第87話 九条にて

九条とは、


条坊制じょうぼうせいという宮城都市の都市計画で南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市において北端の一条から数えて九つ目。


都の南端を東西に走る九条大路沿いの区画であり、平安京の南の入り口である羅城門から入ってすぐの人と物が入り交じる拠点でもあり、


そして都びとにとって九条の路地裏は遊女や無頼の者、渡来人たちが住まう異なる者同士が交わる処…


「和気広世さまがお亡くなりになられたよ」


と市からの買い物から帰った老人は槌とのみを振るってきんきんきん!とけたたましい金属音を立てて鏡の裏に模様を彫る若者に向かって呟いた。


「和気?そいつは誰だ」


「お前はよそ者だから貴族の名すら知らないよな。

女帝と通じた生臭坊主、弓削道教ゆげのどうきょうの帝位簒奪の野望を阻んだのが和気清麻呂さまで、広世さまは清麻呂さまのご長男だ」


「ふうん、坊主がこの国の天子になろうとしたのか。そりゃ面白い話だ」


と、そこで若者はやっと作業の手を止め顔を上げ、竈の火を起こして夕餉の支度をする老人の背中に興味深げに話しかけた。


「もう40年以上も昔の話だ。

清麻呂さまは女帝の不興を買って流罪にされたが女帝が死んですぐに次の天子さま(光仁帝、嵯峨帝の祖父)に呼び戻されて国を救った英雄と称えられた。


その息子の広世さまは身分を問わず病人の治療し、薬を与えてくれた慈悲深いお方だったよ。まだ44の若さで…この世は無常だ」


またじいさんの口癖の


この世は無常。


が始まった。と若者は思い、作業道具を片付けると手と顔を洗って黙って老人が作ってくれた何種類かの菜を入れて炊き込んだ飯と焼いた干し魚という内容の夕餉を旨そうに食べた。


「さて若いの。お前がわしの家に転がり込んでもう四月よつきになるが、毎日こうして日の出てる内は家に籠って人目を避けているのは…やはり胡人(ペルシャ人)だからか?」


と老人は牟良人むらとと名乗る若者の、透き通るような白い肌に瑠璃色の瞳。髻を結った金色の髪を舐めるように見て、


こりゃ驚いた!純血の胡人を見るのは何十年ぶりじゃろうて。


と昨年の暮れの彼との出会いを思い出した。


あれは九条の路地裏で制裁された獄吏たちの骸を一緒に発見した時。骸の腹の中に入っていた金を分け合った直後に牟良人に興味を持った老人は、


「若いの、住むところはあるのかね?」


と尋ねると、今は鏡を磨いてやっている九条の遊女の家に身を寄せているのだと言う。


「都に入ったばかりで何も解らないし、とにかくここで金を貯めたら胡人の役人が都にいると聞いたから訪ねてみようと思う」


ここまで話を聞いて老人は、この若者が隔絶された故郷から出たばかりの、右も左もわからない世間知らずだ、とすぐに解った。


確かに胡人の破斯清道はしのきよみちが帝に謁見を果たした後、大学寮の役人に取り立てられた。


という逸話があるがそれは聖武朝の頃で80年くらい前の、老人が生まれる以前の話である。


「もう胡人の役人はこの世にいないよ」

とその事を若者に話すと若者はああ…と絶望のため息を付き、


「故郷から逃げて何もかも捨てて都に出たのにこれからどうすりゃいいんだ」と背負っている道具箱ごと地面にへたり込んだ。


「どんな事情があるか知らんが、若いの、手に職は?」


「ある、故郷では元々彫金師だった。木を削ってくしかんざしを拵えることもできる」


そりゃちょうどいい、と老人はにたり、と少し下卑た笑いを浮かべて、


「女に囲まれた所で間違いを起こすといけないからね。しばらくわしの家にいるといいよ」

と若者の袖を引くとそのまま我が家に住まわせるようになった。


さて、とっぷりと日が暮れてしまい九条の路地裏の一画にぽつ、ぽつ、と灯火が灯されるようになると老人、和多利わたりの稼ぎどきである。


梅の花も散って桃の花が満開のこの季節、京の厳しい寒さも緩んでいるので遊女たちは乳房がはだけるまで衿をまくって白粉を塗り、単衣に袴姿のまま春をひさぐ彼女たちにできるだけ金の取れそうな上客を引き合わせるのが和多利の仕事だった。


「もし…そこの貴人のお方、今宵は色よいお返事の文をお持ちかな?」


衣に高級な香を焚き染めてはいるが色の遊びに慣れていない無骨そうな官吏の男だ。


と値踏みして男からの文をあらためると…

三十を越えた大年増の女を紹介し、相場の三倍の値段を受け取ってから、


「えへへ、うらやましいことで。それではごゆっくり」

と女に直ぐに灯りを消すよう言いつけてから手数料を受け取り、隣の女の住処に向かうのだ。


こうして全ての女に客をあてがうついでに牟良人が磨いておいた鏡や拵えた簪や櫛を渡して代金を貰って和多利が我が家に帰ると、擦り切れた単衣を被って眠っていた牟良人はん…と何やら異国の言葉でぶつぶつ言って目覚め起き上がるなり、


「じいさんあんた…最低な仕事してるな」


と今宵の売り上げを受け取ったその口で言うのだ。


和多利は気を悪くするでもなくひひっと肩をすくめて笑い、


「女たちは客を取らねば今日明日の飯にもありつけないのだ。わしのような存在が間に入るのは必要、いうことじゃ」


と牟良人の稼ぎからしっかり手数料を取ってもう夜更けなので自分も寝ようとした時、何度も哀願する男の声とそれを囃し立てる男たちの哄笑が辻の向こうから聞こえた。


しばらくして家の前を男が泣き叫びながら走り去るのが聞こえた。


「10日に一度はこうした事が起こるよなあ」


全くうるさくて眠れやしない、と牟良人が舌打ちすると和多利は


「また博徒どもが素人から身ぐるみ剥いだんだろうさ、ほっとけ」

と目をつぶるなり寝入ってしまった。


「ざまあみやがれ、俺の可愛い甥っ子姪っ子たちを飢えさせるからこんな目に遭うんだ!」


と男が走り去った跡に向けて唾を吐きかけたのは…博徒に変装した良岑安世であった。


彼はたった今、伊予親王の遺児たちを流刑先で粗略に扱った世話係の男をかつての博徒仲間を使い、


「せっかく都に来たのだから遊んでいかないかい?」


と言葉巧みに九条に誘って賭場での仲間たちと示し合わせていかさまの賽子博打さいころばくちで男から手持ちの金全て奪い、身ぐるみ剥いでなぶり尽くしてから路上に放り出したのである。


「取り敢えず都から締め出すから素早と素軽、あいつを羅城から投げ捨ててしまえ」


「…は」

と返事してから少年二人が風の早さで走り出し羅城門の門番に棒で小突かれている素っ裸の中年男を捕まえると、せめてもの情けに菰を被せてやってから二人で担ぎ上げ、


都と外界を隔てる壁である羅城のてっぺんに登って菰包みの男を壁の外に落とした。


ぐげっ、と声を上げて仰向けに倒れた男が半身起き上がると羅城の上から石つぶてを喰らって逃げ出し、外界の闇に消えた。


「ばっかやろう、もう二度と都にくるんじゃねえぞ!」


と念押しし叫んでからソハヤとスガルは壁から降り、羅城門の門番たちに

「お前らも大変だなあ」と労りと同情の言葉をかけられた。


全くその通りだ。と都での暮らしに慣れてきた少年二人は思った。


帝の命ひとつで都に留め置かれ、賀茂の姓と阿保親王の従者という氏素性を与えられはしたが、

務めの内容はというと主鷹司での動物の世話や帝の鷹狩りの護衛はまだいい方で…


何時如何なる時にも何処かの貴族に呼び出されて女への文使いを頼まれたり、さっきのように報復のためにいかさま博打に加担させられたり、と


我ながら最低の仕事をしている。


と思ってはいるが、断ることなど決して出来ない、いわゆる都合の良い使い走りの立場であった。


嵯峨帝に与えられた名は、


賀茂素早かものそはや賀茂素軽かものすがる


表向きは山背国(京都府)先住の豪族、賀茂氏の男子という事にされた。

常にあの二人を傍に置きたい。という嵯峨帝のご意志は、


「仰せの通りに常に傍に置く、のは無理です。山の民の子にいきなり官位を与えて侍らせると内舎人の反感と嫉心を買いまするぞ」


と天皇の秘書室長である蔵人頭、藤原冬嗣に却下された。


「ならばどうしたらよい?」

とお困りになられた嵯峨帝に、


「内裏に出入りの多い皇族の従者に付ければよいかと。賀茂の姓を与えれば謗られる事もありません」


と従三位、右近衛大将に昇進した巨勢野足の後任で蔵人頭に就いた藤原三守の進言を受け入れ、

「よし、では阿保の従者ということにしよう」

と相成った。


用事を終えた事を報告すると安世は「ご苦労、帰って休め」と多めの報酬を少年たちに渡すと「今宵はここに泊まって行くから護衛はよい」と言うではないか。


「九条にも馴染みの女がいるとは…安世さまはとんでもない不良の貴族なんだな」


「いやいや、元皇族であらせられたから不良皇族だ。

あのようなお方が帝の側近なんだから今の朝廷そのものがとんでもない人たちの集まりなんだよ」


と弟分に向かって素軽がきつめの悪口だがなかなかに的を得ている朝廷評を声をひそめて述べると、主人である阿保親王の邸に帰って行った。


使いの少年たちの噂通り、安世にはこの九条に長年続いている仲の女人がいた。


名を真名井まない

といい元は貴族家の姫で、祖父の代に政変で家が没落して両親も亡くしたので16で九条で客を取る遊女になった。


遊女といっても真名井は五位以上の貴族の男しか相手にしない最高級の位の女で和多利も世話役の老女も真名井を今でも姫様と呼び、敬って仕えている。


皇族の生まれながら母の身分が低いため宮中で軽く扱われていた安世は元服を迎える頃にはすっかり屈折してしまい、夜には宮中から抜け出して場末とも呼ばれる九条に出入りし、侠客や博徒とつるむようになった。


「出世払いで俺を相手にしてくれるか?」


と九条で権高く暮らしている不思議な遊女、真名井を口説いたのは安世がまだ14の頃だった。


4才年上の真名井は安世の心意気を気に入り、すぐに深い仲になった。


あれから12年経つが宮仕えに疲れると安世は必ず真名井の元へ通い、


「今日は非番だから1日いるぞ」


と明るい内に着飾る必要が無いのでいつも垂髪のままで化粧もせずにいる真名井の傍に寝そべり、


彼女の琴の音を聞きながら万葉びとの相問歌や唐の名人の漢詩を諳じたりしながら世俗を全て忘れ、心を仙境に遊ばせてから真名井を抱いて陸事を交わす。


それが、安世の九条での過ごし方だった。


「そういえばこの頃、このような飾りものが流行ってましてね」


と房事の後の乱れた衣を直しながら言うと真名井は化粧台から鏡を取り、裏の精緻な唐草模様を見せてくれた。


「ほう…これはまた古式ゆかしい柄だな。確か聖武朝の頃、唐から来た胡人がこしらえた模様だと聞く。天皇家の宝物庫にもいくつかある」


安世が言う宝物庫とは言わずと知れた正倉院のことである。


が、なぜ今になってこの模様が流行っているのか?

「昨年の暮れから九条に住み着いた職人が格安で飾り物を売ってくださるの。

和多利さんを通じて買うから職人の姿を滅多に見ることは無いんだけれど」


という真名井の話に、成程、この模様を受け継いだということはその職人は、大陸の西方から来た渡来人の末裔なのだろう。


安世はふうん、と鏡をひっくり返して真名井に返すと、

「日が落ちたら起こしてくれ」と言ってそのまま深く眠ってしまった。


その頃辻向こうの和多利の家では一悶着が起こっていた。


帽子を被った柿色の衣の僧侶が突然入って来ると、中で彫り物をしていた牟良人を見つけるなり手持ちの鏡をぬっと突き出し、二言三言会話するといきなり僧侶が牟良人に抱きついた。


さては、欲求不満の僧侶が見映えのよい色子(男娼)を求めに来たな。


明るい内からなんと好色な坊主なんだ!と慌てて和多利は止めに入った。


「御坊、その子は売り物ではございませんよ!」


「九条では渡来人の若者まで売り物にするんか?ひどい話やな」


じいさん違うよ!この人は…と牟良人は彼が昔故郷の山里に入ってきた私度僧である。と誤解の無いよう説明した。


「真魚さん?真魚さんなんだね!いやあ十何年ぶりかなあ正式な坊さんになれたのかい?」


「あんたはもしかして…ムラートか?それにしてもえろう大きゅうなって。いくつになった?」


「21だよ」


と二人は胡の言葉で会話し、抱き合って再会を喜んだ。


あれは13年前、里の入り口でひとりの私度僧が番犬として飼っていた白犬と黒犬とじゃれあっていた。


この番犬たちがよそ者に懐くなんて信じられない…と里の童だったムラートが私度僧に声をかけた時のことを今あったことのように思い出した。


「しかしまあ、真魚さんが今をときめく空海阿闍梨になっていたなんてなあ…確かにこの鏡は俺のじいさんが作った物だけれど、

なんで九条まで俺を探しに来たの?」


と聞かれると密命を随行するためには彼の技術が必要なのだが、


さて、どこまで彼に訳を説明すればええんや?


と空海はその場で考え込み、やがて何か閃くとムラートの手を取り、


「とりあえず一緒に旅に出るぞ」


と宣言した。


































































































































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