四箇所目 旧白洲邸 武相荘 鶴川
小田急線の新百合ヶ丘で各駅停車に乗り換えて二駅、鶴川で降りて駅前ロータリーでバスに乗り、鶴川一丁目で降ります。道路越しに目を上げると、こんもりとした樹木の茂りが遠くに見えます。
そちらへ向かう道沿いの小高い緑地を抜けて進んでいくと、「旧白洲邸 武相荘」に辿り着きます。
武州と相州の間にあるので、と名付けられたのですが、ひねたユーモアも入ってます。
白洲次郎・正子夫妻、二人が出会ったのは、1920年代アール・デコ華やかなりし
政府の外交ブレーンとして活躍した次郎と、米国留学帰国子女の伯爵令嬢正子、こう並べただけで、社交界の華やぎがふさわしいモボ・モガのカップルの姿が目に浮かびます。
そんな二人が、なぜ、都会を離れ、当時は何もなかったであろう多摩丘陵の寒村、鶴川村を終の栖に定めたのでしょう。
戦争の危うさを見通し、いち早く都心を離れねば、との英断だったのです。
以降、二人は、自給自足を旨に暮らし、正子は自分の道として、骨董、巡礼、古典への造詣を深めていったのです。
駐車場のあるこちらの入口は裏手になります。
竹林を抜ける散策路が好きで、訪れる時はこちらからにしています。
雨上がりのやわらかな陽射し、竹の葉のそよぎ、通り際に触れると若青い香りとともにはじけ散る、青葉に光る水玉。青葉が揺れるのをやめると、表のバス通りからすぐのところとは思えない静けさが訪れます。
タケノコの茶色い皮をつけたままの竹が、名残りの春から初夏へ季節の移ろいを知らせています。
遊歩道の雨溜まりに映る樹影に導かれて、やがて受付に辿り着きました。
受付を窓口で済ませて、次郎の愛車の展示されている屋外カフェを左に進み、門をくぐります。右手にBar & gallery“Play Fast”、白洲家の食卓が味わえるレストランがあり、その先が母屋のミュージアムです。
そこかしこに、季節の花が、すっと置かれたり、活けられたり。
庭は手を入れすぎず、野辺の草花の可憐さがのぞき、のびやかな枝には、花も葉もあるがままのように。
時経ても変わらず続く、日本の里の四季と自然が感じられます。
ミュージアムは、茅葺の平屋建ての元は農家の民家です。
靴を脱ぎ引き戸を開けて中へ。
入ってすぐの間は、往時の暮らしを忍ばせる家具や装飾が設えられています。
整然と飾られていない分、かつての住人たちがくつろいでいるさまが見えてくるようです。
ぐるりと回り込むようにして奥へ進むと、正子の書斎に行き当たります。
そこはひとまず置いておいて、企画展を先に見学しましょう。
春、夏、秋、冬、それぞれの季節ごとに、暮らしぶりの偲ばれる品々が、所狭しと並んでいます。
展示されている器や、着物、諸々、まっさらではないのです。
それはそうです。
生活の中で使われていたものですから。
骨董に至っては、歴史の中で使われていたものだったかもしれないのです。
この、まっさらでない器には、正子の娘さんがつくったという西洋家庭料理が、正子のルーツ薩摩のご馳走が、似合いそうです。
企画展を見学し終えたところで、正子の書斎に向き合います。
北向きの奥まった部屋には、ぎっしりと本の詰まった書棚の壁、壁、壁。
和布が継ぎ合わされた正子愛用のひざ掛けが、書きもの机の手前に無造作に置かれています。しばし目を凝らせば、机に広げたノートや書籍、メモ帳を繰りながら、原稿用紙を埋めていく彼女の後姿が見えてくるようです。
折口信夫、南方熊楠、菅江真澄、ああ、これは、あの本の資料だな、と、書斎の棚に見つけた本をあれこれ品定めしていくうちに、そこはかとなく品のよい香煙が漂ってきました。
正子は、琵琶湖のほとりの香舗のお香を好んだとのこと。
これは、光源氏の四十の賀に供された沈香でしょうか。
香を聞くうちに、場は浄く静かに、心は深く沈みゆき、尊い心持ちになっていきます。閑寂とはこの境地かと、西洋の香りの誘いとはまるで違う、東洋の導きの香りに、身を任せてみます。
雑多なものが削がれていきます。
机に広げられた白紙のままの原稿用紙に、今だったら、最初の一文字が記せそうです。
一が決まれば、後は、さらさらと筆は流れていくでしょう。
そう思ううちに、ゆるやかに薫煙はたゆたって消えていきました。
正子は、お香は好きでも香道は敬遠していたようです。
自伝の中で、母との関わりの中で感じるようになった「孤独な快楽」としての香道は、あまり好きではないと述べています。独自の見解として、香道とは、「周知のとおり、香は嗅ぐといわず聞くという。この言葉は、香の香たる所以をまことによく言いあてている表現で、人は香りの向う側に、この世ものならぬ声を聞き、空想の世界に我と我が身を没入していたに違いない。ある時は神の言葉を聞いたかも知れないし、天上の音楽に耳を澄ますこともあったであろう。が、深く入れば入るほどそれは内に籠るだけで、外に解放されることのない閉ざされた境地である。」と記しています。
浮世離れしたお嬢さまであった母が、病床でお香を嗜むことにより、「ますます此世から遠ざかって行くように見えた。」ことに、幼心に寂しさを感じていたのかもしれません。
ミュージアムの奥に広がる散策路は、なだらかな丘陵になっていて、そう広くはないものの起伏に富んでいます。西日が射すと、丘の向こうにどこまでも続く道があるような気にさせられます。
起伏のある散策路を一周してから、受付と同じ建物にあるショップへ向かいました。
白洲正子の著書は、全集をはじめ、衣食住にわたる一家言を写真とともに紹介されているものが多数出版されています。
今回は、こちらでしか入手できない企画展の図録を求めての訪問です。
図録とともに、現館長の正子の娘さんの手による着物地を使った栞も求めました。
それから、筆運びが速やかになるのを願って、正子が好んだというお香も求めました。〆切間際なのに何もできていない時は、これを焚こうと思います。
雨の日は、お香の香りが、濃やかにたつようです。
訪問からこちら、しばしば、お香のたゆたいに頼っています。
文字で埋まってくれた原稿用紙の移り香に、ひと時、やすらいでいるのです。
<旧白洲邸 武相荘>
最寄駅 小田急線「鶴川」駅
旧白洲邸 武相荘のホームページで、詳細をご覧いただけます。
<今日買った本>
『きもの–夏』
武相荘オリジナル図録
武相荘発行
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