幕間1 ――アルティ・スバントラ――
木と、石と、鉄と。
――市壁の着工から一週間ほどが経ち、基礎工事も終わりに近づいた頃のこと。
王都の中央広場にある酒場には、夜になると多種多様な種族の人間たちがあふれかえる。
人族に、
あたしたちのような職人は少数派だし、そもそも仕事道具を持ち歩かないから見た目ではわからない。だからこそ、あたしにとっては王都で一番居心地のいい場所だ。喧騒の片隅、カウンターの一番端で、誰にも見つからずに飲んでいられる。
「あんたも難儀な人だねえ」
顔見知りの酒場のおばちゃん――ちなみに恰幅がいいだけの普通の人族だ――が、冷えた麦酒のジョッキを持ってくる。懐かしい王都の麦酒。妖精の森でも酒は飲めたけれど、いかにも自家製といった感じでこなれていなかった。王都の麦酒は琥珀のような色合いで、苦みが強い。長い年月をかけて洗練された色と味だ。
「べつになんにも難儀なことないって。アフターサービスついでに飲みに来ただけだし」
こつこつと、
それも、今は昔の話。王都からあたしが逃げ出したのはずっと前。いまさら懐かしむにはちょっと遠すぎる過去だ。
「あんたの仕事はちゃんとしてるよ。酔っぱらいが暴れることもあるけど、どこも壊れたりしない。建ててもらってから五年経つけど、ほんとに丈夫ないい建物だね」
「もう五年、かあ……」
もう五年、まだ五年。前のように王都の職人たちの輪へ戻るには遅すぎたし、彼らの顔ぶれがすっかり変わってしまうほど長い時間が経ったわけでもない。
「ほんっと、微妙な時に戻ってきちゃったなあ。いっそ二十年くらい経ってたらよかったのにさ」
「二十年経ったってあたしはまだ現役だぞ」
勢いよく、隣の席に小柄な地精が腰かける。
「ブルーネ……!? こんなとこでなにしてんの!?」
「別に。あたしだって酒場にくらい来るっての。おばちゃん、麦酒ひとつ」
麦酒が届くや否や、ブルーネはジョッキの半分ほどを一気に空けてしまう。地精には大酒のみが多いと言うけれど、こいつもまたその例に漏れない。
「なんだよ、ドラゴンに睨まれたみたいに」
「地竜には目がないって聞くけど」
「誰が地竜だって?」
軽く目線を交わしてから、互いに目を反らす。今は、こんな冗談で笑い合えるような関係でもないのだ。
「……お前、この五年間どうしてたんだ」
「妖精の森で事務所を持って、まあ人並み程度に仕事してたよ。王都の仕事は一度も取ってないけど」
「謝る気はねえぞ」
「そういう意味じゃないって。掛け値なしに充実してたんだ。それこそ、二十年くらいあのままやってみてもよかった」
「嘘つけ。市壁の仕事がなくたって、どうせいつかは戻ってきただろ」
――いつか、王都へ戻る。
そういう思いが一度も芽生えなかったわけではないが、堂々と実行に移すだけの厚かましさは持ち合わせていなかった。
「どうかな……あたし、意外と繊細な方なんだ」
「ああ? どの口で言ってんだよ。このカウンターの石材だって、小分けして隊商に運ばせればいいのに、わざわざ一枚岩のまま石切り場から自分で持ってきただろ。そんなやつのどこが繊細だっての」
「見た目に似合わず、細かいことよく覚えてるよね」
「喧嘩売ってんのか?」
こうしてふたりで飲んでいると、当時のことが思い出される。王都に出てきたばかりの駆け出しの頃、ブルーネと初めて出会ったのもこの酒場だったっけ。互いの仕事も知らずに一晩中飲んで騒いで喧嘩して、翌日の現場で顔を合わせた時には思わずふたりで大笑いしてしまった。
それから、私たちはいくつかの仕事を共同で請けた。この酒場の改修もそのひとつ。衝突することは多かったが、互いの腕だけは心から認めていたと思う。
「ねえ、あれ覚えてる? 王家の離宮のハーフティンバー」
「ああ……あたしたちの仕事じゃあれが一番大きかったかもな」
ハーフティンバー、またの名を半木骨造。木造軸組で建物の骨組みを作り、空いた壁などの部分を石材や漆喰で埋めていく構造だ。ふたつの構造が混ざり合う建築は困難を極めたが、ひとりでは手に負えなくとも、ふたりならなんとかなった。常にひとりで仕事を片付けてきたあたしにとっては珍しい経験だった。
「大森林近くでの仕事だって言うし、それなりの護衛が付くのかと思ったら、発注側の建設大臣が剣ぶら下げてひとりで来るんだもん。正直ちょっとこの国やばいかなって思った」
「実際、あの頃の王国はやばかっただろ。女王様が崩御して間もない頃だったしな」
思えば、あたしたちとアンテロの縁もあれから始まった。
先代から世襲で建設大臣の任を拝領したばかりだったアンテロは、まだまだ実績のないひよっこだった。しかし、都市計画のセンスだけは大したもので、トゥオニからの運河建設や王都内の水道整備など、彼の仕事が王都の繁栄の礎を築いたと言っても過言ではない。
ただ、当時の王国にはその大事業に見合うだけの労働力も、財もなかった。そこであたしたちに声が掛かり、事業はとんとん拍子に進んでいったのだが、それがあまりにも順調すぎたのだ。
もともと公共事業への依存体質が強かった王都の建設業界は仕事不足に見舞われ、廃業に追い込まれたり、実入りの良い冒険者に転職するような者までいた。
そんな状況になれば誰だって原因に気づく。どこの現場にもいて、何十人もの仕事を涼しげにこなす、どこぞの妖精。そいつさえいなければ、みんなが食いっぱぐれることもなかったはずで。あたし自身、周囲の空気が変わってきたことには気づいていた。ただ、仕事の手を抜くわけにもいかず、周囲もあたしに休業を強要できず、そのまま数か月が過ぎて。
『なあ、アルティ。お前、王都から出て行ってくれないか』
ブルーネからそう言われた時、あたしはほとんど驚かなかった。遠からず誰かに言われるはずで、それを言葉にするのはブルーネだと思っていたから。
『それは、王国からの命令? それとも職人の人たちの総意として言ってるの?』
『どっちでもねえよ。あたし個人として言ってるんだ』
あの日も、このカウンターに座っていた。酒場の工事はすでに終わっていて、カウンターのテーブルは今と同じ、ふたりで必死に運んだ大理石で。
『もっとも、お前はとっくにそのつもりだろ。他の誰かに言われたら出て行こうって魂胆だったんだろうが、それじゃあ遅すぎる。潮時を見極めろよ』
『あーあ、ブルーネは引き留めてくれるかと思ってたんだけど』
『……あたしは、そこまで人情深い人間じゃねえよ』
――そして、あたしは王都を後にした。
ブルーネの言葉は冷たかったけれど、あれが最大限の思いやりだったのだと思う。事態が進めば、きっとあたしと王都の職人たちの間の確執は決定的なものになる。そうなれば、十年経とうが二十年経とうが、あたしがこの王都へ戻ることはなかっただろう。
『出ていけ』という言葉で、『戻ってこい』と伝えてくれた。こいつはそういうやつなのだ。
「……お前を追い出したこと、いまでも謝る気はない。あの時は、あれ以外に事を収める方法はなかった。ただ、お前もそうだろうけど、あたしたちだってあの時のままじゃねえんだ。次はきっと違う答えを選べる」
そこまで言って耐えられなくなったのか、ブルーネはジョッキに残った麦酒を一気に飲み干し、独り言のように続きを呟いた。
「だから、あたしはお前が戻ってきたことを、その、歓迎してる。それだけ覚えとけよ」
「えー? なんてー? 声が小さくて聞こえなかったんですけどー?」
「てめえちょっと表出ろ。タガネで耳掃除してやる」
湿っぽく話すのはあたしたちらしくない。こうやって、なにがなんだかわからないくらいにバカ騒ぎして、ごまかすくらいがちょうどいい。互いの思いさえわかっていれば、形にはこだわらない。
こうして今日も、騒がしい酒場の夜が更けていく。
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