第29話 夢想
それは、本当に必要なことなのだろうか。
これまでの沈黙を、なぜ打ち消すことにしたのか。
長く苦しめられてきた傷を、なぜここで拡げるようなことをするのか。
答えは分かっている。
でも何度も考えてしまう。
そして、考えては同じ結論にたどり着く。
「先生、お先失礼します。」
「お疲れ様。また明日ね。」
今朝見た私服に着替えた看護師が、会釈をして従業員用出口から出ていく。
蛇口をひねって水を止めて、ぼおっと正面の鏡を見る。
白髪の増えた髪。また染めなきゃと思う。
なんとなくしわも増えた気がする。
今日は薬局で良いフェイスマスクや美容液がないか見て帰ろうとぼんやり考えて、夕飯の材料は何が家にあるか思い出そうとする。
そういえば、いつもこの鏡を見ながら、冷蔵庫の中身を思い出している気がする。
そして、自分の顔についての考察は、いつの間にか終わっているのだ。鏡に写っているのに、自分の目には写らない。
同じ毎日。
それは望んでいたわけではなく、しかし、変えたいわけでもない。
つまり、流されて生きている。
手に入れたかったものが、私には手に入らないと知ってから、何もかも諦めてしまった。
ただ顔を見られるという細やかな喜びのためだけに、命を繋いでいる。
同じように諦めてしまったあの人を、同じですね、と心の中で言いながら、自分だけが寄り添ってあげられるという妄想をして、結局、自分だけを慰めていた。
あの人の心はちっとも傾かない。
お互いに年を重ねてくたびれてしまった。
それも、同じですね、と声にして笑い合えたらどんなに幸せなことか。
二人だけの秘密だった。
医者であるなら、勧めるべきではなかったそれさえも、私は喜びのように感じてしまった。
しかし、現状に憤りを覚えることはない。
ただ見守る。それすらも流されることに慣れた自分が選んだ最善の選択である。
後悔はない。
これからも、ないだろう。
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