第91話 丹生一族

黒く分厚い雲が空を覆ったかと思えば半時も経たずに青く晴れ渡る。


まったくもって移ろいやすいのは山の天気と人の心。


高野山の頂の丹生一族の里に来て三日目、佐伯真魚は草むらに寝っ転がりながら雲が去って晴れてゆく空を眺めていた。


あれは六年前やった、人も建物も流され尽くした長岡京を高台から見下ろし、


どう努力して積み上げても都は一瞬にして崩れ、努力して学んでも人はあっけなく死ぬ。


もう何もかもが駄目だ。


と思った時から自分の心に無明の闇のような分厚い雲が棲み始め時折強く、


自分が自分であることをやめてしまいたい。


と学生真魚に思わせるまでに心の空を覆い尽くすようになった。


それは書に向かう程、先人の言の葉を頭に容れようとする程逆効果でありついには文章の一字も頭に入らなくなった。


その日の内に真魚は都から出奔した。


あの時、山中で唐語で漢詩を諳んじる戒明和尚かいみょうおしょうに出合わなかったら?


生きるための智恵であるという仏教の本当の意味を教えてもらわなければ?


間違いなく自分は頭を下にして崖から身を投げていたかもしれない。


いいかね真魚、と戒明和尚が折に触れて


「お前が修行を深め、ある程度道を究めた頃に世間のほうがお前を頼って来る。

その時、出家は世間からの逃げ道では無いと思い知るのだ」


と忠告してくれたが、今はまだその時ではないな。と呑気に草笛なぞ吹いている私度僧真魚を地面に這いつくばって睨み付ける少年が居た。


彼は田辺老人の孫、ファルーク。11才なのにその背丈は真魚と同じくらいで、腕力では里の誰にも負けやしない。


なんでじい様はあんな得体の知れない男を客扱いしてんだ?気に入らねえ…


ファルークは身を屈めながら草陰から走り出し、隙だらけの真魚の体に馬乗りになり、


気の済むまで殴りつけてこいつを追い出してやる!


と真魚が来た時から思っていた事を実行したが振り下ろした最初の一拳を柔らかく掴まれ、手の甲と肘の関節を同時に捻られて激痛が走る。


「降参せい」

「~~~っ…」


嫌だ。俺は今まで一度も負けた事ないんだ。参ったなんて死んでも言うもんか!


「強情やな、負けを認めるのもまた生きる途」


真魚の片方の足裏を股の付け根に当てられたファルークの体がふわっと宙を舞い、真魚の頭を飛び越えて背中から地面に叩きつけられる。


背中が痛い!身をよじろうとしたファルークの上に真魚がまたがり、両手で胸郭を地に押しつける。息が出来ない。


ファルークの心に、生まれて初めて他者への畏怖と恐怖が沸き起こった。


「言うべきことがあるやろ?」


と無表情で見下ろす真魚に向かって必死にうなずく。

相手の力が緩んでやっと息ができる。


「…ごめんなさい」

と言ってうなだれるファルークこと田辺波瑠玖、絶対この人だけには敵わない。という大人に初めて出会った。



その日の夜更け、「今日はお孫さんに手荒なことしてすんまへん」と真魚が詫びると田辺老人は笑いながら首を振り、


「いいんだよ、この子はいっぺんきつく揉んでやらんといかんと思っておった所だ。

うちの乱暴者を叱ってくれてありがとうな」

と逆に感謝の言葉をくれた。


里長の家にいる子供たちは田辺老人の孫たちで


長男波瑠玖(ファルーク)11才、

次男牟良人(ムラート)8才、

そして長女で末っ子の志厘(シリン)4才。


厚くふかふかした胡の敷物の上に身を寄せ合って眠っている。


「あの…この子たちの両親は?」と聞くと


「雷に打たれて死んだ。去年のことだ」


と老人は答えた。自分の息子と娘の死なのにどこか乾いた口調だった。


「この里にはよく雷が落ちて年に一人か二人は死者が出る。一年の半分は冬の寒さが続き、花も咲かない。人が生きて行くには厳しいところだ」


床の中央をくり抜いて作った石造りの炉に老人が炭を追加すると橙色の小さな火がぱちぱち、と音を立てて火花を散らす。


「では何故、あなた方は麓に下りず外界を避けてこの里で暮らしているのですか?」


鍋に水を入れて湯を沸かし、香りの良い草を入れて煮立てるとそれを柄杓で掬って木の器に注ぐまで老人は無言だった。


「胡人にとってもうこの国は生きづらいところになってしまった」


と答えるまでの長い沈黙は、

かつては都で毘盧遮那仏びるしゃなぶつ(奈良の大仏)の鋳造に携わっていたがなにがしかの理由で都を出てこの場所に安住の地を得るまでの、渡来人の異教徒の労苦を物語るようであった。


「飲みなさい」

勧められるまま薬湯を啜ると柑橘みたいな香りがして快く鼻腔をくすぐり、味もほんのり甘い。


「気鬱の病に効く薬湯だ」

老人はにやりとし、隠していた持病を見破られた真魚は空にした器に目を落とした。


すると、自分でも知らない内に張りつめていた気が緩んだのだろう。睡魔に襲われた真魚はそのまま胡人の三兄弟の横に並んで眠ってしまった…


目を覚ましたら既に朝、炉にかけられた鍋には粥が煮え立っている。横で寝ていた子供たち起きて外に出ている。我ながら随分深く眠っていたようだ。


「粥を食いなさい、今日はお前にいいものを見せてやろう」


と朝餉を終えて老人に付いて行って頂上の里から山の中腹まで降りるといくつも煙の立ち昇っている場所がある。


そこに近づく前に

「おまえさん、年はいくつかね?」と尋ねられたので「24になります」と正直に答えた。


老人はふうむ…と唸り、


「ここからは25過ぎた男しか入っちゃいけない作業場なんだがね…もう二度とここへ来ることは無さそうだから今回は特別だ」


と言ってすっぽりと口元を覆い、目だけを出した分厚い頭巾を真魚に被せた。


「絶対約束だ。蒸気を鼻と口から直接吸ってはいけない。作業場のものに素手で触ってはいけない。ここから出たら顔と手と衣服を丁寧に水で洗うこと。いいね?」


と念を押す老人の3つの忠告をしっかり頭に入れた真魚は「守ります」と固く肯いた。


「よろしい」と老人に許可されて入った広場には何やら朱い石を臼で砕く作業をしている者と、少し離れたところで砕いた粉末を鍋に入れて火にかけて煮詰めている男たちが17、8人。皆、頭巾を被って手袋を付けて作業している。


老人の現場入りに気づいた男たちはうやうやしく老人に目礼した。


「ここは丹の精錬の作業場。働いているのは麓に住む秦一族の男たちだ」


老人は高野山で採掘される辰砂しんしゃを砕き、さらに別の金属を加えて質の良い丹に精錬する技術を麓の秦一族に教えるいわゆる現場監督の立場にあった。


唐ではいにしえから練丹術と呼ばれて精錬した丹を服すと不老不死の体に変化すると云われ、道教の書にもいくつかの丹薬の製造法と効果が記されているものがある。


そういえば秦の始皇帝も他に天下に成す事も無くなり丹薬を服していた。


…という大学寮の漢籍に書かれていた事柄を老人に話すとやれやれ、と相手は首を振った。


「か~っ…未だにそう信じて疑わない者がおるのが嘆かわしい!

いいかね?若い私度僧よ、精錬した丹は服したら即死に至る強毒なのだ。だから作業に携わる者はこうして布で身を包み毒を体に取り入れないようにしているのだ」


ここで出来た丹を見るかい?と倉庫の中の甕に詰まった完成した丹を見せられた時、


なんて鮮やかな朱の色…本当に人の生き血みたいや!

と心打ち震えたことは生涯真魚の胸に刻まれた。



「真魚さんがお山から降りて3年くらい後だったわ、吉野の鉱山師やましが都の造営の為に大量の丹が要る、と言って丹生と秦の一族を総動員させた大仕事があってね…お山の辰砂は掘り尽くされてしまったの」


田辺老人と丹生一族の姫との孫、シリン姫は騒速そはやを連れて中腹まで下り、今は朱に染まった石臼だけが転がった作業場の跡を見せた。

鍋には硫黄がこびりつき、錆びて穴まで開いている。


「さびしいもんだな」


かつては最新技術を持った鋳造師たちが働いていた現場の残骸を見て、騒速は思うままを呟いた。


血液に似た赤い色から丹は魔よけの色として珍重され、塗料として寺社仏閣を中心に高く売れた。


山から原料である辰砂を掘り出す鉱山夫の一族が丹生で、それを大陸渡りの技術で精錬する一族が秦である。


「私が小さい頃は丹生も秦も一緒に働いて持ちつ持たれつで暮らしていたんだけれど、仕事が無くなった途端秦はお山を下りて、丹生は頂の里に引きこもってしまった。


暮らしの当てが無くなると人って本当に離れてしまうのね…」


鉱山師は十分すぎる謝礼をくれたがその取り分を争う大人たちの正体を見てしまった現場にあまり居たくない、


とでも言うように行きましょう、とシリンは騒速の腕を取った。


頂の里まで一気に駆け上がるシリンの俊敏さに、この娘の足腰は吉野の女修験者並みだ。まるで牝鹿みたいだ!


シリンの首筋から汗が滴り、騒速の顔に当たる。甘く芳しい汗に頭がくらくらする。


あれ?俺どうしちゃったんだろう。調息してして走っている筈なのに何故か鼓動が激しくなる…


この気持ちは一体何だ?


初めて沸き上がる自分の感情が何なのか解らないまま騒速はシリンと共に里に入り、何だか人だかりのする工房の前まで行くとその最前列では、


従姉で兄の妻でもある、丹生寿々香姫にうのすずかひめが心配そうに3才の息子を抱き寄せて佇み、その横ではぶたれた頬を押さえた牟良人が、


「大丈夫だよ義姉上、じいさんを都から追い出した仏教徒たちには俺も反感があったけど、真魚さんだけは他の坊さんとは違う。きっと兄上を説得してくれるよ」

と義姉を励ましている。


彼らの話を聞いているとどうやら彼らの祖父の田辺老人がこの山頂に里を作ってできるだけ他者と関わらないようにして暮らしていた理由は…


拝火教徒であるが故に仏教と宗旨が合わず、大仏造りの務めを果たすともう用無しとばかりに都から追放されたからなのだな。


と大体の事情を騒速は察した。


何を崇めるか、という違いで人は簡単に別たれ排除するか殺し合う生き物なんだ。


ヤマトとエミシの争いの最中さなかに生まれ、敗れて従属させられたエミシの俘囚の子として育った騒速は痛いほどそれを解っている。


さて、どうすんだ?真魚さん。


工房の石造りの壁をくりぬいた窓からは午後の明かりが作業机を照らしている。


黒地に白い唐草模様の刺繍を縁に入れた帽子を波瑠玖が脱ぐと、無造作に束ねた金髪の巻き毛がばさっ!と音を立てて毛先が背中の真ん中辺りを打つ。


「ムラートが里を出て行ってからはシリンは誰との結婚をも拒むし、麓の秦一族も細工物の腕が落ちた、と言ってあまり引き取ってくれない。里の暮らしは先細るばかりだ…」


とうなだれて机にもたれる波瑠玖の背中に空海は敢えて厳しい声を掛けた。


「だからってムラートが帰って来るなり直ぐに妹と結婚させて一生この里に縛り付けるつもりかい?そこにムラートの気持ちはいっこもあらへんし、シリン姫の本心も尋ねないまま添わせるんか?」


「仕方ない、教えとはそういうものだ」


と抑揚のない声で言うといきなり手を伸ばした空海に束ねた髪を掴まれ、


「本気でそう思っているなら、なぜわしの目を見ない?」と鼻先が擦れ合う程顔を近づけた空海の目を直視させられる。


空海の目は白目が青みがかって一切の濁りが無い。


「田辺波瑠玖よ、お前が守りたいのは一体何だ?拝火教の教えか?胡人の血筋か?それともこの里の人びとか?」


教えに従っていれば幸せに生きられる。


物心ついた時からそう言い聞かされて育って来た。求め過ぎず、与えられた光明神アフラからの恵みを享受して生きて笑って暮らしていればいい。そうじい様は言っていた。


しかしお山の恵みが枯渇した今はどうだ?暮らしの先には不安ばかりで麓の民とも物の遣り取りだけで心が通わない付き合い。


お宝を創り出す民、と誤解されて賊が里を狙うので番犬の数を増やした。


じい様。貴方が生きていた頃はみんな笑い合っていたのに近頃みんなあまり笑ってくれないんだ…


長である俺自身が、皆を不幸にしているっていうのかい?


両目から溢れ出た熱いものが頬を伝い、顎から滴り落ちて机に置いた陶製の首飾りを濡らす。そこには巨大な鳥の姿をした善神アフラ・マズダーにまたがる拝火教の開祖ゾロアスターの模様が焼き付けられている。


首飾りの上にぽろぽろ涙を落とす波瑠玖は「家族を、里のみんなを守りたい…」としゃくりあげながら答えた。


空海は彼を抱き寄せながら、


「よう言った。わしがこうして阿闍梨と呼ばれるようになったのも高野山の恵みのおかげ。この里の全て一切引き受けてやる」と宣言した。


真魚さんが?お山の恵みで?


一体何のことを言っているのか解らない、と涙にぬれた顔で困惑している波瑠玖に空海は、


「わしが唐留学のための資金集めに奔走していた頃、吉野の修験者が丹の商いで儲けた金を寄進して下さった。修験者の名は賀茂のタツミ」


その名を聞いて丹生一族の若き長は顔全体で驚いた。


そいつは10年前にこのお山に来て辰砂を掘り尽くさせた鉱山師やまし


…その丹の鉱脈は、どこにあったのですか?


空海の留学自体もいったん白紙にされて山中で気鬱の病で倒れた時に修験者タツミと蓼に助けられ、介抱されていた大安寺に十分すぎる留学資金を置いて出て行こうとする二人に尋ねた時、


振り返ったタツミは


「高野山」


と口元になんともいえない笑みを浮かべていた。


高野山の恵みの丹のおかげで今のわしがあるのだ。「それでだ、ファルーク」と身を乗り出した空海と波瑠玖は夕刻まで話し込んだ…



随分長い話だねえ、と工房の外で待ちくたびれた一族が夕餉の支度でもしよう、とその場を離れようとした時突如工房から長の波瑠玖と空海が出て来て、


「皆の衆、明日からお山を下りるぞ」

と長が確固とした意志を持ってそう告げた時、最初どよめきが起こり、しばらくして歓喜と高揚という解放された感情で男も女も手を取り合って飛び上がった。


翌朝、里の民は波瑠玖をマギ(ゾロアスター教の祭祀)役に彼らが清浄なものと崇める祭壇の炎に向かって祈りを捧げた。


仏教の僧侶である空海は彼らの背後から祭壇の炎を見させてもらい、

これや、これなんや!唐の西市の帰りに見せてもらった清浄な祈りの炎…


婆羅門教ではホーマといい、密教では護摩ごまと呼ばれる祈りの炎の原点が今、自分の前に再現されている!


それぞれの荷を持って高野山を降りる民を先導する空海の上空の空は薄曇りだが、祭壇の上で燃え盛る、


この世で最初に起こったであろう教えの清浄な祈りの炎を胸に留め、からりとした口調で言った。


「ああ、気が晴れた」






















































































































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