというのは……新鮮で実に最高だ!


「曜くん。敵の様子がおかしい」

「え?ああ、向こうの体力がなくなってきてるんだ。あと一押し……誰かが来る前に終わっちゃいそうだね」


見せびらかしたいわけでもないが、誰かに俺と月ちゃんの仲を見せつけたいような欲がある。こういうのは顕示欲、とでも言うのだろうか。相変わらず俺の心は醜い欲望にあふれている。いや、みんな案外こんなものなのだろうか。


まあどうでもいいや。今はそれより目の前の標的だ。


「よし、じゃあとどめと行こうか!」

「うん……!」


雑念は今は思考の片隅に追いやっておく。手負いの獣ほど恐ろしいものはないのだから。


『ぎゃああぁぁぁおおおおぉぉぉぉおおおお!!!!』


画面内で『ギラブレオス』が咆哮する。そのままこちらに猛スピードで突進し、


「左斜め前、そのあと右にステップしてから攻撃」

「ほいさ!」


的確な指示により、敵の攻撃をすり抜ける形で背後を取る。さらに連続したモーションも紙一重で避け、がら空きになった頭部に一撃を――


『ぎゃああおおおぉぉぉぉぉぉ!!』

「「なっ!!」」


――連撃を避けたにもかかわらずギラブレオスが俺の操るプレイヤーめがけ前足を振り上げた。


しまった!HPが少なくなるとモーションがさらに追加されるのか!ありがちなことなのに完全に忘れていた!!


緋色の足が、さらに重く光りながら迫りくる。攻撃モーションに入ったキャラクターはすでに俺の操作を受け付けず、敵の攻撃を前にしながら無様に剣を振り上げていた。


この攻撃はやばい。敵の部位が光るのは、通常よりもダメージの大きい攻撃の証拠だ。おそらく、喰らえば即死は免れない。

威力が大きい分隙も大きく、いつもなら簡単に避けれらるが……今の状態じゃ無理だ。


……惜しかったな。あとほんの少しだったのに。


そう俺が諦めかけたその瞬間。


「……っ」


俺の大好きな人が、悔しそうに、悲しそうに息を詰まらせたのを確かに聞いた。


その瞬間、思考が加速する。

『ギラブレオス』の動きがコマ送りのように見える。一秒にも満たないモーションが何百倍にも引き伸ばされているようだ。


……諦めたく、ない。


俺と彼女の初めての共同作業を、こんな形で終わらせたくない。

それだけじゃない。

俺にとってはありふれた敗北だとしても、月ちゃんはそう捉えないだろう。優しい彼女はこのことを『自分のせいで負けた』と思ってしまうはずだ。……俺の耳に届いた今の音が証拠である。


そんなのは嫌だ。


たかがゲームかもしれない。それでも、俺にとっては大好きなものなんだ。

大好きなものを、大好きな人に、辛い思い出として記憶されるなんてそんなことは耐えられない。


例え月ちゃんがゲームを好きにならないとしても、俺の世界を変えてくれたゲームを楽しいと思ってほしい……!!


意識を『ギラブレオス』へと戻す。敵の攻撃はすでに操作キャラクターの目の前だ。


避けられない……ならば受けるのみ!!


「えっ!?」


耳元で月ちゃんの驚く声が聞こえてきた。

それもそのはずだろう。なにせ、死を待つだけだったキャラクターが唐突に違うアクションを起こした上……敵がそれにはじき返されたのだから。


ハントスキル――『瞬閃鏡ストレンジシールド


ハントスキルの強みは特殊なアクションだけではない。今のアクションをキャンセルして強制的にスキルを発動させることができることだ。

俺が発動したのは、敵の攻撃を特殊アクションで受けたときのみ発動する技。その発動に必要なコマンドを一瞬で入力し、見事相手の攻撃をはじき返して見せた。


『ギラブレオス』が隙の多い大技を使ってくれたこと、そのモーションの動きや速さを俺の目が正確に見切れたこと、発動コマンドが考えなくても入力できるほど体に刻み込んであったこと。


様々な要因が重なりはしたが、一番は心が諦めなかったおかげで、体がそれに応えてくれたことだろう。


その心意気……じゃなかった、体意気を無下にしないため、ここはど派手に決めようじゃないか!


「でりゃっせい!!」


再度コマンドを瞬間入力。もう1つのハントスキル――『裂帛斬スカルブレイド』!!


轟音を立てながら隙だらけの『ギラブレオス』に剣が突き刺さる。

ヒットの瞬間に盛大な爆発音が響き、めでたく俺の勝利――


『ぐぎぃぃいいぃぃぃあああぁぁぁああああ!!!』


――にはならず、ギリギリ耐えきった『ギラブレオス』が再度襲い掛かってきた!


「まじかよ……!!」


だが、相手も怯みのアクションを挟んでの攻撃だ。ギリギリではあるが、こっちもハントスキル発動後の硬直はすでに解けている。


モーションから見て、腕を横に薙ぐ攻撃だ。横に逃げても避けられないし、後ろへ下がっても連撃を受けてそのままハメられる。


ならば攻めるのみ!!


もっとも早い攻撃――で狩りきれなかったらな元も子もない。もっとも重い一撃で対峙する!!


迫る死の爪。迎え撃つ鈍色の剣。

やがて両者の最期を掛けた一撃が交差し――


『GAME CLEAR!!』


――わずかに早く届いた俺の剣が、相手のHPを削り切った。


俺の、俺たちの勝利だ。


「す、すごい」


力を抜き、背もたれに寄り掛かった俺に向かって月ちゃんが興奮したように呟いた。

最後の攻防戦を見た影響か、彼女の瞳はキラキラ輝いている。


……それはいいのだが。


「あ、あの月ちゃん?」

「すごいすごい!最後の、なに。あれがハントスキル?連続で使ってた。それに最後。攻撃が間に合うか私でも見切れてなかった。分かってやったの?そ、それとも」

「落ち着いて月ちゃん。あ、あと……いったん離れよ?その、俺の背中に……」


そこから先は、察してもらうためにあえて口にしなかった。


リラックスして背もたれに身を倒した俺。逆に月ちゃんは画面を覗き込むために前のめりになっていた。

俺たちの体は近づき――そうなれば必然的に、月ちゃんの一般女子よりも大きい2つのお山が背中に当たってしまう。


月ちゃんが今まで見た中でもトップクラスの俊敏さで俺から離れた。


困ったように笑いながら後ろを振り向けば――月ちゃんは予想通り真っ赤になっていた。


好きな女の子のそういう仕草はとても萌えるし、燃える。主に理性が燃えて焼き落ちていく。


正直言えば、もっと押し付けて欲しかったしもっとくっついて欲しかった。そんな男の子らしい欲望がどんどん湧き上がっていく。


それでも、その全てを押しのけて聞きたいことがあった。


「ゲーム、どうだった?」


ただそれだけが知りたかった。

俺の大切なものは、彼女の心になにかを与えられたのか。

それとも、ただのつまらない娯楽と捉えられたのか。


「と、とっても、楽しかった」


いまだ動揺を隠し切れない様子で、けれどはっきりと彼女は言い切った。


俺が安堵の息を漏らすと同時、月ちゃんはさらに続けた。


「だから、私はやっぱりゲームはやらない」

「……え?」


楽しいのに、それがやらない理由になるなんて、なんで。


その時、俺はとんでもなく不安そうな顔をしてしまっていたのだろうか。

彼女はそんな俺の不安を溶かすように、優しく微笑みながら、


「だって……そんなに楽しいものを知ったら、寝る時間が減っちゃうから」


あんまりと言えばあんまりな、けれど彼女らしいと言えば彼女らしい理由を教えてくれた。


その理由がなんだかとてもしっくりきて、俺は思わず小さく笑ってしまう。


「ははっ……そっか、うん。それなら仕方ない。なんせ、楽しいんだから」


顔をほころばせながら、月ちゃんの言葉を受け入れる。

そう言ってもらえるなら、あんな一日の集中力を使い切るような真似をしたかいがあるというものだ。


「やっぱり、曜くんは変わってる。普通、より楽しいものを拒否するなんておかしいのに、それを簡単に受け入れるなんて」


遠回しに俺を変だと揶揄する月ちゃんの表情は、けれどとても穏やかで。

馬鹿にしているわけでも、疑問に思っているわけでもなく……例えるなら、安心しきったような、そんな表情だった。


「変わってる、かな。普通だと思うけど。だって、俺と月ちゃんは違う人間なんだから、大切にしたいものの決め方だって、そりゃあ違うよ。それをどうこう言うつもりはないさ。ただ……」


いったん、言葉を区切る。月ちゃんが続きを急かすように俺を見つめてきた。

その要望に応えるために、ゆっくりと口を開く。


俺の言葉に、せめて少しでも喜びの感情が込められますように。

俺の好きなものを楽しいと言ってくれた女の子にこの喜びが伝わるようにと、そう祈りながら。


「俺とは違う人間が、俺の好きなものを『楽しい』って言ってくれた。それはすっごく幸せなことだって……そう思うんだ」


自分と自分以外の人間は、たとえどれだけ近くても血が繋がっていたとしても他人なのだ。

ならば、人の数だけ価値観は違う。自分の価値観だけが全てじゃない。


俺が好きなものを誰かはきっと嫌いだろう。誰かが嫌いなものを俺はきっと好きなのだろう。


そんな中で、俺の大切な『他人』が、俺の大切なものに対して『楽しい』と思ってくれた。


「欲を言えば一緒にやりたいとかはあるけどさ……君がゲームを『楽しんで』くれただけで、幸せすぎるほど幸せだよ。……ありがとね」


伝えたかった気持ちを拙い言葉に全て込めて、まだ顔の赤い彼女へ届けた。


俺の喜びを伝えることができたかどうかは――彼女の笑顔を見れば、分かることだ。


「また、ゲームしてるとこ見せてね」

「喜んで」


その会話を最後に、月ちゃんは席へと戻り今度こそ寝始める。


時計を見ればそろそろ誰かが来る時間だった。

ゲーム機をしまい、引き出しの中の教科書をチェックする。今日使うやつは全部入っている。ロッカーに取りに行く必要もない。


なら、今やるべきことは一つだけだ。


窓に映った自身の顔を見る。窓の中の俺と目を合わせ、問いかけた。


「さて」


――このだらけきった締まりのない笑顔を、どうしようか。

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