第22話 医者

少しずつ自分の妹に真実への導きを始める姿は、間違いなくお兄ちゃんのそれだった。

賢く慎重な息子を持ったものだと少し嬉しくなった。


ただ、混乱していることを示す数値が出て、意識が遠退いてしまうので、娘に話す機会が大分遅かったことを悟る。

早すぎては塞ぎこみ、遅ければ忘却。

それでも過去に戻ることは出来ない。それを、私たちはよく理解している。



ひとつひとつ紐解くように会話をしているが、娘にとっては毎回衝撃的なものなのだろう。それだけ忘れていることが多すぎた。

私を覚えていないということは悲しかったが、しょうがないことだと思うと、悲しみはすっと溶けるように馴染んだ。

何年も側で声もかけず、ただ心に触れないように見守っていただけなのだから。

そう考えれば素直に受け入れられた。







もう少しで暖かな春が来る。


寒空の下で、肌がほとんどむき出しの木々に小さな花がいくつも咲いている。鮮やかなピンクの色をした、梅の花だ。

息子は春休みだが、相変わらず部活に打ち込んでおり、あと数日は合宿で家に帰らない。

今日は娘のかかりつけの医者が来る日だ。

定期的に診てはもらっているが、あまりにも同じ流れで、もう何年も同じ時間を繰り返しているように感じる。

インターホンが鳴って迎え入れ、書斎を通って娘の元へ案内し、診てもらい、医者の『異常はありません。』の言葉の後、書斎に戻って紅茶を飲みながらとりとめのない会話を少しして、玄関で見送るまでが。



ただ、ここ数回は『異常はありません。』の前に言葉が増えた。


「意識が遠退く回数が増えましたね。でも一時的なショックに止まってますので、蒼真君のフォローが上手いのでしょう。」


そして、

「異常はありません。」


「ありがとうございます。」




やはりいつも通りだ。

この人に白髪がちらほら見える日がある。

次に来る時には染めたのか、見当たらなくなるのだが、お互い歳を取ったと感じる。長い付き合いだ。

娘がこの状態になる前から、我が家のかかりつけ医院に勤めており、今はそこの副院長になられた。立場が変わってもこうして診てもらえるのはありがたい。




「もう新学期が始まりますね。」

「そうですね。早いものです。」

「蒼真君も2年生ですよね。後輩が入ってますます忙しくなりそうですね。」

「まあ、なんとかするでしょう。それより進路のことの方が心配です。何も言ってこないので。」

「そうですか。…でもしっかり者の蒼真君ならちゃんと考えてるんじゃないでしょうか。」

「まあ、そうだといいんですが…。」



息子がしっかりしていることは違いないだろう。テストの成績も良いし、何も言うことはない。影でそこそこやってるなら気付けないだろうが、悪いことじゃないならそれでいい。




医者はそろそろお暇しますねと言って立ち上がり、そばにあったコートに袖を通し、マフラーを巻くと、軽く会釈をして来た。

私も立ち上がり、玄関まで付いていく。

まだまだ寒いですね、と軽い会話をし、靴を履くとにこりと軽く笑みを浮かべて、ではまた次回と言って先程の会釈より深いお辞儀をした。

扉が開かれると冷たい風が一気に流れ込む。

閉まるまで、出ていくその背中を見つめた。




息子のいない夕飯は味気ない。これまでも何度かあったが、その度にこの味気なさを思い出すのだった。


さっさと済ませて早く寝てしまおう。

明日は商談が入っている。


風呂に入って歯を磨くと、どこからともなく睡魔がやってきた。布団にもぐると、ものの数分で入眠した。



この日は珍しく妻の夢を見た。

まだ結婚する前のデートの思い出だ。


『……ふふっ、それじゃあ駄目なのよ。あなたは騙され過ぎ。信用しすぎなのよ。』

『でも君は僕に嘘をつかないだろ?』

『ええ、もちろんよ。だって私は貴方を信用してるもの。』

『それなら僕にとって裏切りは大した問題じゃない。君さえ僕を信用してくれるなら。』

『買い被りすぎよ。世界が敵に回ったとして、私があなたを守れるとは思えないもの。』

『正直者だね。』

『ええ。誉め言葉よね?』

『もちろん。』



二人して笑った。

彼女さえ私を信じていてくれるなら、それでよかった。

仕事は取引なので、小さな嘘をつくこともつかれることもあったが、それは裏切りには繋がらなかった。それだけ人に恵まれていたのだろう。


妻は人前では夫を立て、静かに支えてくれる良き妻だが、二人でいる時は、賢く話題に富んだ魅力的な女性だった。

この賢さは蒼真に、好奇心は娘に受け継がれた。


どうしてこの思い出を見たんだろうか。


しかし私はそれ以上に、妻に合えた幸せを感じていた。


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