第89話 騒速

シルベと言う名はエミシの言葉で風、という意味なのだ。


と思い出の中の父はいつもそう言っていた。


エミシの戦士だった頃を懐かしむ父の話は裸馬に乗って常にエミシの王アテルイを警護し、

近寄る敵は全て両手に持った蕨手刀で切り伏せ、その動作が素早すぎて誰も気づかないのでアテルイは彼に


風の如き男。


という意味のシルベという名を勲功として与えた。


そして縦に切り裂かれた左目の古傷に手をやり、


「だが…あるヤマトの戦士と斬り合い、この目を切り裂かれた時に俺の戦士としての人生は終わった。上には上がいた、という事だ」


と苦い笑いを浮かべると「さあ、明日も早いからもう寝よ」と幼いソハヤの背を撫でて寝かしつけるのがシルベの毎夜の習慣であった。


片目を失い、落馬したシルベはそのまま捕らえられてヤマトの俘囚となり、畿内のとある荒れ地に連れて行かれた。


「おまえ自身の手で開墾した地はそのままお前の農地となり子々孫々遺すことが出来る」


と役人は天平15年(743年)に発布された墾田永年私財法こんでんえいねんしざいのほうを簡単に説明し、


「つまりは俘囚のお前でもヤマトに自分の土地が持てるという事だ、…やってみよ」


と新品の鍬をシルベに手渡した。


刀を鍬に持ち替えてのシルベの大地を相手にした開墾、という農夫としての戦いの人生が始まった。


四十半ばまで狩りをして食べて来たエミシの民が草を刈り、土に埋まった石や木の根を取り除いて畑を耕し、日が沈む頃には全身の筋肉と骨が悲鳴を上げる位痛んだこと。


幸い川が近くにあったのはいいが、畑に水を引いて最初に甜瓜まくわうりの苗を植えるまでに三月もかかったこと。


指導役の農夫が自分によくしてくれて瓜の収穫が終わったら空豆を育てるといい。と教えてくれたおかげで飢えずに済んだこと。


「結局、農夫の体になるまで四年もかかったよ…その頃に指導役の農夫の娘を妻に貰ってソハヤ、お前が生まれたのだ。

母親はお産で死んでしまったがお前はこうして病ひとつせず育っている。俺は、それで満足だ」


と言って自分で建てた小屋のある丘の上から12年かけて自らの手で切り拓いた十町(約10,000平方メートル)もある農地を見下ろし、ソハヤに向かって、


「ここまできてやっと解った。ヤマトの兵と戦う人生も過酷だったが、ヤマトの民もまた、生きるために、租税を納めるために食い物を作る過酷な人生を負っていたのだな…


いや、生まれてしまったら人生とは死ぬまで過酷なものだ」


と言い切ると地にあぐらをかいて、


「ソハヤ、この地は全てお前のものだ」


と過労と加齢で疲れ果てた声でそう告げると固く目を閉じ、鍬に縋ったまま息絶えた。


その死に顔には子に遺すべきものを遺すために全力を尽くし、やりきったとでも言いたげな満足の笑みが浮かんでいた。


シルベ死去、享年56。ソハヤ8才の頃であった。


結局父上は俺の一番知りたいことを言わずに逝ってしまったな。


とあれから9年経ち数えで17才になったソハヤは父シルベに、


自分の本当の親は誰だったのか?


と聞かずじまいでいた事を後悔している。


ソハヤはシルベが実の父でなかった事を薄々勘付いていた。


だって、自分の産みの母の事を知る者は誰も里に居なかったし、母方の祖父と言い聞かされていた農業の指南役の老人に尋ねてみたのは7才の頃。


「やはり気づいていたかソハヤ…実はお前はシルベの子ではない。

4年前にある武官が何処いずくより連れて来てシルベに託した子がお前だ。


いいか?ソハヤ。みだりに自分の出自を聞いて必死に働いてお前を養ってくれている父親を悲しませるんじゃないぞ」


と里の長老に固く口止めされたので聞けなかった。


まあいいや、親子なんだから一緒にいる内に父上から本当の事を話してくれるだろう、と思って暮らしている内にあんなにも早く逝ってしまうなんて。


でも…目を閉じれば「父」と呼ぶべき人の横顔と大きな背中はいつでも思い出せる。


背後から見たその人の横顔は戦いに出る時はいつも固く唇を引き結び、母や兄弟たちに何か優しく諭してからもう何も聞かぬ、という風にざっ!と背中を向けて黒い革鎧の上に黒い母衣ほろを纏った後ろ姿。


きっと名のある戦士だったんだろうな、実の父は…


しとしとと梅雨の長雨が続き、都の貴族たちも屋内に引きこもっている季節だった。


阿保親王の従者としてのすべき仕事もあまりなく、軒先から滴り落ちる雨粒を眺めながら居眠りをしていた素早そはやは背後からいきなりしりの肉を蹴られて痛さで悶絶した。


「何すんだよっ!?兄者」


急所に蹴りを入れた素軽すがるはふふん、と親指で自分の鼻先を弾いて得意げに笑って弟分を見下ろし、


「常に親王様をお守りすべき従者たる者が居眠りとはな、この腑抜けめ」


と日頃の素早の怠惰ぶりを罵ると急に硬い声で「坂上家からお前が呼ばれた。疾く行け」と告げた。


それだけで素早は察した。坂上将軍が危篤なのだと。


雨除けの蓑を被り、素早は自分に降りかかる全ての水を弾き飛ばす勢いで全力で駆けた。


おい、坂上将軍田村麻呂よ。


お前は我が父シルベと斬り合って片目を奪い、エミシの王アテルイ様まで下したヤマトで一番強い戦士なのだろう?


父の仇、アテルイ様モレ様の仇、或いは殺され、或いは飼い慣らされて従属させられた全てのエミシの民の仇、田村麻呂よ。


せめて俺と対等に斬り合うまで回復してから首を取ってやろうと思ってたのに。


父上より若いのに病なんかで死ぬな!


弘仁2年の桜の蕾が膨らむ頃に坂上田村麻呂は病で倒れた。


それは元服直後の13才の頃より父苅田麻呂に付いて東国に赴き、常に最前線で戦い続け戦場で負った数多あまたの傷が齢50を過ぎた彼の肉体を蝕んだ結果だった。


この年の正月までは田村麻呂が健在だった事がいくつかの記録に残っている。


弘仁2年1月17日(811年2月14日)に嵯峨帝が豊楽院で射礼という宮中行事としての弓矢の競技会をご覧になられた。


行事の終了後に諸親王や群臣に対して弓を射させた時、何を思いつかれたのか異母弟で田村麻呂の外孫にあたる(田村麻呂の娘春子と桓武帝の間に生まれた)葛井親王ふじいしんのうに向かって、


「征夷大将軍の血を引くお前ならうまく射ることが出来るのではないか?」


と仰せになり戯れに射的をさせたところまだ12才の葛井親王ふじいしんのうの射的は百発百中であった。


これには居合わせた皇族や臣たち全員が息を呑んだ…


この時祖父の田村麻呂は喜び勇んで葛井親王を抱き締め立ち上がって舞って嵯峨帝の前に進み出て、


「かつて自分は10万の兵を率いて東夷を征討した際、朝廷の威光を頼りに向かうところ敵なしであったものの…今思うに計略や兵術について究めていない点が多数ありました。


葛井親王は幼いながら武芸がすばらしく私の及ぶところではありません!」


と言うと嵯峨帝は

「それはちと誉め過ぎではないか?」と大いにお笑いになられた。


向かうところ敵なしの猛将と言われた田村麻呂の晩年の好々爺ぶりを現す逸話である。


豊楽院での射礼から3日後の20日には中納言、藤原葛野麻呂や参議、菅野真道らと共に、渤海国の使者を朝集院に招いて饗応する任に当たっている。


これが、田村麻呂健在を示す最後の公式記録となる。


平安京粟田口(現在の京都市左京区)の坂上家別宅に着いた素早は出迎えてくれた田村麻呂の三男、浄野にすぐに濡れた衣を着替えさせられ、白湯と重湯を飲んで体を温め一息つくと、


「将軍は?将軍の具合はどうなんだよ?ねえ!」


と年も近く、直剣での剣術を教えてもらってるので親しい浄野に取り縋って素早が問い詰めると浄野は無言で重々しく首を振った。


「賀茂素早よ、父が呼んでおられる」


と取り乱した素早の肩に手を置いて気持ちを鎮めるよう促したのは田村麻呂の次男の広野だった。

父と同じく武勇を誇る広野に一瞬、もの凄い力で肩を掴まれ素早は正気を取り戻す。


広野に案内された部屋の奥の帷帳の中で病臥していた田村麻呂が首だけこちらに向けて

「おお、来てくれたか…」と削げた頬を動かしてにこっと笑った。


彼の顔からは初めて会った時の不敵さと覇気が抜けてしまっていた。


戦士の顔から覇気が抜けてしまったらそいつは戦場で死ぬ。


とシルベからエミシの戦士としての誇りと生き方を教え込まれてきた素早は、


ああ、もうこの人は戦士としての自分の死を受け入れてしまっている。


と目の前の仇だと思っていた男へ抱いていた敵愾心。

それが今まで生きる支えだった感情が一瞬にして消え失せていく自分の心を不思議に思った。


次に田村麻呂から発せられた言葉は、


「ヤマトの言葉で抜き身の剣という名を持つ素剣ソハヤよ」


という自分と育ての父シルベしか知らない自分の本当の名だった。


「な、なんであんたがその名を知っている?」


ふ…と再び田村麻呂は微笑み、まるで父が子を見るような深い目で見つめながら、


「お前にその名前を付けたのは俺だからだ」

と自ら素剣そはやの名付け親である事を明かした。


済まんな、この子に知らせずにいることがお前との約束だったが、許せよ。


実は8人目の子がもうすぐ3つになる。男子だがヤマトの人間として生きてもらいたい、と思っている。


ヤマトの民に?お前の子なら戦士に育てるのではないのか?


…エミシの領地と戦力を確実に削いでいる男のどの口が言うか?


す、すまん。その通りだ…で、名前はなんと言うんだ?


出来ればヤマトの言葉で「これ」を現す名前を付けてもらいたいのだが。


と反った蕨手刀を見せられ、不意に思い付いたのが抜身の刀、と言う意味の素剣そはやという名前だった。


ソハヤ…何か勢いと清々しさがあるいい響きの名だ。帰ったら早速息子に名付ける。


今まで名付けてなかったのか!


と在りし日の素剣の父との交流の日々を思い出して田村麻呂は意を決し、看病してくれている妻の高子と広野に頼んで半身起こしてもらい高子と浄野以外全て人払いをさせてから…


「お前の実の父はエミシの王アテルイ。8人目の末子がお前だ」


と素剣に彼自身の出生の秘密を告げた。


途端に、素剣の記憶の中の「父」が自分に彫りの深い顔を向けて微笑んだ。


「将軍どの、その人は額と両の頬に青黒い入れ墨を入れた方でしたか?」


と言うと田村麻呂は目を瞠り、

「よくぞアテルイの事を覚えていてくれたな」

と人生でこれ以上嬉しいことはない、というくらい破顔した。


エミシとの戦況が悪化し始めた頃、アテルイはソハヤを当時東国に赴任していた田村麻呂の長男、大野に託して大野はかつてのアテルイの従者、シルベの所在を探し当ててソハヤをシルベに託した。


「それが、お前の出自の真相だ。政変の後で立派に成長したお前と会えて、ソハヤと名を聞いた時には仏の導きか、と身が震えたぞ…」


そして、用意させておいた細長い包みをやっとの力で開くと、中から美しく反った細い長刀が現れた。


その形状はまるでエミシの戦士の武器である蕨手刀を直刀の長さにまで伸ばしたようだった。


「解るか?蕨手刀特有の切れ味の良さと直刀の長さを組み合わせたら刀としてこれ以上のものは無い。

試行錯誤を重ねて何十本めかでそれらしいものが出来上がった。

太刀と短刀二本は寺(兵庫県清水寺)に奉納したが、いまここにあるのは東国の鉄を鍛えて作った更なる完成品だ、ソハヤ、お前にこの刀をやる」


は、と畏まって素剣はわずかに震えながら両の手を差し出し白絹で包まれた抜身の刀を受け取った。


「これは寺に納めた原型の刀、騒速そはやの真打だ。これは俺の願いなんだがな、出来ればその刀で殺生をしないでくれ」


「はあ」


いいか?素剣、と田村麻呂はかつては毘沙門天の化身と恐れられた事が信じられない位弱々しい力で素剣の肩を抱き寄せ、


「孟子の書に人倫、という言葉がある。これは人が人として生きる道、という意味なんだが今の人間はどうだ?


殺すな、犯すな、盗むな。という人としての三つの基本さえも出来ていないし、それは太古の昔から変わっちゃいない。


素剣、俺が思うに人というのは未来永劫人倫の前の敗北者なのだ。


だが…だがな、それでは何の為に人は生まれてきた?


獣になりて罪を犯し、人に戻りて後悔するという宿業の連鎖を断ち切る為に人は生まれてきたと俺は思う。


その刀で己が途を切り拓き、善き人生を送るお前を泉下の俺に見せてくれ…」


そこまで言うと力尽きた田村麻呂は抱きつくように素剣にもたれ、


浄野によって呼び出された薬師たちに仰臥させられた。

「いよいよ最期かと」

という薬師の診断を受けて集まった家族たちと一人ずつ目を合わせ、最後に三十数年連れ添った妻、三善高子と深く見つめ合ってから、


「済まないが、後を頼む」


と言って涙を浮かべた高子が深く頷くのを確認すると目を閉じ、不規則な呼吸を繰り返し、四半刻後に彼は息を引き取った。


弘仁2年5月23日(811年6月17日)


坂上田村麻呂死去、享年54才。


誰よりも慈悲の心に溢れながらも、


生まれながらに戦うことを命じられ最も多くの人を殺し異民族の土地を奪った、自分の本性と真逆の行いを強いられた苦渋に満ちた人生だった。


その行いを一方では国を守り抜いた偉業、と後世では語り継がれるであろう。


が、彼はそれを宿業として何もかも背負い泉下へ旅立った。


その報せを受けた嵯峨帝は、


「これより一日は何も見たくない」


と仰せになって一室に籠もり、幼い頃からの兵法と武術の師であり、義理の叔父でもある田村麻呂の喪に服された。


翌日、部屋からお出ましになられた嵯峨帝は早速賀茂素早をお呼びになり、


「素早、これよりお前の名を田村麻呂より賜った宝剣、騒速の名を与える…よいか?」


目の前の少年は帝を前に少しも臆せずに「は、ありがたきしあわせ」と日本刀の原型を成す刀、騒速を腰に佩いたまま一礼した。


これよりソハヤを物語中で騒速そはや、と呼ぶこととする。


そこでだ、と嵯峨帝は御椅子で座り直され、


「賀茂騒速よ、今より密命を与える。賀茂素軽と共に来月高野山に旅立つ空海と田辺牟良人の警護をし、その剣での露払いを命ずる」


「はっ」と騒速はうやうやしく頭を垂れて密命を受けた。


出立の朝、梅雨葉明けたものの旅立つ四人、空海、牟良人、素軽、騒速の前に広がる野原には霧が立ち込めている。


「騒速よ、あんたのその神剣で露払いしてくれへんか?」


と柿色の衣に竹櫃を背負い、旅装に身を固めた空海が実に軽やかな声で騒速に頼んだ。


露払いとは、貴人や神霊などといった高貴な者を先導する役目の事である。


でもよお、と騒速は首をすくめ、

「エミシの子である俺がヤマトの言葉でお祈りして露払いしても通じるものかなあ?」


と躊躇った。


「あんたはん、かつて敵だったヤマトの祈りの言葉を使うんに抵抗あるんやろ?」


と空海に本心を言い当てられたので、


「実はそうなんだ、帝はいい人だけどさ…」と素直に認めた。


なら、と空海は


「言葉にして口に出さなくとも心で真剣に祈れば神仏に届く。己を信じてやってみよ」


「解った」


騒速は鞘から神剣を抜いて両手で構えると、


我が身がお守りする僧侶は全宇宙におわします太陽神大日如来の化身、遍照金剛であらせられる。


このような大切な御身をお守りする故、空よ、地よ、風よ、我らが四人の旅の行先を守り給へ…


と心で唱えると縦に一回、横に一回、大きく刀身を振るって空気を切り裂いた。


すると一陣の風が吹いてにみるみる霧が晴れ、四人の旅人の前に青々と伸びた夏草で覆われた草原に日の光が当たった。


空海を護衛して歩き出す騒速は、かつて剣術の教えをこうた時に田村麻呂が遺してくれた言葉を思い返し、自分を奮い立たせた。


騒速よ、人生とは誰から与えられるものでも誰の言葉に導かれるものでもない。


己の頭で考え己が感覚を信じて己で答えを出して行動するものだ。


だから騒速よ、まずは行動で以て己が途を…


切り拓け。



嵯峨野の月、前半終了。






 










































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