第93話 集光

延暦10年(791年)、伊勢神宮。


斎王いつきのみこさま大変でございます!

と狼狽えきった巫女たちに起こされて祭祀以外で初めて外に出たのは朝原内親王が14の時。


正殿から火柱が昇って真夜中の空を紅く照らす光景を見て私は…


あってはならないことが起こってしまった。


と斎王としての己の身の不覚を深く恥じていまこの場所で死にたい、とさえ思った。


でも死そのものを穢れとするこの国古来の信仰で伊勢斎王である私にはそれすら出来ない。


御神宝八咫鏡はじめ正殿十宝の焼失。


思えばそれが四年後に突然「何の忌事も無かったのに」私が斎王退下させられた本当の理由なのだ。


父、桓武帝はこの事を絶対秘匿するように伊勢の神職たちに箝口令を敷き、実際はなにもなさらなかった。


きっと父は天皇家の神性、というものに内心は何の有難味も抱いてなく、天皇というよりは、


絶対的な力で他を支配する「帝王」としてありたかった御方だった。


やがて父が崩御なさり、異母兄で夫でもある平城帝が即位なさった。


私が伊勢正殿の真相を告げると平城帝はお顔に大汗をかいてその場にくずおれ、


「御鏡を失った、ということは天皇家は天照大神にも見捨てられたということではないか!この国はもう終わりだ…」


と怯え畏れ、伊勢氏の血を引く高岳親王を天皇にする事に執心なさった。


伊勢の神事を司る一族から天皇を出すことで神の怒りを鎮めようとでもお思いになられたのだろうか。


終わっているはあなたのほうです、お兄さま。


と言ってやりたかったが当時宮中で幅を利かせていた薬子に殺されたくはないので内心の失望を隠して三年、後宮の中でひっそりと機を待った。


そして夫平城帝が病で倒れ、病床で弟の神野に譲位を宣言なさった、と聞いて践祚を終えられたばかりの嵯峨帝に真相を告げると…


「失ったものは新しく造り出せばいい。それだけの事じゃないですか姉上」


と御心に何の動揺も無く仰ったので私は、


ああこれでやっと20数年隠し続けていた秘密から解放された。と心の底から安堵したのだった。その時、


神野は神獣鳳凰にまで好かれた百年に一度の聖太子…よし、この若き新しき天皇に国の未来を託してみようではないか。


と頭の中に響いたお声は誰のものだったのか。もしや、とも思うけれども既に斎王を降りた私にはあずかり知らぬこと。



その新しき鏡を磨く時、思いを何もを込めるな。


という空海の言い付け通り田辺牟良人は鏡作神社の一画に籠り、今朝鋳型から出されたばかりの御鏡にまずは金鑢かなやすりで平面を整えると次にアーチ型の刃物になっているせんという道具で削りだし、鏡面に膨らみを持たせる。


鏟痕を砥石で整え、数種類の研炭とぎすみを使って鏡面を磨き上げる作業を寝食以外まる三日間、牟良人は無心で行った。


「出来上がりました」


三日後の朝、空海と波瑠玖と来瑠須だけを室内に集めて出来上がった者だけが御鏡の仕上がりを確認するためこの時だけ御鏡の表裏を見る事が許された。


「な、なんとこれは…!」

布で口を抑えつつ今年80になる来瑠須が裏の文様を見るなり目を大きく瞠って小さく叫んだ。


それは、中心の鈕に八つの葉が取り囲んでおりさらにそれは一つの円と二つの方(正四角形)を組み合わせた太陽の形を模した図形の中に組み込まれている。


八葉中有方円五位象、とも呼ばれる御鏡の文様を縁まで幾重にも正円が取り囲むよう刻まれた文様は…


「まるで胡より伝わる文様(幾何学模様)ではないか」と波瑠玖が唸り、「空海阿闍梨、この図柄をどのように思いつかれたのですか?」と来瑠須が思い切って尋ねると空海は首を振り、


「わしも最初図案を見た時は、まるで曼荼羅のようではないかと思いましたが違います」ときっぱり言った。


「この御鏡は宗像の巫女さまのご許可を得て、宗像大社の八咫鏡を模したものなのです」


実は今年の正月8日の夜、藤原冬嗣邸で内裏の御鏡を一晩中眺めている内にあることを閃いた空海は、

密命の内容には少しも触れずに宗像一族の女頭領イチキに


「あなた様がたの多大なるご助力のおかげでお上に取り立てられ都で過ごしております」


という内容の表面上はお礼の文面とも取れる当たり障りのない文を送った。唐に出航前と帰国直後に見せつけられた彼女の先見性と霊力の高さを信じての行動だった。


イチキから返事が来たのはひと月後のことで、その文面は…


形代(八咫鏡)の大事の件、私のみならずわざある女たちなら全て感知している。

まずはお妃さまの長年のご心痛察するに余り有る。


そこまで読んで空海は、


やはり、イチキをはじめ西国の霊力の高い巫女たちは八咫鏡焼失を感知なさっていたのだ!


すももを果実ごと押し込まれたような逼迫を喉元に感じた。さらに返事の文を読み進める。


以下に、宗像大社の御鏡の図面をここに記す。喪われた形代より古いものだから何の気兼ねなく使うように。


ともう一枚の大きな紙に宗像の八咫鏡の上に紙を被せ、炭を擦り付けて裏の文様を転写した図面が…


「今、ここにある御鏡の文様なのです。なあ皆さん」


と空海は伊勢の八咫鏡新造に力を貸してくれた胡人の職人たちを振り返り、


「宗像の八咫鏡が作られた昔は大陸の西だの東だの、

胡だの天竺だの中原だの日のもとだのあまり区別が無かったおおらかな時代だったのかもしれまへんなあ」


と遥か昔に思いを馳せる四人の男たちは生まれ変わった御鏡を前に自然に頭を垂れた。



昼は元斎王兼上皇妃として後宮で女官たちにかしずかれ、夜は結った髪を全て解いて身を浄めて

垂髪に白い巫女装束で温明殿に通う朝原内親王はいつの間にか…


ご神鏡の巫女。


と密かに呼ばれるようになった。


我が身の不徳で本物の八咫鏡を失ったこの私が、なんと皮肉なこと。と内心朝原は思いつつも内裏に戻ってから毎夜欠かさず温明殿の御鏡に向かって祈り続けてきた私の役目も遍照金剛の最後の仕上げを以て全て、終わる。


密命の最後の仕上げは素絹に五条袈裟をかけた神事を行う僧侶として空海自身が箱に納められた御鏡を持ちて伊勢神宮に赴き、


夜明け前の太陽の方角に向かって一抱えもある御鏡の鏡面を向けて、光が当たる直前に彼しか出来ない秘術を行うこと。


まずは


この世で最初に光を崇めた拝火教徒の一族が称える

フワル・フシャエータと呼ばれる太陽よ


次に


密教の守護神、大日如来の本体である


全宇宙を照らす太陽よ


最後に日の本の守護神天照大神の本体であり古来よりこの地をあまねく照らした太陽よ


我は遍照金剛空海


生まれたばかりのこの御鏡の上にご請来奉りたまへ…


これから先は空海にしか見えない光景であるが、


鏡面の上に三つの燃え盛る火の玉が現れるとそれは正三角形の頂点の位置で静止し、やがて勢いを持って鏡の上を回る。それは三つの太陽が尾を引いて旋回しているように見えた。


三つの光は速度を増しながら鏡面に近づくと意思を持ったもののように一つずつ鏡の中に飛び込んで行く。


胡での祈りの子達と子孫が拵えた鏡に喜んで入っていくフワル・フシャエータ。


化身である空海の働きを認めて光を分けてくださった大日如来。


そして、


古来より日の本を守り光の恵みで我らを育んで下さった天照大神の順に全ての光が鏡に収まった瞬間、


夜明けの光が御鏡を照らし、鏡面全てに光が満ち満ちた。


八咫鏡新生。


という大それた一大事業を成した空海の顔には喜びも満足もなく頬には一筋の涙が伝う。


実は、

最後の光が八咫鏡に入る時、空海は自分がお会いしたある人物の気配を感知していたのだ。


ああ…夜が明けた。


御鏡に太陽神を込める儀式を遍照金剛は成功させたのね。その証拠に、


手足に力が入らず息をすることしか出来ない私がこうして内裏の御鏡の前にいるのだもの。


「朝原さま?…朝原さま!」


と取り乱す命婦たちに抱えあげられた朝原内親王は己の生命力のほとんどを御所の御鏡を通して新しい八咫鏡に注ぎ込んでいたのだ。


先ほど空海が感知した光は天照大神ではなく、朝原内親王の魂だったのである。


いいの、これでいいの。

御鏡を失ったときに死ぬべきだった我が身。こうして新しい鏡に命を捧げる事が出来て悔いはないわ。


と満足げな笑みを浮かべたまま朝原は気を失い、七年後の薨去まで彼女は寝たきりの状態で過ごす事になる。


太陽神の子孫として代々崇められてきた一族よ、あなた方は…!


なんとも遣りきれない思いのまま空海は箱に納めた八咫鏡と、密教の法具を元に宝玉と金属を組み合わせて拵えた十宝を正殿に奉納してから伊勢神宮を辞した。


これでもう、わしが伊勢を訪れる事は無いであろう。


と拝礼を終えて背中を向ける空海の背に向かって、正殿の白い幕がふわっと舞い上がる。


弘仁2年9月4日、嵯峨帝皇女仁子内親王伊勢に御群行。


出迎えた神官たちは20年間秘密を守り続けるという重圧から解放されこれで何もかもが元通りだ、という安堵のもと新しい斎王を斎宮にお連れした。


「文の結びには、

『我の一声で西国の全ての豪族を抑えていることを忘れるでない。と今の帝に伝えてほしい』と書いてありました。宗像を忘れるな、という意味でしょう」


密命を果たした空海の報告に御自ら鷹に餌付けをなさる嵯峨帝はしばらく遠い目をなさってから、


「空海よ」


「は」


「朕は、目に見えないものは見えん」


「それでおよろしいかと」


「そう割り切って政務を行わないとやっていけない事が多々ある。…が、天皇とは目に見えない神の代理を務める事により今の地位を保証されている。

いわば目に見えない存在に支配されている最も敬われ、最も呪われている一族なのだ」


どう答えていいか解らず空海が押し黙っていると、それでよい、と嵯峨帝はお笑いになり、


「だから呪いから国を守るために父は最澄を利用してきたし、朕は密教とお前を利用する、そういうことだ…高野山の一族と宗像の女頭領には褒美を弾まねばな」


「そこで帝」


「何だ?」


「高野山の今後に向けてひとつ提案があります」


と空海は腹案のいくつかを鷹小屋の前で初めて披露した。


それをお聞きになられた嵯峨帝は、


「いつまでも天皇と僧侶が昵懇でいる訳にはいけないしな…よかろう、許す」


と数年後の高野山開創に向けて丹生一族と田辺氏、秦一族を密教のお抱え職人として空海が引き取る事を許可なさった。


奈良の工房では、

「実は都の造営をお上が中止なさって以来、秦一族は仕事にあぶれてしまってなあ…樵の仕事ばかりじゃ先祖代々な木工の腕も鈍っちまう」


と言いながら秦真比人が鑿と槌をふるって複雑な木組の模型を作り、法具作りの共同作業の中で和解した丹生一族に木工の腕を披露して見せていた。


おお~っ、すげえな!と丹生の男たちが感嘆の声を上げ、


「お前ら勿体ないぜ!その腕で寺や神社をどんどん作れよ」


と囃し立てるが、いやだからそれはお上の命で…


と真比人が言おうとすると波瑠玖が、


「…いや、いつまでも貴族の借り物の高雄山寺にいる訳にはいかない、と真魚さんが言ってた。案外近い内に仕事が来るかもだぜ」


と励ますように真比人の肩を掴んだ。その力が強すぎるのでぎゃっ!と声を上げ「だからお前は力加減を覚えろよ!」と真比人が叫ぶと集団の中でどっと笑いが起こった。


こうして、

朝原内親王、嵯峨帝、空海はじめ

渡来人の田辺氏、丹生一族と秦一族と数多の人々を巻き込んで守られた秘密は、


1200年後の今ではもう誰も知らずにひっそりと守られ続けている。


































































































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