第7話 妹

その部屋は固く閉ざされていた。

二重の生体認証を突破しないとたどり着けず、第一の扉にたどり着くにも、父の書斎を通り抜ける必要があった。

父は大抵書斎にいる。もともと書斎で仕事をすることが多かったが、あの日から特に籠るようになった。

実業家の父には来客がそこそこあるものの、書斎は来客スペースを兼ね備えているため、別室の来客室を利用することはない。

父が書斎から長時間離れる機会は、なかなか巡ってこなかった。


この家は表向き父と俺の二人暮らし。

ハウスキーパーが2人、交代で家の事をしてくれる。

端から見れば仲が良いとも悪いともいえない、よくある父と息子の関係だと思う。

学校に行く俺と、起きるのが遅い父とでは朝合うことはなく、夕方帰ってきてからその日初めて顔を見ることがほとんどだ。

晩御飯だけはなんとなく一緒に食べている。

少ない会話をして、その食卓にはハウスキーパーの作った料理が並ぶ。もう、母親の味は思い出せない。

休日でも父は平日と同じように書斎に籠る。

父には趣味がないのだろう。何かに夢中になっている様子を見たことがない。

時折暇で書斎に行くことがある。どうした?と聞かれるので、別になにも。と返し、そうか。と呟かれる。

そこで会話は終わるが、邪険にされることはない。ただ、静かに時間は流れる。

家が広すぎると感じるのは、今更だ。

もともと5人で暮らしても十分広い家だったのに。


書斎を通らないと行けない部屋があると知ったのはたまたまだった。

書斎の応接用ソファでうたた寝していた俺は父が書斎を出る音で目を覚まし、その日も暇だったので、何気なく室内を見て歩いた。本棚にぎっしり詰まった本は、仕事に関係の無さそうな分野のものもたくさん並んでいるということや、飾ってある植物に水をあげた形跡があることなど、大したことのない新情報を拾った。

デスクの傍のロールスクリーンの先に、キッチンスペースがあるのは聞いていたが、実際にまじまじと見たのはこれが初めて。クリーム色のキッチンと、一人暮らしサイズの冷蔵庫、そして蓋付きのゴミ箱。どれも綺麗に使われている。

キッチンスペースの入り口から、一番遠くにある冷蔵庫まで近づき、突き当たりの壁に凭れた際に、その壁に溝があることに気付いた。溝は床から天井に向かって伸び、90度に曲がって、また床に戻っていた。溝の形状を知った瞬間、隠し扉だと解った。さらに壁と冷蔵庫の間の、掌を差し込める程の隙間に、パネルのよう何かがあるのも見てしまった。

これに触れたら、良くも悪くもきっと何かが起こる。そう予感しながら、パネルに触れたくて、ゆっくりポケットから手を出す。心臓が激しく脈打っている。やめるべきだ、と警告しているかのように。そして手をゆっくり伸ばしたその時、後ろから名前を呼ばれた。少し焦っているような声で。

不覚にも隠し扉に夢中になっていたので、過度に肩が跳ねてしまった。

取り繕ってから何食わぬ顔で振り返り、そこに立っている父に話しかけた。なに?と。

少し険しい顔をしていたが、そこにいたのか。と言われ、続けてコーヒー飲むか?と聞かれた。

どちらでもよかったが、喉がカラカラになっていることに気が付き、飲む。と短く答えた。

そして、ミニキッチンの扉を適当に開けて、コーヒーカップを取り出す。その間、父はどの豆にするか選んでいた。


訊ねてはいけない。

これは直感だった。

そして、何もなかったかのように、これまでと同じ時間がゆっくりと流れた。


父の、あるいはこの家のタブーが潜んでいるのかもしれない。

平日のある日、父を訪ねる人の姿があった。定期的にやってくる医者だ。細身の、少し白髪の混ざった医者で、昔、治らない病気にかかっているのかと聞いたことがある。その時は、治るかもしれないけれど、いつになるかは分からないと言われた。

あの医者なら何か知っているかもしれない。


一時間程経ち、医師が帰るのを玄関ポーチで父が見送っているのを見て、俺は裏口から玄関から通じる道とは別の道に飛び出した。家から離れた道で鉢合わせを狙い、作戦は成功した。


「先生こんばんは。」

「あら、久しぶりね!」

「お久しぶりです。あの、父はどうですか?」

「おや?、喧嘩でもしているのかな」

「…?…いや別にいつも通りですけど。父の具合を見に来てるんですよね?」

「……そう聞かされているの?」

「…」


ソウキカサレテイルノ。

返された言葉は意味を持たずに、ただ頭の中で反復された。


「じゃあなんのために毎回うちに来ているんですか。」

「………」


少し間が空いた。言うべきか言わないべきか、悩んでいるような。そして真っ直ぐに俺の目を見て口を開いた。


「………君の妹さんを診に。」



この時全てを察した気がした。

あの閉ざされた先には、面会すら困難と言われ続けた妹がいると。


「先生はあの奥に入ったことがあるんですね。」

「…そうだね。何度も診るために入っているよ。」

「俺は一度も入ったことはありません。そんなに悪いんですか?」

「……何故君を入れないのかはわからない。でも、状態はあれから変わらないとだけ言える。」

「俺が入っても平気なんですね?」

「ええ、平気よ。」


父に大きな嘘をつかれた。

それはあまりにも衝撃的なことだった。

教えてくれないのなら、自分で確かめるだけだ。


「あの扉はね、セキュリティが二重になっているんだ。」

「…」

「生体認証。この事はお父さんには秘密だよ」

「…」

「もう、君も理解できる年頃だから。じゃあまたね。」

「……ありがとうございます。」


医者はまた歩き出した。

生体認証のどのパターンかは教えてもらえなかったが、集められる情報を全てかき集めて挑むだけだ。



そして父の嘘を知ってから二ヶ月後のある夜、ついに決行した。


食後の飲み物に他国製の睡眠導入剤を混ぜて、そこから暫く将来の不安という内容で、いつもより長くリビングで話をした。30分経つと、うとうとし始め、1時間後にはまともに話を聞いていられない程睡魔に襲われていた。ソファでちょっと休みなよ、なんて言葉をかけて、毛布を持ってきてあげる。すまんな、という言葉の後には寝息が聞こえてきた。

触れても揺すっても起きないことを確認して、急いで生体コピーの用意をした。

指紋に始まり全身のコピーを。音声はここ一ヶ月分を録音してある。あらゆる情報をコンピュータに入力した。

そして書斎のキッチンスペースに向かう。

認証登録がされているのは、恐らく父1人分だ。


パネルに触れると、壁に直径3㎝程度の青い光の円が二つ浮き上がった。きっと虹彩認証だ。

コンピュータにコピーした虹彩を表示させ、円にはまるように近づける。するとピピッと電子音が鳴り、青い光は緑に変わった。

溝の内側の壁は静かに動きだし、少し後ろに下がったかと思えば右にスライドした。

一歩壁の向こうに踏み込むと、フットライトが次々と点灯し、その奥に扉が見える。2、3mで届きそうだ。

響く自分の足音が、父が追いかけてきているんじゃないかと思わせる。


次は何の認証か、高鳴る心臓を落ち着かせ、またパネルに触れる。するとパネルは緑に光り、さっきと同じ電子音が鳴った後、ガチャンと音がした。それはまるで扉のロックが外れるような。

ノブのついた第二の扉は呆気なく開かれた。


部屋の中に押し入ると、ライトが一斉につき、眩しさに目を瞑った。咄嗟にこれは罠だ、嵌められたのだと思った。だが、嵌められたにしては何も起こらない。


恐る恐る目を開くと、そこには言葉を失うほど、鮮やかな世界が広がっていた。



その世界の中央にベッドがひとつ。

赤っぽい茶色のくせ毛がはみ出ているのを見て、ああ、やっと会えたと顔を綻ばせた。



ゆっくり近付いて、その寝顔を見て、涙が溢れた。





「詩絵里(シエリ)、13才の誕生日おめでとう」

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