第8話 さよなら

書斎の奥の部屋に入って気付いたことは、過去に入ったことがある、ということだ。

5年前に一度、父と。


あの日も俺は正常ではなかった。やっと退院の許可が降りて、家に帰れるようになった頃。

看護師に体はもう大丈夫。と言われたのを覚えている。そう、心はまだ駄目。心が元通りになることなんて、あるんだろうかとよく考えていた。

退院の当日、花束をいっぱいもらった。でも週に一度通うように言われて面倒だと思ったのも忘れてはいない。

父の運転で自宅へ向かっていたはずだけれど、途中俺は寝てしまった。そして気がついたら、鮮やかなこの異様な世界だった。


「お父さん…」

「起きたか。」

「…詩絵里!…詩絵里!!」

「眠っているんだ。」


妹はただ静かに眠っていた。数週間前まで毎日見ていた妹の顔が、こんなにも懐かしい。

小さな傷や包帯が痛々しいが、布団に隠された体には、もっと沢山の傷があるに違いない。



生きている。それだけで十分に奇跡。



「いつ目が覚めるの?」

「分からない。」


暫し沈黙が訪れ、父はゆっくりと口を開いた。


「……ずっとここにいるのは良くないんだ。」

「え…」

「目が覚めるまで、さよならをしよう。」



さよなら。父の言った言葉は、永遠の別れを想像させた。それから俺は駄々をこねて、ずっと泣きじゃくった。涙がどんどん溢れて止まらない。父はそんな俺を咎めなかった。ただ立ち尽くして、俺が泣きながら叩いたりするのを何も言わず受け止めていた。俺の反抗は、力尽きて眠りに落ちるまで、繰り返し続けられた。


妹までさよならなんて考えられない。

絶望。深い海に突然投げ出されて、足がつかず、息も出来ず、もがいても何も起こらないまま、死んでいくような、明らかな絶望。



次に目を覚ました時は、自分の部屋のベッドの上だった。

住み慣れた自宅に帰っても、何もかもが変わってしまった。父は危うい手つきで料理を作り、俺はそれを何も言わずに食べた。美味しいも美味しくないも判らなくなっていたのかもしれない。病院には言われた通り週一回通った。心のために。

正常に近づくのに二年かかった。そこから、今のようになるのに、一年。でも元通りにはなれない。


俺は成長するにつれ、誤魔化すのが上手になっていった。父のために。

父の方が悲しみが深いと悟ったからだ。

会えないものだと思い込んで、妹の話題はやがて口にしなくなった。


そして俺も、会えないなら、会いたいなんて思わないようにしようと思うようになっていった。

本当は毎日でも会いたいはずの、妹なのに。




誤魔化しは、自らの精神にも暗示をかけていった。

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