第42話 私が倒すべき敵に成り果てたなら、記しておこう
A Phantom of the Air Analysis or Personal Opinion
(空気の中の幻 その解析、もしくは私見)
Dr. Nothing Luv
まえがき
タイトルに解析、私見、と書いてあるが、要するにその時思ったことを適当に書き連ねていっただけのもである。私の出身国である日本にはそのような随筆にも価値が見いだされ、後の世まで残っている事実もあるので、もしかしたら重要なものも入っているかもしれない。
私が世間を少しだけ見て回り得た知識の一つだが、世に溢れる書物の数々「〇〇する力」「〇〇のやり方」「〇〇学」などなどある。そのほぼ全てに共通しているのが、何か革新的な発見があり、それを述べているとしても、それが書かれているのは全体のほぼ一割で、残りの九割は著者の生い立ち、その際の不遇、不満、そして現状への不満が書かれているのみである。
当然、前述のものに当てはまらない非常に有益なものが詰め込まれている本も存在する。はっきり言えば、こんな本を読むくらいなら長く残っている名著を一冊でも、その一ページでも読んだ方が遥かに有益である。
では、それを述べた上で好きなように読んでほしい。
それと苦情の類は一切受け付けない。連絡先も記述しないので、腹が立ったら破り捨てて気分を紛らわせてください。
Dr. Nothing Luv
・映画を創った時のラストシーン候補
観てるか?
相も変わらず変化を恐れているな。
だが、お前たち自身も変わって来た。
だから私も戦術を変える必要があるかもしれない。
この戦いの結末は未だ見えず。
だが重要なのは、私がまだ生きているってことだ。
この独り言が終わったら、もう一度人々に見せよう。
お前たちが支配しない世界を。
どんな法も境界線も無い。全てが可能な世界だ。
その先、お前たちはどうする? 私たちはどうなる?
きっと先は長い。じゃあ、またな。
・意識についての考察。
意識とは何か。というのが少し前に頭をよぎっていた。
我思う、ゆえに我あり、と言う言葉が思い浮かぶ。これはデカルトという人物が残した言葉とされている。私が知りえたところでは、あらゆるものの存在を疑ったとしても、その疑っている自分の存在を疑う事は出来ない、というものらしい。たしかにその通りだ。
では、疑う事が可能だとしたらどうか? 私の見るところこの世界の精神病患者と呼ばれる人々の大部分がそれをやってしまっている者たちである。自分が自分である、というアイデンティティを見出せていないのだ。何故そうなるのかがわからない。当人にも、周りの者たちにも。これを前提の一つとしよう。
それと精神病、と言う言葉についてだが、これはおそらくフロイトを祖とする精神分析学が成立してから頻繁に用いられたものと思われる。それまでは土着由来の言葉で呼ばれていたものと推定する。その後、各種心理学との行き来があり、ユング、ロジャース、アドラー、などの各派がそれぞれの理論を確立していったのだろう。
何が言いたいかと言うと、フロイトが精神分析というものを立ち上げるまで、意識、無意識という言葉は存在しなかったのではないか、ということだ。
各専門分野に分かれて様々な解釈も生まれたのだろう。精神的なぐらつきというものは、自分の意識の一部分である『自我』が、規範となっている『超自我』と欲求である『イド』との間で揺らぐため、という説明もある。意識の中心は『自己』であり、その周辺に『意識』『前意識』『無意識』があるという説明などさまざまである。
この種の説明がなされてから現在までおよそ百年から二百年ほどだと思う。人類全体の歴史からみれば、とても浅い。にもかかわらず、我々はそれらが太古から存在していたと信じてしまっている。何故か?
それはわからない。だが、何故かそれを受け入れてしまっている。おそらくだが、その理由は「願い」にある。
人は「そうであって欲しい」と願う事が出来る。そしてそれが叶った場合に喜ぶ。それを繰り返してきたはずだ。我々に流れる血と時間、空間に連なるもの。それらが今ある「意識」を生み出した。
そして今「それがある」ということを自覚した時に、過去の人類にも「それがある」と信じた。
意識についてはここまで。だから何なんだ、と言いたいだろうが、私の言いたいことはこれだけだ。
・光についての考察。
アインシュタインが残した相対性理論。有名な公式も残っている。だが、私はその1%も理解していないだろう。逸話の幾つかを聞いて「わかった気」になっているだけだ。
だが、未だにそれらの理論に惹かれている。何故かというと、それは私の視覚に関係しているのだ。私は文字、文章、本、言葉などが苦手だ。自分で本を書いておいて何を言うか、と言いたいかもしれない。だが、事実だ。今書くことが出来るのは、前に比べて痛みが緩和された、という他ない。
まあ、それは置いておくとしよう。私の視覚には妙なものが映る時がある。それがこの本のタイトルである "A Phantom of the Air" だ。
それは幻覚ではないのか? と言われるかもしれない。確かにそうかもしれない。だが、私はその手の言葉に疑問を抱いているのだ。
精神病患者(と呼ばれる人々)は、そう話すこともあるようだ。だが、私の感覚では彼らにとっては実際に見たり聞いたりできることのはずだ。ということは彼ら自身は幻とは思っていない。幻という言葉を使って表すのは、外側の人間たちではないか、というところだ。
幻覚が見える、と話す人々はどのような状態にあるのか、正直言って解らない。だが、ここにも「願い」が関連していると思う。それについては別のページに書くかもしれない。
で、"A Phantom of the Air" についてだが、これについても何もわからない。わかっているのは、私には時々見えることがある、ということだ。私が狂人であるのかもしれない。ただ、似たようなものを書物などに見かけることがある。現在も探っている所だが。
何が見えるのかというと、空気の中に何かがキラキラと舞っている、というようなものだ。
ここで思い出されたのが、相対性理論である。これによると、
物質は光速を超える事が無い。
物質が光速に近付くにつれてその周囲の時間はゆっくり流れる。
物質が光速に達した場合、質量はゼロになりエネルギーのみになる。
というものだ。私にはほとんどわからない。だが、一つひらめいたアイディアがあった。創作に使える、というものだ。
それは
この世には光速を超えるものは存在する。
我々はそれを観測することが出来ない。
それらを観測するための条件は、我々が光速に達すること。
その状態では、別の知識体系が存在する。
宇宙にはダークマター、ダークエネルギー、と呼ばれるものが存在するという。
我々が光速に達した時にそれらの謎に迫れるかもしれない。
というものだ。
創作、ということなら何を書いてもいいのだろう。表現の自由万歳。(当然限度は必要だ。私も努力する)
いくつか段階を飛ばすが、私が "A Phantom of the Air" を視覚で捉えることが出来る時、というのは眼とそれを認識する脳の各部位において、光速を突破するような運動が起きているのだろう、と推察している。
それらは空気の中に存在しているのだから、当然私の体にも存在するはずだ。それらと同調すると見えやすいのかもしれない。私が顕著に感じるものは――
Ziggy Side
「ちょっと待ってくれ」
不滅の携帯端末が鳴ったようだ。私は読むのを止めて彼を見る。少し表情が険しい。なんだろう。嫌な予感がする。
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