第94話 田口三千媛

物心ついた時から住んでいたその部屋の戸が空くのは朝暮ちょうぼの膳の時だけだった。


からりと細く戸を開けた白い手が夕餉の膳と水の入った椀と香り砂の入った小箱を取り換えてすぐに戸を固く閉ざす。


最初はその手に取りついて出してもらうよう泣いてせがんだけれど、


あなたの身に何かあったらどうするの?


とその手の主は脇の下や太ももなど柔らかいところをねづんだり、顎を掴んで怖い顔で脅したり、と何度も恐ろしい目に遭わせるのでやがて自ら外へ出ようとするのを諦め、一日中じっと部屋の隅にうずくまるようになった。


冬は手足がかじかんでしもやけが出来るほど寒く、夏は頭がぼうっとするほど、暑い…


「夫人さま、大丈夫ですか!?」


と体を揺さぶられて嵯峨天皇夫人橘嘉智子は目覚めた。


残暑厳しい都の夏の午後である、最近目覚める直前には幼少期の頃の厭な夢を見るようになった。


そうだわ、ここは後宮の私の部屋でいま起こしてくれたのは明鏡。


「ずいぶんうなされておいででしたよ」


嘉智子は額の汗を手で拭ってほう…と気怠いため息をついた。大量の寝汗で衣が重い。


衣を替えますね、と明鏡が周りに屏風を立てて嘉智子の藍色の下着を脱がせるとそこにはとても子を二人産んだ女人とは思えぬ瑞々しい肌と乳房が現れる。

井戸で汲んだばかりの水を巾に浸して体を拭いてもらうと火照った体が冷えてとても心地よい。


「いつも思うんだけど」


お化粧や着替えの最中にはいつも黙っている嘉智子さまが珍しく話しかけて下さるので明鏡がはい?と手を止めて次のお言葉を待つと、


「明鏡の手付きはとても優しいのね」


と眩しすぎる微笑で言われたのでもう十年お仕えしているにも関わらず、明鏡は面映ゆくなってそ、そんな…と顔を赤くしてしまう。


衣を替えてお化粧を済ませた頃にちょうど嵯峨帝がお出ましになりいつになく神妙なお顔で嘉智子の生母、田口三千媛たぐちのみちひめの危篤を報せてくださったのだ。


嘉智子が実家に帰る支度をしているそばで嵯峨帝は明鏡に、

「事が事だから正子と正良を母方の祖母君に会わせてやるべきだと思うのだが…そこでだ明鏡」


は、と明鏡は畏まり、


「重病人の看護にかかりきりな橘家にいきなり乳呑み子二人をお連れするのは大変ですわ。乳母として喜んで夫人さまに付いて参ります」


と拝跪してから団扇を掲げた。

それは幼い頃自分を監禁して育てた母親に未だに怯えている嘉智子を守るように。


という密命だと互いに口に出さずとも心得ている二人であった。


外出用の衣を着せてもらい、髪を結い直して化粧を施してもらう明鏡は


嘉智子さまとお子様がたを守らねば!という使命感を持ちながらも、


思えば7つの頃に内裏に上がって以来、初めての外出になるわね…と不安なのか外の世界への浮き立った気持ちから来るのか解らない胸の動悸に襲われた。


嘉智子と子供たちと同じ御車に乗り、最初は内裏から出るのは初めてです。わたくしはお産の時以来だから半年くらいかしら。とお喋りをしていたが橘家に近づくにつれ嘉智子は黙り込む。


厳重に護衛を付けた夫人の御車が橘家の門をくぐり、お出迎えの口上を述べる声が宮中でよく顔を合わせる従兄の逸勢のものであることに嘉智子と明鏡はほっとし、


それにしても吟詠で鍛えたいいお声…と逸勢の口上に聞き惚れた。


やがて御車の御簾が巻き上げられ、出迎えてくれたのはすぐ上の兄、橘氏公。


「夫人さまにおかれましては母、田口三千媛のお見舞いお越しいただきまことに光栄でございます」


と柔らかい物腰でささ、と邸内に導いてくれ案内された部屋では藤原三守の正室である姉の安子が「道中お疲れでしたでしょう?」と嘉智子の腕から眠る正良を抱き取ってくれた。


「お母様はどうなのです?」


と嘉智子が尋ねると安子はぐずる正子をあやしながら厳しい顔でうつむき、


「あと2、3日ももたないと薬師の見立てです。幾度もあなたの名前を呼んでいるの…あなた、直にお母様と会って大丈夫?」


本当は大丈夫ではない。籠められていた頃の怖くて寂しかった記憶は今でも夢に見るし思い出すと震えが来る。

でも、あの頃とは違って今のわたくしは天皇の夫人で二児の母なのです。


お母様との最期の対面から逃げる訳にはいかない。


「会わせていただきます」

嘉智子は顔を上げ、はっきりとそう言うと安子は妹を抱きしめ、

「強くなったわね」

と涙ぐんだ。


嘉智子が実家の一室に籠められるようになったのは父、橘清友が亡くなってすぐの3才から今は帝である神野親王との婚約が決まった14才までの間。


3才の嘉智子が抵抗を諦めた頃に姉の安子が手習いの道具を持って読み書きを教えてくれ、観音像が入った厨子を部屋に置いてくれた。

5才の頃から姉だけでなく楽や絵や漢文などを教えてくれる師匠が部屋に入って来たが…全員女人だった。


部屋から出ることを許され初めてお会いした殿方は後見人の藤原内麻呂さま。内麻呂さまはわたくしの顔を一目見るなり、


「…うむ、噂以上の容貌だ」

とほう、と息を付くと満足げにうなずかれ、すぐに内裏に入る日が決まった。


どうして橘家の子たちの中で自分だけが?


訳を問いたださなければわたくしはこの先一生、自分を閉じ込めた母に怯えて生きることになる。


でももうそんなのは嫌、絶ち切らなければ。


疲れて寝入った子供たちが目覚めるのを待って正良を嘉智子が抱き、正子を安子が抱いて母、田口三千媛が病臥する部屋に入る。


気配を消した明鏡も部屋に入り、嘉智子のすぐ後ろの几帳の陰に隠れて座った。


「…来て、くれたのね」


田口三千媛の落ち窪んだ眼からつう、と涙がこぼれた。


嘉智子が直接母に会うのは入侍以来だからもう10余年になるか。

あの頃は冷たい目をしていながらも色白で美しかった母の容貌は水気を失って萎びてしまい、体の肉という肉が削がれたように失くなっていた。


豊かに結い上げていた黒髪は半分白くなり、枕元の盆に折り畳まれている。


目の前にいるのはあの頃の母とは別人なのだ。

と思うと嘉智子は心に何の揺らぎもなく病人を見下ろすことが出来た。


「いくら家のためとはいえ、あなたには辛い思いをさせました…でもこれには深い訳があるの。話さないとこの母、死ぬに死ねません」


あのね

これはあなたたちのお父上、清友さまから聞いた話なの。


その頃の清友さまは生まれる直前に政変で父を殺され、周りの貴族たちからは

やあ、落ちた橘が腐っている。と言われ屈辱を噛み締めながら生きておられたそうよ。


清友さま二十歳の頃、身丈大きく容貌美しかったのを買われて渤海の大使さまを接待する任に着かれたの。


雲ひとつ無い闇夜のこと、渤海大使の史都蒙しともうさまのお酒の相手をなさっていた清友さまは接待の相手に


「む、むむ…珍しいな相だ。あなた自身の背後に月と、その後ろに太陽が見える。怖がることはない、これは瑞兆だ」


と言われて顔相を見てもらうことになったの。


「安心なさい、あなたの骨相からすると今は落ち込んでいてもお家は大きく栄え子孫は繁栄する。が…それはあなたの代ではない。32の年あなた自身に厄があるから気を付けることだ」


闇夜だったのに大使さまの彫りの深い顔だちだけははっきりと見える不思議な夜だった。


と清友さまは話してくださったわ。


その9年後に五位から内舎人に出世なさってやっと大使さまの予言通りになった。と喜んでいらしたけれど家を栄えさせる我が子は誰なのだろうか?


その子に家の命運を賭けなければ、我が身にはもう時間がない…と思い悩んでいらした時に嘉智子、あなたが生まれたの。


清友さまは初めてあなたを抱いた時、

背後に月、その後ろに太陽。

という大使さまの言葉の意味…



太陽は天皇、月は皇后。


あなたが皇后となりて、次代の天皇を生む。

ということだと理解なさったの。


それから3年後、本当に32で病に倒れた清友さまは嘉智子、あなたを抱き寄せて、


「この子を必ず勢いのある皇子さまに縁付かせるのだ。それまでみだりに他家に嫁に出したり男に姿を見せてはいけない。たとえ兄弟でもだ」


と言われたの。


「で、でも、男に見せるなと言われましても…」


私は慌てたわ。死を前にした世迷いごとだと思った。


「一室に籠めればいいではないか、その中で最上の師を付け教育させるのだ。師も女人だけ選べ」


「本当に兄弟にも会わせるな、と?」


「三千よ、お前は男の本性を知らぬ。嘉智子のこの美しさを見てしまえば間柄も関係なく事に及んでしまうのが男ぞ」


と口をにんまりとさせる我が夫のあの顔、背筋が凍りました。とても人の父とは思えぬ冷酷さでした。


「いいか、必ず嘉智子を国母に」


と言ったきり清友さまは何かを掴むように手を伸ばし、掴もうとした途端にぱたん、と腕を落として息を引き取ってしまわれた。


「それからはあなたが覚えているように父の遺言通りあなたを閉じ込めて育てました。

なんで鳥を飼うように娘を育てなければならないの?

この母も本意ではなかった」


喋りすぎて体力を消費した三千媛はぜいぜいと全身で息を付いてしばらく休んでから、


「全てはお家の栄達のため。と感情を殺してあなたに辛く当たってしまいました。許して、嘉智子…」


嘉智子の膝の上では正良皇子が何かふしぎな生き物を見るように祖母を見ている。


「お子様がたを、これへ」


骨張った手で三千媛が手招きすると嘉智子と安子は正良と正子を祖母の腕の中に入れてあげた。


三千媛は正良の髪を撫でて、


「皇子さま誕生で橘家の悲願は叶おうとしています…嘉智子、あなたは女人の身ひとつでよくぞこの家を立て直してくれました」


と切れ切れに言ってから無理に起き上がり、孫二人を残りの力で両腕で抱きしめた。


その時、心の臓の発作が起こって三千媛は孫たちを弱々しく突き放し、


子供たちを引き取った嘉智子に喘ぎながら、


「今…後のご栄達…を、お…祈りしてます…よ」


と言い遺して床に仰臥し、そのままこと切れた。


橘嘉智子生母、田口三千媛死去。


没落していた橘家に嫁し、異国の大使の予言に一家再興の夢を見た夫の遺言ひとつに縛られて望まぬ子育てをして娘に疎まれ、


その結果を見届ける事も無いまま息絶えた、自分の意思では何一つ思いどおりに生きる事が出来なかった弱い女人のひとりだった。


母の葬儀を終えて内裏に帰った嘉智子と子供たちを嵯峨帝は「大変だったね」と優しく迎え、嘉智子に改めて、


ああ、やはりわたくしの居場所はここなのだ。

と実感させた。


「それでは嘉智子に国母の相あり、と言うことなのだな?明鏡」


「はい、お話の全てを聞き届けて参りましたが…橘清友から皇后が生まれ、さらにその皇后から天皇が生まれる。という暗示かと」


興味深い話だ、と嵯峨帝は御酒をお召しになり、


「これからはさらに子らを慎重に育てねばな、明鏡」


と正良皇子を将来の後継と思って育てるように。


と一番信頼している宮女にほのめかした。


は…と言って御前から下がった明鏡は嘉智子の部屋に帰り、廊下で夜空に浮かぶ上弦の月を眺めている嘉智子の後ろ姿を見て、


きっとたそがれたいのでしょう…と気を遣ってこっそり側仕えの宮女と交代した。


お母様。と嘉智子は心の中で亡き母に語りかける。


深い訳を聞いて腑には落ちましたけれど、それですぐ許す。という程わたくしは修行が足りません。


でも、


これで橘家の呪いは解けたのでしょうか?


後の檀林皇后、橘嘉智子。


彼女の疑問が承和の変という過酷な現実となって返ってくるまであと32年を要する。












































































































































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