第92話 因縁

それは空海と牟良人が伊勢に旅立つ直前の東大寺でのこと。


素絹そけんに鈍色の五条袈裟

という装束に身を包み、こころもち緊張している空海を前に実忠は、


「ふむ…それでよいであろう」

と許可し、着付けに当たった僧たちにこれを記録するように指示したのでこれまで十数回着替えさせられた空海もほっ、と体の力を抜いた。


東大寺別当の伊勢参拝は実に50年ぶり。僧侶がどのような装束で参拝していたか詳細な記録が残っていない。そこで、


奈良で最古参の僧侶であり


東大寺の生き字引

とまで呼ばれる実忠の監修のもとで奈良の昔、神事を行っていた僧侶が着ていた装束の再現を試みたのだ。


「ご苦労だったね。後は休むように」という実忠の言葉を受けて僧侶たちが袈裟、衣を丁寧に折り畳んで権別当の前から下がらせ、


「田辺牟良人をこれへ」

とかつて因縁のあった男の孫を呼び出すよう命じた。


東大寺権別当、という現別当の空海よりも偉い存在を前に白い直垂姿の牟良人は烏帽子の顎紐が汗で濡れる程緊張している。


「来たね、面を上げなさい」

かなりの高齢の割には良く通る声で言われ、恐る恐る顔を上げた時、瑠璃の色の瞳がにこにこと笑ってこちらを見ていた。


「そんなに畏まらなくてよい、わしも胡人の子孫だ。そしてお前の祖父もよく知っておる」


え、奈良で一番偉い坊さんがじいさんを?

と反射的にさらに顔を上げた牟良人に実忠は


「あれは65年も前だ。大陸の西に伝わる錬金、という術に長けた胡人が大仏鋳造のために積極的に採用された。

当時のわしは行基大僧正ぎょうきだいそうじょうに仕える学僧のひとりで、現場のひとつで働く職人の監督と世話を任されていた」


火花を上げて燃え盛る炉の前で実忠は田辺老人と出会い、同じ胡人ということで若い二人はすぐに意気投合した。


「今思えば毘盧遮那仏建立びるしゃなぶつこんりゅう

という国の大きな事業のもと庶民も貴族も僧侶も、忘れ去られていた渡来人も心をひとつにして働いた、人生で一番やりがいのある時代だったよ…」


違う、本当は。

鋳造の際に川に溶け込んだ鉛の毒で山の木々は枯れ、麓の川は白く濁って作物も育たなくなり、


水を服した人々は病で手は痺れ足腰は立たなくなり、舌がもつれ目が見えなくなるという金属の毒による病を…


タタリだから仕方の無いことだ。

と皆、諦めて死んで行った。

そうやって滅んだ村はいくつもあった。


大仏が着々と出来上がって行くその足元では、

一番弱い立場の人々がじわじわと苦しんで死んでいく生き地獄がこの世に再現されたのだ。


金属の毒に無知なこの国の人々にはタタリと言えばそれで済んだ。しかし、気付いていて黙っていられなくなり事を起こそうとした若者たちがいた。


「なぜ俺を見ようとしない?」


自分は心に一片の曇りも無い。といいたげな透き通った心と眼で田辺老人と彼の二人の弟は、

患者の治療に当たっている実忠に病の原因は水に溶け込んだ鉛である事を報告し、


「これは直訴して鋳造をやめてもらうべきだ」

と、とうとう言ってはいけない一言を口にした友を見据え、固く目を瞑り首を振る。


「この国の人たちは女帝やそのご両親までもが唐帰りの玄昉げんぼうや無能な大臣、橘諸兄たちばなのもろえに誑かされて毘盧遮那仏さえ作れば仏が全ての苦を消してくださる、と本気で思ってらっしゃる…まことにおめでたき方々なのさ。

国ごと巻き込んだ事業なんだ。もう誰にも止められない」


「ならば、知ってて黙っていろとお前は言うのか?」


「今ここで話している事を他言したら俺たち四人が消される」


実忠は手刀で自分の首を横一文字に斬る仕草をしてみせ、

「命が惜しかったら黙っていることだな」

と凄みを利かせた声で忠告した。


「だけどジュド!!」


と胡語でそう呼ばれ、袖を掴まれた実忠は突発的に沸き上がってきた怒りのまま友の手を乱暴に振り払った。


「俺をその名前で呼ぶな」


と言い捨ててから以降、仕事以外で彼らに取り合わなかった。


大仏開眼直前に田辺三兄弟は自ら都を出て姿を消してしまった。


田辺老人ことアミールよ。


こうしてお前の孫に対峙しているとわしは、物事の因縁と結果けちがについて嫌でも考えざるを得ない。


65年も前にわしがお前ら兄弟の直訴を脅して取り下げさせ、都を棄てさせてしまった罪を今償え。と佛は示してらっしゃるのか?


牟良人の眼は綺麗過ぎて、本当のことを言えなくなってしまうではないか…



「お前の祖父は最後まで職責を果たした立派な男だったぞ」


と仰った実忠さまの微笑がなんだか頼りないものに見えた。


牟良人は里の一族を連れて高野山の頂から下山し、麓の天野あまのの里に着くと住民である秦一族が大量の薪を積んだ荷車と養老律令で定められた職人の衣と烏帽子を用意して待っていた。


里の長は秦真比人はたのまひとという波瑠玖と同い年の24の若者で、小柄だがきこりの仕事で鍛え上げた鋼のような筋肉を衣から覗かせている。


騒速は彼に抱いた第一印象は色白で分厚い一重まぶたの目を伏せがちな、何を考えているのか解らない男。というものだった。


10年前に高野山の丹を掘り尽くした対価の取り分で


「掘ったのは丹生だからこちらが多く貰う」


「いいや、危険を冒して丹の精錬をしたのは秦なのだからこちらが貰う」


と諍いを起こして物別れし、以来お互い生きていく為の物々交換の関係だけになりお互いほとんど口もきかなくなった秦一族が珍しく、


「そのような色だらけの派手な恰好ではお役人に咎められてしまいます、ここで着替えてもらえますか」


と丁寧に接して来て波瑠玖は本当ならば「断る」と言いたいところなのだが…


実は、里の人びとが空海に「食い詰めた高野の民が皆生き延びるための好機やで」と言い含められているのを波瑠玖は知っているのでここは空海の顔を立て、

「衣も薪も有難く使わせてもらう」と鷹揚にうなずいて下界の服装に着替えてから秦一族と合流し、旧都平城京に向かった。


本来の密命を隠すために空海が嵯峨帝に提案したこと。それは…


「奈良に工房を建て密教の法具を作らせる、だと?」


と嵯峨帝は御椅子の上でこれは面白そうだ、と身を乗り出して空海の話を目を輝かせてお聞きになられた。


「はい、我もこれから密教の弟子を増やす使命があるのです。が…阿闍梨号を授けても与える法具が足りないので困っております。ならば新しく工房を構えて鋳造師たちを雇わなけらばならないのです」


「それで火と金属の扱いに長けた高野山の民の技術が必要なわけか」


成程、表向きは新興の宗派である密教の法具作成を依頼してそれを手掛けるのが仏教からも産土神信仰からも距離を置いた異教徒の渡来人一族ならば…


堂々と御鏡を作成できるしこちらの気も咎めない。妙案ではないか。


「三守!」


帝に呼ばれた藤原三守が「は」と笏を掲げ、


「奈良には空いた土地が沢山あります故どこをどう使おうかは別当どののご自由です」


と空海に向けてぎゅっと片目をつむって見せた。

嵯峨帝の最側近の彼でさえもこの会話は密教法具の作成の許可を得る奏上と認識しており、密命の本当の目的を知らない。


あ、今の自分は奈良で何をやっても表向きは何も言われない立場なのだ。


自分が東大寺別当、という奈良仏教界では最高の地位にあることをいちいち言われないと忘れている空海であった。


こうして


奈良の北西に鎮座ずる鏡造坐天照御魂神社かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ(現・奈良県磯城郡田原本町大字八尾字)


の近くに金属を溶かすための炉を作り、その上に工房を建て、唐の恵果阿闍梨から頂き、空海自身が書写した密教法具の製法書と図面を広げて職人たちに指導し、真土と呼ばれる粘土と砂が配合された材料を木枠で囲って牟良人の手を借りて鋳型を作成した。


先祖より受け継ぐ技術ひとつで異国の地で生きてきたのを誇りとする渡来人の職人たちは、ひとたび作業にかかればもう丹生も秦も関係なく過去の諍いなど思い出すいとまも無かった。


高温の坩堝の中に銀を溶かし、液状化した銀を鋳型の中に慎重に流し込む。この作業は手早く、かつ慎重に行わなければならないので熟練の鋳造師である田辺波瑠玖と彼を育てた老職人二人が行った。


中の銀が冷めるのを待ってから木枠を外し、中から三つの爪を持った三鈷杵が現れた時には工房の男たちからおお…!と快哉の声が上がった。


ほんのりと熱を持つ黒ずんだ三鈷杵を手に取った空海はこれが、この国で最初に生まれた法具…恵果さま、とうとう空海めはこの日の本に密教法具を再現することが出来ましたぞ。と思うと亡き師との短いけれど濃密な秘法伝授の日々が脳裏を駆け巡り、


「高野山に住まう秦と丹生の一族よ…あなたたちは本当によくやりました」


と声を詰まらせながら職人の一人一人に労いの言葉をかけるのであった。


ちょうどその頃に賀茂騒速と賀茂素軽は空海警護の任を解かれた。


本来の主である阿保親王からの使者が工房を訪れ、

「直ちに我が邸に戻るように、との親王様よりの命である」


と工房の手伝いに追われて灰だらけになった二人の前でそう告げた。


日が暮れる前に都に帰る事になり、荷物をまとめる騒速の後頭部にこつん、と何かが当たり、振り向くと足元には小石があり格子戸の外はシリン姫がこっちよ、と手招きしている。


小屋から少し離れた木の下に呼び出され、思い詰めてる様子のシリン姫は意を決して騒速と向き合った。


「どうしても行っちゃうの?」

「ああ、親王様の命だから仕方がないんだ」


あっさりと騒速が言うとシリン姫は最初驚き、次に怒りで眉間にしわを寄せて唇をいろんな形に動かした。


「あのさ…言いたい事があるんだったら早く言ってよ」

もう!と言ってシリン姫は自分の前髪に差した櫛を素早く抜き取り、騒速の両手に押しつけた。


それは青銅で出来た櫛で円を幾つも組み合わせて花の形になった珍しい文様が彫られている。銅で出来ているから硬く、歯が欠ける事も無い。


「ありがとな」と言って騒速はためらいも無く烏帽子を脱ぎ、自分の髻の根元に櫛を差すとシリン姫は涙を浮かべながら「待ってるからね!」と旅立つ彼に何度も手を振った。


「あのな、お前な」

都へ帰る道中、いつもは無口な素軽が堪り兼ねて弟分を振り返った。


「何だよ兄者」

「その櫛は恐らくシリン姫が親から受け継いだ形見であろう。しかも高野の頂の里で姫の方から名を問われ、お前は名乗ってしまったそうではないか」


「それがどうしたの?」


…素軽は天を仰いで、この鈍すぎる弟分に今この場で蹴りでも喰らわせてやりたい気分になったが辛うじてそれを抑えた。


「この愚鈍っ!

名乗りが成立して姫の身に付けている櫛まで受け取った、って事はなあ、婚約が成立したって証なのだぞ!」


ようやく事の重大さに気付いた騒速はシリン姫のくるくる変わる表情やわざと突っぱねた態度、その癖山羊の乳で拵えた手作りの醍醐(チーズ)をくれた事などを思い出し、


つまりはそういうことなんだ。と納得すると急に体中が熱くなる。


「どうしよう兄者…」

と頭を抱えてその場でうずくまる弟分の手を強引に引いて次代の修験者の長は、

「とにかく逸く都に帰ってからゆっくり自分の気持ちと向き合うんだな」


とわざと突き放した言い方をした。


空海が高野の民に依頼した法具が半分程出来上がった頃である。


空海、田辺波瑠玖、その弟の牟良人、さらに兄弟の大叔父にあたる職人頭の老人クリシュこと田辺来瑠須たなべのくるすが鏡池と呼ばれる池で体を浄め、白衣に身を包んで鏡作神社の御祭神である石凝姥命いしこりどめのみことに御鏡作りの報告と完成の祈願をする。


古事記によると、八咫鏡と呼ばれる鏡は天照大神が天岩戸にお籠りになられ高天原が闇に包まれた時、


「天照さまよりも素晴らしい神様がいらっしゃったので皆が喜んでいるのですよ」


と言われ気になった天照がそっと岩戸を開けるとそこに石凝姥命が石を磨いて拵えた鏡を掲げ、「だ、誰なの?」と鏡に映った自分の姿に驚いている内に外に出されて光を取り戻した。という謂れのある元は石鏡だったのである。


この四人の他には誰も知らない場所。


社の裏手にある空き地に小さな炉を作っておき、空海自らが鏡の裏の紋様を拵えて作った鋳型を合わせ、一抱えもある大きな鏡を一部の歪みも無いよう銅と錫の配分を計算し尽くした波瑠玖の手によって金属が溶かされる。

その作業を波瑠玖の師匠である来瑠須がいちいち確認してはうなずく。


秘密の作業の間、皆口をきく事も無く波瑠玖の手によって溶けた金属が鋳型の中に流し込まれた…


大きな鏡なので一晩かけて冷やし、黒い円盤が鋳型から取り出された時にはもう夜明けを迎えようとしていた。


後は御鏡師の牟良人がここに残り、磨きの仕上げ作業に入る。


「頼むで、牟良人はん」


女人の腕で一抱えの大きさもある鏡を手渡す空海はそこでやっと口を開いた。


夜明けの光がまだ黒い円盤をさっと照らした。
























































































































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