七箇所目 石山寺 三井寺 大津
最も、狒々の血など手に入れられるはずもなく、“鬼”というのも、頭に角が生え、腰に虎の皮を巻き付けた人型なのか、実体のない幽霊のことなのか、その書にははっきりとは書いてありませんでした。
それでも琵琶湖のほとりでは、鬼の痕跡を見ることくらいはできるだろうと、とある情報を思い浮かべ、“紫式部と味わう琵琶湖の恵みグルメ付鬼探し”と銘打って、一人ツアーを決め込んだのは、昨秋の山が紅葉し始めた頃のことでした。
京阪石山坂本線の石山寺駅で降りて、徒歩10分ならばと瀬田川の流れに沿って、てくりてくりと歩き出しました。
初めての場所への道のりというのは、ご多分に漏れず長く感じます。
途中、後から来たバスに追い越され、瀬田川リバークルーズが逆方向であればよいのにと嘆き、徒歩10分でなく健脚10分と書いて欲しいなどと、つらつらと思ううちに、ようやく石山寺に到着しました。
さて、ここ石山寺は紫式部が「源氏物語」の着想を得た処としてつとに知られています。
我こそ本家本元とばかりに、2006年から毎年春と秋に「石山寺と紫式部」展が開催されています。
こちらのお寺は、ホームページを見るとイベント満載で、このにぎやかさでは、鬼はいそうにありません。
早々に鬼探しはやめて、琵琶湖の恵みをいただくことにしました。
しじみ釜めしと、赤こんにゃく、川海老豆、しじみの時雨煮、丁子麩などの近江のおばんざい、全て美味しく味わいました。
鮒ずしとほんもろこは、今回はお土産にまわしました。
石山寺のホームページ、紫式部関連のイベントのチェックなどで時折見るのですが、個人的に体験してみたいのは、若き日の島崎藤村が悩ましき日常から出奔し一時期過ごしたという石山寺の密蔵院に、梅雨の時期のみ設けられるという読書スペース“いしやまでら夏安居”《げあんご》です。
そぼ降る雨に日常の音は吸い込まれ、雨音のみの静けさに、さぞや読書もはかどることでしょう。
本を読みながら、日がな一日ごろごろごろ……至福です……
さて、おなかもくちくなったところで、本を買いに行きましょう。
お寺で本といえば、お寺の縁起書?仏教説話集?
いえいえ、ここは紫式部ゆかりのお寺ですから、他所では売っていない源氏本を買うのです。
まずは、石の寺の面目躍如の染まり始めの紅葉と巨岩をひとしきり鑑賞してから、特別拝観のご本尊様を拝んで、境内をめぐりながら、山上の「石山寺と紫式部」展会場へ。
展覧会のカタログには、絵巻物独特の技法の吹抜屋台で描かれた源氏物語のシーンが収録されていました。
見終えてから、山を下り、東大門の手前のお休み処で、お抹茶をいただいてから、『絵本 源氏物語 石山版』『石山本 源氏小鏡 ――絵で読む五十四帖――』を求めました。
これで、琵琶湖グルメと紫式部はクリア!です。
残るは鬼。
黄昏に鬼に会えるかもしれないお山へ、向かうことにしましょう。
瀬田川の流れはゆったりとして見えるのに、ひとたび流れに乗った船はすーっと速く去っていきます。
船がこのまま琵琶湖を経て、疎水を遡って三井寺まで行けばいいのに、などと思ううちに京阪石山坂本線の石山寺駅につきました。
折り返し運転の派手なラッピング電車に乗って、しばし揺られて三井寺駅につきました。
少し歩くと、琵琶湖疎水です。
琵琶湖もすぐです。
訪れたのは秋初めだったので、桜並木がそろそろと染まろうかまだ待とうかと、互いに相談し合っている頃合いの黄紅でした。
山門はゆったりと、来るものを全て受け入れますよといわんばかりに、ゆったりと。
深山幽谷の修行の寺とは違い、大らかに来るものを迎えてくれる境内は、聖俗併せた“にほい”が、そこはかとなく漂っていました。
記念撮影に余念のない観光客以外にも、弁慶の鐘を仲良さげに搗こうとしているカップルや、学生のグループや、カメラ片手の年配者まで、どちらかといえば、のんびりと過ごしにきている人が多いようです。
金堂では中へ入り、ぐるりと堂内を巡っていくと、途中になんと売店が。
お線香に絵葉書、ガイドブック諸々、お寺さんグッズがずらりと並んでいる中、なんとコスメがあるではありませんか。
しかも、三井寺オリジナルグッズ!
――胡粉ネイル――
「白桜」「三井桜」「紅桜」「月桜」と、三井寺の境内に咲く桜をイメージした、白色顔料の胡粉を使ったネイルです。
名前も色彩も麗しい、お寺グッズの白眉ではないでしょうか。
求めた「白桜」の解説に曰く……三井寺は「湖国の花の寺」として知られています。この胡粉色は、近江八景「三井の晩鐘」近くに咲く白桜をイメージして選びました……
先に求めた『三井寺の鐘』の小冊子をめくると、近江八景の文芸の項で、鐘と花が詠まれていました。
金堂を出て境内を進んでいくと、映画撮影スポットの立札があり、ああ、なるほどと辺りを見回してから、琵琶湖を望めるという展望台へ、少し足を速めて坂をのぼっていきました。
ようやく展望台への入口の西国十四番札所観音堂につきました。
と、目の端を妙な色彩模様がかすめ去りました。
そちらを見やると、観音堂を構成するお堂の一つ1753年宝暦三年につくられた百体堂の格子窓に、色鮮やかな絵札が掛けられていました。
近づいてみると、赤ら顔にぎょろ目がおどけた表情の鬼の絵でした。
ああ、これこそは、元祖へたうま大津絵ではありませんか。
大津絵とは、江戸初期に、東海道五十三次の大津の宿場で街道を行き交う人びとに護符として売られた無名の画工たちの独特の筆致の画のことです。
よく見ると、鬼の首には丸皿のような銅製の
百体堂に掛けられていたのは、紛れもなく、「鬼の念仏」という画題の大津絵でした。
と思いきや、見かけたことのある絵とは、どこか違和感がありました。
「大津絵の鬼の角は、人の我執、我欲の象徴だったはず。確かそれを諫めるために、片方の角が折れていたのではなかったかな」
「耳折れならぬ角折れ姿もご愛嬌」
「愛嬌で世の中渡っていけるのかな、鬼なのに」
「おさなごの夜泣きをおさめて魔物を祓うご利益があるのだ」
「魔物を祓うって、鬼も魔物でしょう」
「言われてみればそうかもしれぬ」
「言われなくても、鬼は人を怖がらせるのだから……ああ、なるほど、怖がらせる力があるから魔物に効くのか」
とりとめのない脳内会話に決着がつき、はたと手をたたき、自説に納得しかけた時でした。
鬼が、いました。
恐る恐る百体堂の掛札を見ると、やっぱり。
札は空っぽ、心なしか、鬼が描かれていたであろうところの輪郭がかすれて残って、その周りはそのまま木目が浮き、鬼が抜け出た跡は、白々と浮かんでいました。
脳内会話にするりと加わっていたのは、鬼だったのです。
それにしましても、大津絵の鬼とは、なんと怖くない鬼でしょう。
親しみやすいといえば聞こえもいいのですが、鬼としてはそれは違うだろうなと、懸命に怖さアピールをする鬼への対応を猛スピードで考えました。
鬼であることはあるのですが、どうにもユーモラス過ぎて、怖くないのです。
でも、それをそのまま伝えたら、鬼のプライドは傷つくでしょう。
掛札にもどらない、などと言い出したら、お札を納めた人は、がっくりしてしまうことでしょう。
うまく鬼を巻いてしまえないかと、展望台へのぼって、穏やかに煌めく琵琶湖と疎水の桜紅葉を眺めながら、私はうろうろしたり、ベンチに腰掛けて、しばらく寝たふりをしたりと、鬼などそこにいない風にふるまっていました。
鬼も、最初は、しきりに威厳を見せようとしていましたが、一人芝居でますます滑稽になっていくのを悟ったのか、展望台から降りて来る頃には、それもやめてしまいました。
せっかく来たのだから、名物を食べて行こうと茶店に寄ると、私が声をかける前に
すっかり馴染み客のそれで、鬼は、土産物屋の女将さんにひやしあめと力餅を頼んでくれました。
ずいぶん親切なことです。
けれど、このまま憑いてこられても困ったものです。
おちおちうたた寝も、湯船でゆっくりも、泣けるビデオ鑑賞も、鬼が気になったら楽しめません。
茶店に腰掛けると、どっと疲れが出て、のどが渇いてきました。
まずは、ひんやり甘いひやしあめで、のどを潤しました。
ただ甘いだけでなく、わずかに舌に感じる塩味が、甘さに深みを与えています。
それから、力餅をひと口、ふた口、手が止まらず、一気に食べてしまいました。
鬼と差し向かいのおやつの時間。
旅は道連れというものの、鬼。
しかも、怖くないからボディガードになるかもあやしい。
たぶん、鬼ひとりでは、この山を出られないのではないでしょうか。
憑きやすい人間が現れると、隙をみてくっついて、そのまま人界へ連れていってもらおうという魂胆なのかもしれません。
大抵、憑かれてしまう人というのは、どこか、ぼやぼやしてるに違いありません。
もうひと口水あめを口に含んで顔をあげると、はて、折れていたはずの鬼の角が、いつのまにやらまっすぐに。
それどころか、二つの角の間に、小さな角が生えかかっているではありませんか。
まさか、鬼におごってもらうと、鬼憑きでないと山を下りられなくなるなんてことはないでしょうね。
思い至った途端、つるべ落としに
<石山寺 三井寺>
最寄駅 石山寺
JR東海道本線「石山寺」駅
京阪石山坂本線「京阪石山寺」駅
三井寺
JR湖西線「大津京」駅
京阪石山坂本線「三井寺」駅
各お寺のホームページで、詳細をご覧いただけます。
<今日買った本>
『紫式部と石山寺』
大本山石山寺発行
『石山本「源氏小鏡」―絵で読む五十四帖―』
大本山石山寺発行
『絵本源氏物語 石山版』
大本山石山寺発行
『三井寺公式ガイドブック[新版]』
三井寺(園城寺)発行
『三井寺の鐘』
総本山園城寺事務所発行
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