市壁を狙う影
――事の発端は、あの日の夜。
わたしたちは工事の着工後も中央土木事務所で寝泊まりを続けていた。近くに安い食堂はあるし、土木事務所の宿泊室もなかなかに快適で、すぐそこに実家があるキュエリも居ついて離れようとしない。
その日も三人での食事を終えて土木事務所に戻り、一旦はみんなベッドに入った。アルティはいつものようにすぐさま眠っていたし、キュエリも小さな寝息を立てていて。
わたしはと言えば、市壁のことが頭から離れず、なかなか寝付けずにいた。アルティは「着工したら仕事はほとんど終わったようなもんだよ」なんて言うし、キュエリだって「設計に間違いがひとつもないなんてこと、あるわけがないのでー。悩み始めたら止まらなくなっちゃいますよー?」とか言っていた。
思い切りの良さというか、いい意味での図太さというか……わたしもそういう考え方ができたら、と羨ましく思う。
夜半過ぎになって、隣のベッドから聞こえた衣擦れの音で目が覚めた。見れば、キュエリがいつもの分厚いローブを着込み、コンパスを手にしている。こんな時間にどこへ出かけるのか、声を掛けようかとは思ったのだが、あまりにも眠たくて声が出なかった。
キュエリが出かけてからしばらくして、ようやく意識がはっきりしてきて、ベランダの窓から外の様子を伺う。あの服装だと素早くは動けないらしく、キュエリはのそのそと夜の街を歩いていた。周りには兵士や魔法使いの姿もあり、ただの巡回にしては物々しい。
上着を羽織り、念のために聖剣を手に取って、わたしはキュエリの後を追った。大人しく寝ておけばよかったのだが、キュエリが先日のような無茶をしそうで不安だったのだ。あのふたりと来たら、どんな無謀も『冒険者だから』の一言で片づけてしまう。巻き込まれるこっちの身にもなってほしい。
「ヴァザーリさん、こちらは異常ありませんでした」
「ご苦労さまですー。なかなか、尻尾がつかめませんねー……」
中央広場まで追ってきてみると、キュエリが兵士から報告を受けているところだった。
「しかし、北限の魔王が攻めてくるなんてことが、本当にあるんですかね? ここ百年ほどは姿も見せないと聞いていますが」
「そうなんですよねー。でも、構築中の大規模結界魔法を破壊するなんて芸当、人間には難しいと思うんですー」
――北限の魔王、ヒーシ。
名前くらいは昔話で聞いたことがある。この王国から一番近い場所に陣取り、かつては人類と小競り合いをしていた魔王。先代が討伐されてから百年ほどは目立った動きもなく、風竜の住む台地の先、薄暗く湿った谷地で息を潜めていると聞く。
「知者の毒杯なんて高位の呪術を使うくらいですし、もしかしたら今回は本気でこの王国を滅ぼしに来ているのかもー……なんて」
キュエリが冗談めかして言った、その瞬間。
北東の方角で雷光のような眩しい光が閃き、この中央広場にまで魔力の奔流がなだれ込む。魔法が専業でないわたしでも、肌をぴりぴりと刺す魔力が尋常なものではないと理解できた。
「歓楽街の方だ! 急げ!」
誰かが叫んで、兵士たちが一斉に走り出す。キュエリもあの動きづらそうなローブで懸命に走る。
たぶん……というか確実に付いていかない方が無難なのだが、好奇心やら心配やらで、結局見つからないように彼女たちを追ってしまうのだった。
――王都北東の歓楽街、修繕中の市壁近く。
わたしたちが到着した時には、すでに多くの兵士が動けなくなっていた。地面に横たわる者、壁に寄りかかってどうにか立っている者、誰もが消耗しているが、見たところ外傷を負った人間はいないらしい。
彼らの視線の先にいたのは、一体の魔物だった。
兵士たちが捧げ持つ松明に照らされて、毛羽立つ物体がもぞもぞとうごめいている。黒い鳥の羽を無数に寄せ集めた、奇怪な人型。目や口は見当たらず、羽の隙間からは得体のしれない液体を滴らせている。ぬったりと絡みつく瘴気を纏い、魔物は呆けたように立ち尽くしていた。
「『セイクリッド・パイル』!」
聞き覚えのある、低く鋭い声。倒れた兵士たちを守るように立つヴァザーリ卿が、強力な破邪の魔法を放つ。彼の杖から放たれた光の杭は魔物の頭部と胸を同時に貫き、周囲に濡れた羽が飛び散る。
しかし、魔物が苦しむような様子はなく、飛び散った羽もひとりでに浮き上がって元通りに魔物の身体へ戻っていく。たぶん、あまり効いてない。
「ヴァザーリ卿の魔法が効かないなんて……」
兵士たちの間には恐れと怯えが広がり始めていた。王都でも最高峰の魔法使い、その攻撃が効かないとなれば、もはやあれに太刀打ちできる人間はいない。
「みなさん、落ち着いてくださいー。あの魔物はおそらくゴーレムの一種です。魔法生物なんですから、魔力さえ断てば倒せますー。きっと、どこかに供給源が」
「……キュエリか。お前は負傷者を連れて下がれ。いくら数がいたところであの魔物は倒せん」
「でも、お父さま」
「いいから下がらないか! お前までここで倒れたらどうする!」
吼えるように叫んで振り返ったヴァザーリ卿の顔。その左半分を、赤紫の禍々しい文様が覆っていた。巨獣のあぎとで見た、生命力を糧として瘴気を発生させるという呪い――知者の毒杯。
「私を含め、既に五人ほどが呪われている。これ以上の犠牲者を出さぬためにも、ここで食い止めなければならない」
「お父さまはどうするんですかっ!」
「この身は王国に捧げている。ここで死ぬのもまた、貴族としての責任だ」
あの致命的な呪いを受けているにも関わらず、ヴァザーリ卿の態度は堂々たるもので、同じく呪われた兵士たちも勇気づけられて再び立ち上がろうとしていた。
「えっと、みなさんちょっと待ってもらえます?」
感動的なシーンをぶち壊すようだが、ここで出て行かないと本当に死人が出かねない。
「リシアさん、どうしてここに……?」
キュエリに呼びかけられて、はたと気づく。
ミスティアさんに化けるの、忘れてた……。
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