第61話 伊予の名前

たとえ貴族家に生まれたとしても、

文武に秀でていなければ家督も継げず父や兄弟たちに無視されて育つ男も結構いるものです。


かく言う私、藤原宗成ふじわらのむねなりも文才が無く、偉い方々に媚びへつらいながら軽蔑されて、犬と呼ばれて生きて参りました。


二十四の働き盛りなのに、邸を構える事も、妻子を持つことも出来ない情けない身の上です…


「そんな事はない、わが父桓武帝も40過ぎまで無位無冠だったと聞く。人生は何処でどうなるか解らないものだ。私はそう思う…」


ぼそぼそと低い声で話す宗成の身の上話を聞いた伊予は父、桓武帝が若い頃「犬」と呼ばれて蔑まれていた頃の苦労話を思い出してながら励ますように宗成に言った。


あぶれ者の貴族が我が家に援助を請いに来たのは何度かあったし、

そういう時はとりあえず酒や肴を馳走して身の上話を聞いてやりながら相手の人品骨格を確かめ、その上で金や職をあてがってやった。


しかし、これ以上彼に何もしてはいけない。と思うのは何故だろうか?


部屋で二人きりになり、灯火に照らされた彼のやせこけた頬や乾いた皮膚、それでいて眼を異様にぎらつかせながら話す宗成を見ていると、妙な胸騒ぎを伊予は覚えるのだった。


何というか、まるでこいつは…


「…欲しいのは、金か?職か?」

「どちらも要りませぬ」


なに?と伊予が聞き返すと宗成はそこで前のめりになって伊予の袖を掴み、


「式家の兄妹を皆で討ちませんか?親王さま。貴方の一声でほとんどの貴族が動きます」


と謀反をそそのかす決定的な一言を放った。

じじ…と灯火の芯が燃えて炎が揺らめき、宗成の影が背後の壁に歪んで映る。


「成程…これが媚びへつらう才か。お前の弁舌は危険だ」


伊予は力一杯宗成の手を振りほどいて、軽蔑しきった眼で相手を見下ろした。


「親王さま…いま目が泳いでましたよ。ふふ、一瞬そうしようとお考えになったんでしょう?」


卑屈な笑みを浮かべて、ああ、もひとつ。と宗成は喋り続ける。


「本当は、ご自分の方が神野さまよりも春宮に相応しいとお思いなのでは?」


「この話は聞かなかったことにしよう、誰かある!」


と伊予はぱんぱん!と強く手を叩いて家人を呼び、用意させていた金の包みを宗成に投げ渡してから、

「これで半月は暮らせよう」

と言い捨てて家人たちに命じ、不吉極まりない不埒者を追い出した。


この夜のことは無位無冠の貴族が親王さまに金をせびり、不興を買って投げ銭で追い出された。


それだけで済む話の筈だった。


「申し上げます」

と大納言、藤原雄友ふじわらのおともの邸の庭に平服する下人に雄友は「続けよ」と報告を促した。


「先月、伊予親王様の邸に藤原宗成が入った、という噂はまことでございます」


そうか。と雄友はうなずき、また親王様の親切心が働いたか、困ったものよ。と思って詰碁を続けた。

「そこで話されていた内容は?」

「…」

下人はとても言いにくそうに顔を突っ伏したままである。

「話せ」

と雄友が威圧すると慌てて下人は顔を上げて


「宗成が親王さまに謀反を持ちかけた、と。そこで親王さま激怒なさり、宗成を追い出した。というのが事実のようです」


どうもこの頃伊予さまの様子がおかしい。


何かに警戒しているような。と思って様子を探らせていたらそういうことであったか…


あの式家の兄妹め。

小賢しい流言ひとつで我が甥を陥れようとは!

雄友は白い碁石を鷲掴みにして怒りのままに碁盤の上に投げつけた。


見ておれ、今度こそ仲成とあの女官を潰してやるぞ…


あまりの事の重要さに逸る気持ちを抑えつつ雄友は身支度し、お忍びで右大臣藤原内麻呂を訪ねて事の仔細を内麻呂に報告した。


「よくぞ報告してくれた。不穏の芽は今のうちに摘まねばな」

と受理した内麻呂の動きは早く、その夜の内に宗成は捕縛され厳しく詮議にかけられたが、


「違います、謀反を持ちかけたのは伊予親王さまからでございます。口止めとして金子も頂きました」


と宗成は唇から血を流して雄友の報告とは全く逆の答えを申し述べたのであった。


「さて、伊予と宗成…どちらの話がまことか全く解らぬ。伊予は『謀反を唆したのは宗成』と堂々と言い切ったが、大納言」

「は」

「いくつかの証言を詮議し、確実に嘘と解った方を朕は処罰する。それでよいか」

「は、仰せの通りに」


「ではここにいる大納言を捕縛しろっ!」

と金切り声で叫んだ平城帝の指示もと、目の前で棍棒が交差し、

武官たちに縄打たれる我が身が雄友には信じられなかった。


どうしてこんな事に?


「雄友、お前の『仲成が宗成を唆した』という証言だが、検証するためにそれとは解らぬよう二人に面通しをさせた。


しかし、仲成も宗成もお互い誰か解らず仲成は『あいつは誰だ?』と武官に尋ねたそうだ。とても嘘を吐いているようには見えなかったと…」


つまりはこうだ、と平城帝は蒼ざめた顔でわなわな震えて、

「仲成と宗成は面識が無かった。

お前の嘘が証明されたな、藤原雄友…

ええい、謀反を企んだ南家の臣ども、南家腹の弟ともども始末してくれるっ!今更申し開きは聞かぬわ!!」

と、親指の先を血が出るほど噛み千切ってから宣言した。



全身の骨が軋むほど棍棒で叩かれた安倍鷹野は無言で拷問に耐え続けた。


獄吏とは人を痛め付ける事を愉しみに生きているような、最低の部類の人間どもである。


このような輩は政変が起きる度に


やった、日頃俺たちを見下している偉い連中をぶっ叩けるぜ!


と有罪無罪構わず与えられた獲物を棍棒や鞭や、焼けた鉄の棒で責め立て、己が心の澱をぶちまけるのだった。


「そんなに頑張らなくていいんだぜえ…貴族のだんな。

俺たち獄吏の仕事は吐かせるために痛め付けるんだ。うわ言でもここで吐けば楽になる言えよぉ…謀反を企んだってな!」


と獄吏は悦に入った顔で鷹野の胸ぐらを掴んで自白を迫ったが鷹野は血の混じった唾を相手の目に向けて吐きかけた。


このやろぉ!と激昂した獄吏が棍棒を振り上げると「その方はそこまでにしとけ」と上役が制止した。

「解放するよう命令が下った。縄を解いて差し上げろ」


中臣王よ、帰れるぞ。

と鷹野は共に拷問に掛けられていた侍従、中臣王の方に目をやったが、うつ伏せに倒れている彼の焼け爛れた皮膚や折れた背中、奇妙にねじれた首を見て、声を失った。


「ああ、そいつは侍従だから殺してもいいって話だった。愉しませてもらったぜ」


と言う獄吏どもの哄笑の中で鷹野は中臣…中臣…と冤罪で戯れに殺された彼の体に被さり、哭いた。


左近衛中将、安倍兄雄あべのおにおと左兵衛督、巨勢野足こせのたり率いる歩兵150人に邸を取り囲まれ、捕縛された時も伊予親王母子は神妙にしていたが、


やがて3人の子供たちが兵たちに抱きあげられ「いやだー!父上ー!」と泣き叫ぶ声を聞くと苦悶の表情を浮かべ、

「子らに罪はないから頼む…」と臣下である野足たちに頭を下げて助命嘆願した。


長年武官として仕え、政変が起こる度にこうして貴人の方々を捕縛、護送してきたが…

今回が一番つらい。と老境に達した武官二人は胸を痛めた。


後に伊予の変と呼ばれる大同2年の冬に起こった政変は、


大納言、藤原雄友 伊予国に流罪。


中納言、藤原乙叡ふじわらのたかとし 解職。


従五位下、藤原友人 左遷。


と南家の臣たちを処罰し、朝廷から南家の派閥を政治の中枢から外す意図が明らかな御沙汰が下った。


一度に重臣2名を罷免した朝廷は混乱し、この年の大嘗祭は中止という異常事態になった。


事の元凶、藤原宗成流罪。


伊予親王家人の皇族、雄宗王流罪。伊予親王の子供たち継枝王、高枝王、皇女1人流罪。と伊予に近しい人ほど重罪に処され、


そして伊予親王と母、藤原吉子は…


もう、幾日経ったであろうか?


食は絶たれ、水は最小限という幽閉の身の母子は格子戸に隔たれ意識も絶え絶えでいた。


格子戸の前には毒の丸薬が詰まった壺が一つと、水の入った器。


この時代、臣下が皇族を直接手に掛けるというのは畏れ多く、紐を与えて自剄(縊死)か、毒を与えて自殺を促すのが皇族に体する極刑の不文律であった。


つまり伊予母子が置かれた苦境は、毒だけ口にして死ね。という平城帝が下した極刑である。


(もう五日も頑張っていなさる。早く飲めば楽になるというのに)


(ああ、高貴な方々は柔弱ですぐ絶望すると思っていたが、感心するくらい剛毅な方々よ…)

と見張りの獄吏たちのしゃがれた声が聞こえる。

あの南家の母子め、しぶといな。

と報告を聞いた平城帝は伊予幽閉六日め、伊予親王の親王号剥奪を宣言した。


「とうとうただ人になってしまいました…母上、不孝をお許し下さい」


と伊予は牢の壁にもたれて凍えて歌いながらなんとか正気を保っている母、吉子に呼び掛けた。

痩せこけて水気が失せた顔で吉子はふふ、と笑い、

「私はあの桓武帝の妃ですよ。いつでも死ぬ覚悟は出来ています。

でも、死に時と死に方を『かたち』にして敵に返す矢にしなければ、駄目。伊予さま、今がその時」


と落ち窪んだ目に燃えるような光を宿した。


「では、手筈通りに」と伊予がうなずくと、


「お先に失礼致します」

と吉子は少し泣き、茶褐色の丸薬を十数粒口に含んで少量の水で流し込むとうつ伏せになり、二、三回痙攣してから間もなく動かなくなった。


母上…と伊予は母の遺体に合掌して涙を流し、私はもうしばらく耐えますと心の中で告げた。


夜が明けて七日めの朝が来た。


神野。

私は人生の最後に於て、2つの過ちを犯した。


一つは同情心で迂闊にも邪な考えの者を近付け、覚えもない謀反の疑いをかけられた身の不徳。


藤原宗成。

あいつは自分の惨めさにも向き合えずに我が人生を全て呪い、


虚言を弄して自分より豊かな者を陥れる事を愉しむ、この世に生きる怨霊なのだ。


もう一つは正気と狂気が入れ替わる兄帝に振り回され、疲弊している貴族たちを代弁して兄をお諌めしてきたつもりだが…


どうやら過剰な憎悪を買ってしまったようだ。

いや、私も兄を相手に疲れ果て、宴の席での「誰を粛清すべきか解っている」という言葉の意を誤解してしまった。


兄上が粛清したかったのは式家ではなく私と南家だったのだ。


兄上はただ機会があったからそれを実行したに過ぎない。後がどうなるかも考えずに、な。


神野。

次の天皇になるお前は、私みたいにはなるな。


人に優し過ぎてはいけない。

人を信じ過ぎてはいけない。

人を近付け過ぎてもいけない。


お前の真の敵は、案外近くにいるぞ。


だから神野。私は自分の死をかたちにして最期の一息まで刻み付けるつもりだ。


「おい!上から命が出たぞ、もう殺してもいい身分だからすぐやれ、と」


吉子の遺体を脇にのけて牢に入ってきた男たち二人がかりで伊予を押さえつけ、無理やり口をこじ開けて毒の丸薬を一気に詰め込もうとする。

「いてっ!」と抵抗する伊予に深く噛みつかれた一人が怒りに任せ、相手の口を長い間押さえ続けた。


「事は済んだ、もう死んでいる」


ともう一人が止めてやっと男は我に還り、

「馬鹿野郎、このお二人は『毒を飲んで自殺』だ。乱暴して変な痕付けんじゃねえ」ときつく叱られた。


「さあ、引き渡しまでに骸をきれいにしとこうぜ」


大同2年11月12日(807年12月14日)、


飛鳥(奈良県高市郡明日香村)にある川原寺に幽閉されていた伊予親王と桓武天皇夫人、藤原吉子の死亡が確認された。


「そんな、伊予のお兄さまが…帝はなんという酷い真似を!」


と神野に泣きつくのは高志内親王こしないしんのう。19才の彼女は桓武帝と皇后乙牟漏との間に生まれた平城帝と神野の同母妹で、今は異母兄大伴親王の妻である。


「取り乱すのはおよし。お腹の子に障るよ」


と妹を抱き寄せ慰める神野も、正直今ここで泣き叫びたい。だが、春宮として人前で取り乱すことはできない。


ああ帝、あなたは決してやってはならない弟殺しをしてしまったのですね…伊予の兄上がどんなに無念か。

胸が破れそうだ!!


数日を置いて大宰府に次々と送られてくる詳細な報せに藤原縄主はどんどん顔から血の気を失い、

死因が服毒自殺と告げられた時には広げた手紙の中で前のめりに手を付いた。


「あってはならないことが起こってしまった…これでは早良さまの時と同じではないか、何をやっているのか帝は!何をやっているのか我が妻は!…空海」


「はい」


「都では突然このような恐ろしい事が起こるからすぐにはお前を行かせたくはなかった。許せ」


朝廷が突然密教の後継者となった空海を扱いかねて彼の処遇を棚上げにしているのをいいことに、僧網所に圧力をかけて空海の謹慎を伸ばし伸ばしにしているのは自分だ、と縄主は白状した。


「何となく察してはおりました」

と空海も憔悴しきった顔を上げた。


「伊予親王さまにには本当に良くして頂きました…あの方の支援があってこそ受戒して正僧になり、唐行きの費用を集める事も出来たのです、空海阿闍梨としてここにいることも…

すんまへん、泣いてもええですか?」


「赦す」


と縄主が言った途端空海は身を激しく震わせ、床に突っ伏して咽び泣いた。それは幾日も抑え込んでいた絶望が奔流となって放出され、その深い嘆きの声は、大宰府の官人たちを再び泣かせた。


伊予さま。

初めてお会いした時のあなたの言葉、この空海忘れませぬぞ…。


私の名前の伊予は、古事記にある伊予之二名島いよのふたなのしまからつけられたそうだ。


だから私の名は四つの国からなる島そのもの。


後年、空海が四国じゅうに己が足跡を刻み付けたのは伊予親王への深い感謝と哀悼の表れだったのかもしれない。






















































































































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