ぬるま湯と蜜柑

榛原ヒダカ

ぬるま湯と蜜柑

 

 今朝、私の気分はすこぶる良かった。


 これは近年非常に珍しいことである。職についてから、休日というものが私を酷く煩わせるのだ。かといって仕事が好きという訳でもない。ただこの休日というものに、ある日ふと苛立ちを覚えてしまったのだ。平日、あれほどまでに私の行動を様々な要因が縛るのに、休日になれば社会は私を自由にしてしまう。まったく無責任なものだと、そう考えたが不幸であった。人付き合いもなく、趣味もない私の休日は、ただ休日と無責任な社会への愚痴に費やされていった。私にもう一つ不幸があったならば、それはこの不満の向け先が無かったことであろう。何が悪いかといえば何も悪くはないし、私が悪いような気もするし、全てが悪いような気もする。私は休日を迎えるたび、腹の底の方に、白い半濁色の澱が沈んでいく気分に陥るのだった。

 いつからか、休日の前日はとびきり夜更かしするようになった。そうして日が傾く頃、ようやく目を覚ますのだ。まだ頭がとぼけているうちに小説を開き、文字をなんとなく追っていれば、この憂鬱な一日は去っていった。私にとってこれはなかなかの名案であった。読書はあまり好きではなかったが、流行りのポップスも人気のドラマも、かつて読み漁った少年漫画も、何一つとして私の心に寄り添っては来なかったし、むしろ、何か望まないところへとそそのかされている気がしてならなかった。また、好きでもない読書を半日続けるということは大変苦痛で疲れることだったが、その疲労のおかげで寝つきは良かった。私は何年もこうして休日を乗り越えてきたのだ。

 ところが今日という日は違った。翌日の雨の予報にうんざりしながらも、きちんと夜更かしをした私は、いつも通り日が傾く頃に目を覚ますはずだった。だのに、薄目で見上げた壁掛け時計の針は六時を指していた。うっかり寝すぎてしまったのだと、薄暗い部屋のカーテンを開けてみれば、日はようやく昇った頃であった。赤やら黄やら橙やらに染まった山々の奥から、白む秋の空へと顔を出した太陽は、いつの日か腹の底に抱えた澱をあっという間に溶かしてしまった。まるでよくない夢から覚めるように呆気なく、私は救われてしまった。

 この日、私は生まれ変わったようであった。眼に映る全てが、特別な意味を燦然ときらめかせながら私に迫る。吐息で曇る窓ガラスも、無機質なアルミ製の窓枠も、色のすっかり抜け落ちたカーテンも、全てが美しかった。寝癖で出来た、奇妙な形をした頭部の影は、たとえどんなに偉大な芸術家にさえ創れないであろう素晴らしい出来だった。私は心底満足して、そのままサンダルをつっかけ庭に出た。出て思いっきり伸びをした。冷たい空気が胸を膨らまし、甘い香りが鼻腔をくすぐった。ふいに、家の前の通りを、やわらかい風が抜けていく。私はちょっとした悪戯心から、どこかの金木犀の香りを運ぶ風の後を追った。

 武蔵、と無駄に立派な名のついた団地は一丁目から五丁目まであり、下に下るほど番号が若くなる。私の住む五丁目は一丁目にある駅から遠く、今まではそれがただただ面倒であったが、高台が幸いしてここからの眺めは何物にも邪魔されることはなかった。正面には暖色の山々、眼下には古びた住宅が立ち並ぶ。このくたびれた家々がまたよかった。何が要因してかクリーム色になった壁面や、かつての艶を失って褪せた屋根が妙に私を落ち着けた。

 勢いよく伸びた垣根を右に曲がり、土色の植木鉢に赤い箒草がちょこんと顔を出した玄関を左に曲がると、一丁目から五丁目を貫く通りに出る。通りはのんびりとした下りで、寄り添うように植えられた街路樹が秋の色に染めていた。しばらくあたりを見渡しながら歩いていた私は、ふと立ち止まって足元を見た。傷んだ舗装に水がたまり、空の青と街路樹の赤とをうつしていた。またそこに浮かぶ、薄い黄金のような葉のそこここが、まるで錆に侵されたみたいに茶色く変色しているのを見つめた。何にしても、そのみすぼらしさが私の気を引くようであった。水たまりをまたいで、少し行くうちにまた立ち止まり、はたと首をかしげた。雨などいつの間に降っただろうか。そこではっとして空を見上げた。確か昨日の予報では、今日は雨が降るはずである。それなのに、秋晴れの空には雨雲どころかうっすらとした雲一つ見つけることができなかった。不思議に思いつつも、あまり考えないようにした。悶々とするのはもうやめたのだ。街路樹が風にざわめき、葉を落とす。思わず手を伸ばしてみるも、葉は私の手のひらを見事にすり抜ける。私はすっかり気を取り直して、時折ある大小の水たまりを避けつつ、長いだらだら坂をまた下っていった。

 程なくして、私は四丁目の公園にたどり着いた。こんなにも気持ちのよい、晴れた休日だというのに、この赤土のグラウンドを駆ける子どもの姿はなく、また辺りをぐるりと囲う住宅街からは物音ひとつない。ただ裏の雑木林や足元の落ち葉が、かすかにゆさぶられる音を私に届けるのみであった。そうしてたまに遠くで、名もわからぬ鳥が黒い影を落としながら視界の端から端へと横切っていくのをぼんやり眺めた。昔、この公園のちょうど向かいには学童保育施設があったのだが、現在は小学校に移転して、月極の駐車場になってしまった。時の流れとはつくづく残酷で、かつてこの公園は休日ともなれば遊び場の奪い合いであったというのに、今は淋しさだけがひしめいている。私にしても公園とは、一人で景色を楽しむ場所ではなかったはずである。私は程よく悲しくなって、じっと空を見つめた。巨大な鉄塔から伸びる電線の黒が、空の青によく冴えていた。

 私はこの場所を気に入っていたのだが、何かが私を急き立てるような気がしてならなかった。気のせいだと制しつつも、何かが煮えくるように苛立っていくのに我慢できず、やがてベンチを立った。鼻息は荒く、肘は力み、自然と歯ぎしりしていたようであった。これはいけないと裏の雑木林をしばらくうろついた。主に常緑樹からなるこの林は、まるでここら一帯が季節に取り残されたように青々としているのだった。その緑の葉から、イチョウだのカエデだのの赤や黄がわずかに覗くたび、私はどこか後ろめたい気持ちになった。

 冷静になってみれば、怒りという感情を抱いたのはいつぶりであったろうか。喜、哀楽はあっても、怒るということは、ここ数年、一度もなかったような気がした。そう思うと私は嬉しかった。今まで、自分はどこか欠陥のある人間とばかり思い込んでいたが、それは違ったのだ。喜怒哀楽のうち、実は一番むつかしいのは怒りの感情である。怒りには(少なくとも私には)明確で強固な理由が必要だからだ。明確なだけでも、強固なだけでもいけない。明確で強固とは、例えば自らの、大切なものをけなされた時である。けなされたという明確さ、大切という強固、これによって私は怒ることができる。裏を返せば、私は今、ぼんやりとしたこの現実から明確で強固たるものを手に入れたのである。とするならば、はて、私は何を手に入れ、何に怒ったのだろうか。おそらく、素晴らしい休日を無駄にするな、と無意識のうちに私が私を急かしたのだろう。きっとそうだと納得して、さっさと忘れてしまうことにした。悶々とするのはもうやめたのだ。

 しばらくして私が再びベンチへ戻ると、そこには人影があった。思わず木の陰へと身を潜め、そっと様子を伺うと、うっすら見知った顔がそこにあった。黄と橙の、チェックのシャツを、薄いベージュ色のスラックスの中に入れ、深いえんじのエプロンを身につけていた。ここからではよく見えないが、エプロンの胸のあたりには、絵本に出てくるような黄色いゾウが描かれているに違いなかった。真っ白な頭に度の強そうな老眼鏡をかけ、一心不乱というように本を読む老人は、三丁目にある古本屋の主人であった。彼は私が知っている頃より、ずいぶん痩せてしまっているが、なんとなく気難しそうな雰囲気はより増しているように見えた。私はそうしてしばらくの間、さながら想いを寄せる乙女のように、陰から彼を見守った。それからまたしばらくするうちに、ふと、ベンチの脇に停めてある自転車に目を留めた。形はありふれた軽快車だが、それがまた、なんとも言えない色をしていたのだ。秋晴れの空、とも少し違う、あざやかな薄青で塗りつぶされたフレームに、白いゴムの色をしたタイヤ、それに少し大きめのベルは、可愛らしくチリンチリンと鳴るにちがいない。どこか少女が好みそうな印象だが、現状を鑑みるに、目の前の老いた読書の虫がまたがってここまでやってきたのだろう。細かに想像せずとも、おもしろい図であった。急に、胃のあたりがこそばゆくなる。いつになっても、脳裏にこびりついたこのイメージがなかなか去ってくれない。口の端が、どうしようもなく釣りあがってくるのに気付き、これ以上はもう危険だと、きびすを返して公園を出て、そうしてまた秋に色づいた通りを下っていくのであった。

 日はいつの間にか真上にあった。いまだ雨の気配はない。

 私は四丁目に、もう一つ寄りたいところがあった。四丁目をほぼ下りきったところ、三丁目との境あたりに、寂れた青果店があって、そこに行ってみたかったのだ。というのも、先週の休日、梶井基次郎の作品集を読んだのだが、その先頭に「檸檬」が収録されていたのだ。読書を得意としない私に、彼の作品の全てを理解できているかどうか自信はないのだが、なぜだかレモンという響きに惹かれたのを覚えている。その日から、あのレモンイエローのぷっくりとした塊がずっと頭の隅を埋めていたのだ。

 しかし生憎とはまさにこのことで、いや、店自体は営業していたのだが、何も持たずに家を飛び出してしまったために、私は全く金を持っていなかったのだ。金をとりに帰るか、諦めるか、いやいっそのこと、このまま持ち出してしまおうかと、握りしめたレモンを見つめた。結果から言うと、不審がった(のではないのかもしれないが)店のお婆様に何か声をかけられ、とっさにレモンを置いてそのまま飛び跳ねるように店を出てしまったのだ。ここへ来て自らの臆病さと、一瞬よぎっただけとはいえ、盗みなどと愚かな考えであったと反省した。それはそうとして、こういった内省とはあまり心地のよいものではなく、加えて目的を果たせなかった気分のくぐもりも要因してか、腹の中にこさえた持病であるところの悪い虫がもぞもぞとうごめいてしまっていた。私は気分を害してしまうことを怖れ、何か策はないかとあたりを見回しているうちに、青果店から程ない、平家の少し大きな民家の庭に、ちょうど頃合いの蜜柑がなっているのを見つけた。私は救われた心持ちで、その蜜柑を一つ、もぎ取った。それを利き手に乗せ、そっと鼻にあてがうと、柑橘の爽やかな香りが私の胸をすいた。目的のものとは違ったが、居所を悪くした虫を追い払うのに、それは十分であった。

 私は蜜柑を片手に、またあの通りを下っていた。三丁目、ここには私の数少ない友人が住んでいた。私と同じように、趣味もなければ女っ気もないような男であったから、きっと今日も家にいるのであろうと思ったのだが、どうやら留守のようで、連絡を取ろうにも携帯電話は家だし、第一に用事などないのだ。彼がいったいどこに行ってしまったのか、それはすこぶる気になるところではあったが、まあ、会ったときにそれとなく尋ねてみればよいことだった。と、そこでふと、あの古本屋のことを思い出した。実を言うと、古本屋というのはあまり好きではないのだ。先ほど訪れた公園の真向かいにあった、学童保育施設に私は預けられていたのだが、そこで読んだ、戦争(主として原爆の投下あたり)についての漫画がまさに古本屋の古本のにおいで、心的外傷とまでいかないにしても、そのにおいが私に嫌な記憶を思い起こさせるのであった。とはいえ、私はその作品について、特に過激な主張を持ち合わせているわけではなかった。何かの記事で読んだのだが、どこぞの市立図書館で、この漫画を本棚から取り去ったところ、それに対して、多々賛否の声が上がるといったような騒動があったらしいのだ。何にしても、人々の主義主張が食い違うというのは常で、それはそれで仕方のないことだと思うのだが、こと戦争となると、人はより一層血眼になって声を荒げるように思える。もっとも、右も左もよくわからない私には、この一件についてなにか主張を持ち合わせているというわけでもなく、ただ良くも悪くも恐怖心を植え付けるのには成功していると思っただけである。今となっては、この件がどうなっているのか、私の知るところではない。

 不機嫌な父に、母に引きずられて謝罪しに向かうような心持ちは、確かこんなふうであったなと、懐かしい感覚とともに私は古本屋の前に立ちすくしていた。私の推測通り、あざやかな色をした可愛らしい自転車は店の脇に停めてあった。黄色が日に褪せ、黒ずんだ濃淡の線が何本か入った廂に、ところどころ剥がれ落ちた白いもじで「おかだ古書」の字がなんとか見てとることができた。これもまた、私が知っている頃よりずいぶんボロっちくなってしまっているのだった。中へ入ると、私以外に客はなく、また主人のもてなしの一言もなかった。もっとも私は金を持っていないのだから、お客とは言えないのかもしれない。狭い店内に所狭しと並んだ古書のツンとしたにおいに軽くめまいを覚えながら、さながら何かの護符であるかのように、蜜柑を握る手に力を込めた。

 書架をつらつらと眺めていると、見知った恋愛小説のタイトルに出くわした。本を棚から引っ張り出してみると、覚えのある表紙絵にふと懐かしさを感じた。そのわりに内容が一切出てこないのは、途中で放ってしまったからであろうか。蜜柑を小脇に、一ページ、二ページと目を通してみても、ぼんやりとした話の筋こそ見えてくるものの、全体の輪郭ははっきりしない。いつの間にか私は、のめり込むようにその本を読んでいた。物語の中ほどまで読み進めて、やっと知らない展開になった頃、後ろからいかにもわざとらしい咳払いが聞こえた。不覚。私はなるだけ振り向かぬよう努めて、元あった位置に本を差し戻して古書店を出た。

 どうやら私は今日になって、またあの恋愛小説というものが好きになったらしかった。好きというのは本当のところでは違うのかもしれないが、それでも一時期よりは比べ物にならないほどマシなはずである。その昔、恋愛小説に限らず、恋愛というものを徹底的に体が受け付けない時期があったのだ。理由は根本的かつ明瞭かつ単純かつ複雑で、つまりは恋愛というものを知らなかったのだ。小説、漫画、ドラマ、映画、果ては友人とのたわいもない会話など、恋愛は男女にとって常に付きまとう、非常に厄介な代物であるのに、そういったものから知識を得てみても、我が身に翻って、誰かを好いたり好かれたりといった経験が全くの皆無であったのだ。当時の私は、恋愛小説を現実味のないものだと理解していたつもりだが、現実に、どうしようもなく恋愛が付きまとってくるので、そうか恋愛小説こそが現実の一端であると信じ込んでしまったのだ。しかしこれがいけなかった。恋愛と名のつくものにおいてもっともしてはいけないのが感情移入である。少なくとも、私にとってはこれこそが唯一絶対の真理であった。結果的に結ばれようと死に別れようと、我関せずとした突き放した考えを持っていないと身がもたない。美しい純愛の喜劇も報われぬ悲劇も、物語が終わってしまえばその世界は私だけを置き去りにして、一方的に閉じてしまうのだ。そうして現実へと引き戻された私の中には、もやがかかったような微妙な気分が残り、日に日に思考を蝕んでいくのであった。以前の私はそれがどうしても好きになれなかったのだが、今日という日は、出口のないアンニュイ気分に浸るのもそう危なくないような気がした。何より、あの小説の続きが気になるのだ。

 あたりは次第に暗くなってきているようであった。全身をやんわりとした疲労が包み込む。私はそろそろ帰るのが適当だろうと、あの通りに戻った。傾きかけた日を背にして、街路樹は燃えるような朱に染められていた。駅から坂を上ってくる人の姿が多く、朝の装いとはまったく違うように感じられた。少し風は出てきただろうか、落ち葉がカラカラと音を立てながら流れていく。それでもやはり雨の気配はなかった。実を言うと、それがずっと気がかりであったのである。雨というのは好きではなかった。

 ふいに、足元で乾いた音がした。見れば、少し大きめの落ち葉を踏んだようだった。それをつま先で二、三回踏みにじってみると、落ち葉は舗装にすり潰され、こまかくなったそれらはわずかな風に翻弄さるようにして、どこかへと姿を隠した。ランドセルを背負った子供達の、底抜けに元気な声が、上の方から響いてくる。スーツの男が私の横を抜けていく。永遠に続くような気がした休日が、ゆっくりと、終わっていく。


 私は疲れを取るために、熱めに風呂を沸かした。小説の続きも大いに気になるが、まずはうっすらとかいた汗を流してしまいたかった。また、眠気も少しあるようで、今からでは読書に集中できそうもなかったのだ。

 湯船に浸かると、なぜだか不安が私を取り巻いた。疲れのせいだろうと思ったが違う。冷えた体にじんわりと広がるやさしいぬくもりが、私は急に怖くなった。何が原因してかは、わからない。快晴の空に小さな雲が浮いていれば嫌でも目立つように、私の中の不安も、たいしたものではないのだと思うのだが、それでも、つかみどころも出処もわからないこの嫌な気分は気味が悪かった。せっかく気分の良い休日であったのに、この呪われた気持ちはどうしてくれようか。私は浴槽を飛び出して、体も拭かずに、リビングに置いた蜜柑を掴んだ。そうしてそれを湯船にそっと浸けてみた。柑橘の匂いがかすかに拡散していく。それによって、恐怖が収縮したのか、逆に膨張したのかわからなかったが、妙に勇気が湧いてきた。一つ、告白でもしてみようか。いや、それにはまだ少しだけ足りなかった。

 熱い湯がぬるくなる頃、私は湯船の中で、そっと蜜柑にささやいた。声は風呂場をわずかに反響し、やがて蜜柑のその小さなからだの中に、すっぽりと隠してしまった。

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ぬるま湯と蜜柑 榛原ヒダカ @Haibara_Hidaka

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