第88話 聖域

黒目がちのつぶらな瞳がじっ…と自分の顔を見つめながらお乳に吸い付いて来る。


生まれて三月になる正良まさらのその顔を見るだけで、嘉智子はもうこれ以上ないくらい幸せだった。


やがて、お腹いっぱいになった正良が乳首から口を放し母親に縦抱きにされてげっぷをするまで父である嵯峨帝は


「正良は寝てしまったか?起きているなら抱いてもよいか?」


と授乳の間ずっと帳の向こうで待たされていた。


「おねむではないようですのでどうぞ」


と乳母の明鏡の許可を得てやっと嵯峨帝は愛しの我が子をこの胸に抱くことが出来るのだった。


「よしよし、息災にしていたか?」


忙しい中3日ぶりに会えた正良を抱き上げ顔を見ると政務での疲れなんて一気に吹き飛んでしまう。

赤子とは不思議なものだ。


人が生きていく上で我が子以上の貴物とうとものなんてないのかもしれない。


と本当は思うのだが…


空海は今頃、伊勢正殿の実情を目の当たりにしてどう思っているのだろうか。惨状を前に密命を果たす気力が削げてしまわなければよいのだが。


まあいい、全てはあの男ひとりに天皇家の秘中の秘を託したのだ。


後は成るように成るしかない。


と白くふくふくとした正良の頬を撫でて将来の天皇になる皇子をよしよし、と笑顔であやすのだった。


さて、


貴物。


と母の玉依に呼ばれ幼少時は甘やかされて育った佐伯真魚こと空海は、ここでは素絹そけんという僧侶が神事を行う時の生絹で製した白装束に身を包み、

先程潔斎を終えた五十鈴川の流れに目を遣った。

澄んだ水は今まさに芽吹いている周囲の山々の緑を映し、滔々と流れている…


成程、ここはまさに聖域だ。


何百年も前から外界と隔絶されときというものがが止まっているような気さえする。

と思いながら空海は伊勢神宮内宮の鳥居を見上げた。


「佐伯うじ、それでは」

と神官の案内で宇治橋を渡り、内宮に入ると神宮での礼法通りに各宮への参拝を行った。


そして、正殿の前に立ち拝礼すると正殿入口を覆う白い幕がふわあ、と風で舞った。


拝礼の間神官も空海も無言で樹々の梢だけがさわさわ音を立てている…


彼らは知っているのだ。

正殿の中には実は何もないのだということを。


「あれは20年前で私が斎王だった頃です。伊勢正殿の中に賊が入り、火を放ち何もかもが焼き尽くされてしまいました」


と正月8日目にお会いした上皇妃、朝原内親王が語った秘密の真相は天皇家の根幹を揺るがす内容だった。


ある夜、奉納されている宝物目当てに賊が正殿に侵入しました。松明で正殿の中を照らした賊は大いに戸惑いました。


十種のご神宝が実は麻で拵えただけの粗末なものであり、その形も理解不能。


今まで盗んで来たような他の寺社の宝のような価値を見出せなかったのですから。


哀れにも賊は自分が侵入したのは伊勢正殿だとは知らなかったのです。

それでもご神鏡だけは盗んで持ち出そうとした賊は、御鏡に映った自分の姿を見て心を失ってしまったのです。


賊は御鏡に何を見たのでしょう?それは私にもわかりません。


だって斎王である私ですら御鏡を見たことが無いのですもの。


不覚にも賊は自分が落とした松明の火が我が衣に燃え移り、炎に包まれた賊は正殿中を転げまわりながら死に絶えました。


「炎は正殿中に広がり、十種のご神宝も三種の神器の一つである八咫鏡も焼失してしまいました。それが、天皇と私と伊勢の神職たちしか知らない秘密です…」


天皇の神格を証明する神器、八咫鏡の焼失。


それが諸外国や他の有力豪族に知られてしまえば人々は疑いも無く天皇家を崇敬する意味を無くし、侵略や簒奪の為に武器を持ってこの内裏にまで押し入って来るであろう。


しかし何故、朝原さまは僧侶である自分に打ち明けて何をさせようとなさっているのだろうか?


「これだけのことを聞いてしまってもお前はちっとも驚かないのね」


「太古の昔よりご神器が千年以上も現存の姿のままで守られていると、信じて疑わない方がおかしいのです。長い歴史の中で何度か紛失や損壊はあるのは当たり前かと。それに…」


「なあに?」


「真に大事なものを守り抜くためには至尊の身であらせられる帝ご自身が常にお手元に置いておくべきでしょう。

三種の神器の中の二つである八咫鏡と草薙剣がわざわざ玉体から離れた伊勢神宮と熱田神宮にあるのは神託とは言え奇妙な話です」


自分の考えを聞いてくれる朝原内親王のお顔には怒りは無く、自分が人生を懸けて守り抜いてきたいまいましい秘密を暴いてくれる空海の言葉を待っている期待の笑みすら浮かんでいた。


「つまりはこうです…天皇家のご神器というのは最初から毎夜帝ご自身がお守りなさっている神璽、八尺瓊勾玉ひとつしか無かったのです」


「後の二つは何だと言うの?」


「大陸の冊封を受けずに諸外国と対等の関係でいるには、

神格、というこの国独自の権威が必要です。

そのために王の証である神器を後で二つ足した。

元々は形代であった剣と鏡も年月が経ち、やがて本物となっていきます」


おほほほほ…!と突然朝原内親王がお笑いになられたので空海は


しまった!帝への初謁見の時もそうであったがわしはまた命知らずな発言を。


と腋の下で冷や汗をかいたが朝原内親王は


「随分と思い切った意見ね。でも『そうなのですから』仕方がないわ」

とあっさりお認めになられた。


「そこで遍照金剛、折り入ってあなたに頼みがあります」

「は…」


「今より伊勢正殿の十宝と天皇家の神器、八咫鏡の新造を命じます」


とそこで初めて命婦を呼びつけ、いつもは内裏の温明殿に保管されているご神鏡の形代(複製)を出させ空海に手渡したのだ。


「これは考謙朝に造られたご神鏡で内裏では御神体として扱われているものです。これはあなたにしか果たせない密命、頼みますよ」


は…と御神鏡をおしいただいた空海は裏を返し、彫られている精緻な唐草模様を見てはっとした。


確かに、わしはこの紋様を彫れる人物を知っている。


しかしそれは13年も前に彼の住む里に迷い込み、彼の一族と半年間一緒に過ごしただけで頭である胡人の鋳造師、


田辺老人たなべのまおすみもその時高齢だったから今も生きているかどうか…


と帝の許可を得て借り受けた内裏の御鏡を抱き締め、帰りに久しぶりに寄らせてもらった藤原冬嗣邸の客室でひとり頭を抱えていたところに冬嗣の正妻である美都子が訪ねて来た。


「あの折は子供たちに手習いを教えて下さって有難うございます…お陰で息子たちの筆も上達いたしました」


と長男、長良ながよしと次男、良房よしふさが書いた漢詩文の手習いの紙を持って見せてくれたのだった。


「いえいえ、都に出たばかりのわしに部屋を貸して下さったお礼ですから…ほほう、随分と練習をなされたのですね」


とまだ9才と6才の北家の跡取りの筆跡を見て、


お父君の冬嗣どのがよほどしっかり教育してらっしゃるのだな。将来が楽しみだ。


と本気で感心してしまった。


ですよね!?と美都子が我が子の字を褒められて身をよじって喜ぶと同時に、かたん、と真新しい櫛が音を立てて床に落ちた。


「す、すみません。まだ新しい櫛なものだから髪に馴染んでなくて」

と空海が拾ってくれた櫛を受け取ろうとしたが、空海は櫛の文様にじっ…と目を凝らしているではないか。


「美都子どの、この櫛をいづこより手に入れたのですか?」


と空海は田辺老人しか出せない精密な蔦の模様が入った櫛を手に切羽詰まった顔で尋ねた。


「東市で飾り物を扱っている商人が邸に来て珍しい柄だったから買いました」


という美都子の話を頼りに東市が開けばそこに何回も通って商人たち全員に聞き込みをした結果飾り物と化粧道具を扱う行商人をやっと見つけ、彼から、


「ここだけの話にして下さいよ…実は九条に渡来人の職人が住み着いていていましてね。簪や櫛を仕入れ値段の5、6倍の値で売り捌いているのです」


「渡来人の職人?そいつは鏡をこしらえたりするのか?」


「へえ、女たちに鏡を磨いてやるから食うには困らないんだそうで」


間違いない、その職人は田辺老人の一族の者だ!

と空海は確信してその職人が住まうという九条の和多利の家を聞き出し、そこに押し掛けた末、


田辺老人の孫で御鏡師の田辺牟良人たなべのむらとに再会出来たのだった。


正殿への拝礼を終え、斎王仁子内親王の群行を夏に控えた斎宮司のとある一画に、かつての十種神宝と御神鏡の残骸が並べられていた。


といっても神宝は皆黒い消し炭で、御神鏡にいたっては台座の上から溶け落ちた黒い銅のかたまりに成り果てている…


「あの、これらが記された絵図というものはは無いのですか?」


と最も重要なことを空海が尋ねると神官は首を振り、「ありませぬ」と平らかに答えた。


「ありませぬ…って、はあ!?」


「御神宝を絵図に興すなど畏れ多いこと。我々伊勢の神官たちは代々口伝で儀式を受け継いで参りました」


「それではこのような有事の時に何処からどう手を付けたらよいか解りませぬな」


と空海は思っていることをそのまま口にしただけだったがこの時ばかりはつとめて無表情を保っていた神官の声が詰まった。


「桓武帝より口止めされて早や二十年…世代も替わり我々は一体何に仕えているのか?と信仰が揺らいでいる若い神官もおります。

何卒我々の哀訴汲み取り給へ」


上皇妃さまが修復、ではなく新造をわしに命じなされたのはこういうことだったのか…


真相を知っていながら長い間厳重に箝口令を敷かれた神職たちの心も限界に来ている。


「もし、僧侶である我の介入がご不快でなければ、意匠も全て我に任せて下されば早急に取り掛かりましょう」


神官を励ますつもりで明るい口調で宣言した空海を見上げる神官はそこで初めて、老いた顔に気弱な笑みを見せた。


「頼みまするぞ、遍照金剛どの」


と杓を掲げ、僧侶である空海に向かって深く拝礼をした。


内宮の入口近くの民家に身を寄せていた牟良人は、漬物と白湯を出してくれた老婆に


「へええ…こんな色の薄い渡来人を見るのは久しぶりじゃなあ」


と好奇と好色の入り交じった目で見られ必要以上に腕や肩をべたべた触られ辟易していた。


だ、誰か助けて。真魚さん…


と思っていたところにちょうど空海が帰ってきたので牟良人は目で助けを求めた。状況を理解した空海は、

「ああ…腹が減って仕方あらへん、ご婦人、飯を二人分所望したいのですが」

とわざと時間のかかる用事を言い付け老婆を下がらせた。


「聖域の近くに住んでいる割には俗っぽい婆さんやなあ」


と空海が呆れかえって老婆を見送る後ろ姿に牟良人はもう辛抱ならぬ!とでもいうように


「ねえ、真魚さん。神宮で一体何をしていたの?

俺をここまで連れて来て…一体何をさせようっての?この御鏡を作った俺のじいさんと関係のあることなんだろ?」

と思っていた事すべてをぶつけた。


しゃあないなあ、と空海は剃髪の頭をかいたまま首を捻って熟考してから伊勢に発つ前、主鷹司で牟良人を嵯峨帝にこっそり引見させた時の帝のお言葉、


事を成すのにどうしてもこの田辺牟良人の手が必要なら、彼に秘密を打ち明けてしまってもよい。


との仰せを胸に刻んでいた空海は、


「なあに、御鏡をひとつ作るのにお前と故郷の一族の技術が必要っちゅーこっちゃ」


いくら牟良人が世間知らずの山の民といっても伊勢まで連れて来られて御鏡を作れ、と言われてさすがに察しが付いた。


「伊勢は天子様の御先祖の太陽神とその形代の御鏡を守る場所、ってさっきの婆さんから聞いた。ま、さか…」


この俺に天皇家のお宝、八咫鏡を偽造させようって魂胆なのか!?


と思った瞬間臍の下から背骨にかけてがくがく震えが起こり、全身の皮膚を鳥肌が覆い尽くした。


「ええか?ムラート」


彼を胡語での本名で呼んでから空海は声をひそめ、


「お前が胡人のしきたり通り実の妹と結婚させられそうになって故郷から逃げ出し、都に住みついた事情はわしも解っているつもりや。

でも、わしが帝から下された命を遂行するには今でも最新の鋳造技術を持っている田辺氏と丹生一族の助けが必要なんや、


頼む!わしをお前の故郷の高野山に連れて行ってくれ!」


床に額を擦り付けてまで哀願する空海の必死さにまだ若いムラートは心突き動かされ、かなりの間悩んでから「しょうがないなあ…連れてってやるよ」と承諾の返事をくれたので「ほんまか!?」と空海はムラートの手を取って驚喜した。


五日かけて都に戻った空海は正殿の御神宝の損壊状況を嵯峨帝に詳細に報告した。報告を受けた嵯峨帝はしばし沈思なさってから決然とお顔を上げ、


「朕が思っていたより実態は酷かったんだな…よし、空海、何をしてでも疾くご神鏡の新造を致せ」


と密命遂行のための全ての行動の自由をお認めになられた。


さすがは帝、御決断が早い。といたく感心した空海だがこの場で再び旅に出る

許可を頂く必要があった。


「ムラートこと田辺牟良人を連れて彼の故郷の高野山に行きたいのですが」


昔は丹の鉱床だったが資源は全て掘り尽くされ、今は捨て山になっている場所の名を聞いて嵯峨帝は、


「高野山?」


と怪訝なお顔をなさった。


「はい、大陸の西方から唐を経て渡来し、今でも最新の鋳造技術を持つ田辺氏と、先住の丹生一族が混じり合った異教徒の民が高野山の頂で今も暮らしているのです」


「成る程な…赦す。行くが良い」


この時、高野山が彼自身の終の棲家となる事が空海には解っていただろうか?


高野山。


と口にするたびに空海の心には一大事を成す高揚感の次に生まれる前の母の胎に還るような安らぎが広がり、しばらく彼を困惑させた。



















































































































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