第62話 藤原家の毒薬

御神鏡が安置されている温明殿うんめいでんの近くに尚侍薬子ないしのかみくすこの執務室があり、夕餉の後で臣下から提出された書類を整理するのが薬子の日課であった。


尚侍の職務は常に天皇の側に仕えてお世話をし、臣下から奏上された書類を天皇に取り継いだり、天皇から臣下に向けての命を宣旨するといういわば天皇の秘書室長である。

尚侍に任命されてから約一年半、薬子は激務の日々を送っていた。


ああ疲れた。40過ぎたらもう年ねえ…


と薬子は一人になるとまず脇息にもたれかかって四半時休憩してから甘葛あまづらで固めた餅菓子を頬張るのが、薬子の何よりの楽しみであった。


かような上等な菓子を毎日食することが出来るのが宮中女官の醍醐味なのよね。


と口中に広がる甘味を味わい尽くして呑み込み、白湯を啜ってから溜まっている書類に取り掛かるのだが、


この時は表に何も書かれていない封書がぽとり、と膝の上に落ち、何事か?と思って開いてみると女人の手の腹程の大きさの布切れ。この布切れの紋様に薬子は見覚えがあった…


もし、お前が思っている事を実行したのならば、この布に染み込んだ毒が何倍も返ってくる。


と、添えられていた薄紙に書かれていた一文に薬子は凍りついた。


…朝原内親王!


あの時、朝原内親王に酌した酒が彼女の霊力で毒入りと見抜かれ、「飲みなさいよ」と迫られた恐怖。

わざと杯を取り落として難を逃れたつもりが相手の裳を毒酒で濡らして証拠を渡してしまった失態をまざまざと思い出し、薬子は思わず布切れと文を灯火の中に投げ込んだ。


文と布切れは小さかったのであっという間に燃え尽きたが、煙を吸った薬子は胸苦しさを覚え、慌てて外に出て嘔吐した。


尚侍さま、いかがなされましたか!?と顔色を変えて駆け寄る女官たちに薬子は


「何でもない、何でもないのです…」と言い訳し続けた。


こうして朝原が薬子に警告の文を送ったのが伊予の変の一月ひとつきまえ。


伊予親王の死を知らされた時、伊予の姉で平城帝の妃朝原内親王は

「私が何をしても視たものは止められないのね…」

と一番起こって欲しくなかった予見が実現してしまった事に打ちのめされ、妹の大宅内親王おおやけないしんのうの肩に顔を埋めて嘆いた。



「毒消しはあるかい?」


と衰弱しきった男が這うように小屋を出て杖をついた私度僧に薬をせがんだ。

「そいつは金を貰ってからの話さ」

頭をすっぽり布でくるんだ私度僧が嗄れた声で男に言うと男は「ある」と言ってはち切れんばかりに金の詰まった革袋を目の前に置いた。


「お前さんどうやって毒にあたった?」

という私度僧の質問に男は最初口ごもっていたが胸苦しさに耐えられず「犬に噛まれた」と答え、どれ見せてみな、という私度僧の診察に素直に応じた。


男の右手に付いた歯形を確認した私度僧が


「お前さん、この噛み跡は犬ではなく人のものじゃないか!嘘を吐かれちゃこちらも療治の仕様がない」と叱り付けるように言うと


「その通りだ」と男はうなだれ、ある高貴な方に無理矢理毒を含ませたものの抵抗されて深く噛みつかれ、その毒が体じゅうに回って苦しいのだ。

「それはいつだい?」

「二日前の朝だ」

とあっさり伊予親王殺しを認めた。

「さあ!金は欲しいだけ払うし罪も白状した…早く毒消しをくれよぉ!」

と哀願する男に一瞥をくれ、


「そんなものはない」


と言い捨てると男は絶望と衝撃で胸の発作を起こし、体を丸めながら死んだ。


小屋から出た私度僧は近隣の住人に革袋の金を一掴みずつ配り、

「この金であの小屋の骸を弔ってやってくれないか?」と頼むと集落から姿を消した。


「皇族の方を閉じ込めておける立派な牢があるのは河原寺ぐらいですからね、近くの住人に聞き込みをしたらすぐに犯人が見つかって証言が取れた、という訳です」


しかしまあ、と徳一は溜め息を付いてから

「やましく生きてきた人間の死に様は…醜い」

と語尾にもうあんなやつの事など口にものぼせたくない!というほどの嫌悪感をにじませてこの話を打ち切った。


「ねえ…正しさって一体何なんでしょうかねえ?

嘘を一切吐いてない伊予さまが死ぬ破目に陥り、虚言で伊予さまを死に追いやった宗成は流罪どまり。南家の人びとはとばっちりで厳罰に処されてしまった…正しい人が報われない世の中を作った私たち貴族は、本当に駄目なやつらだ」


と和気広世は懐から幾重にも巻いた紙包みを取り出し、医術の師である実忠に渡した。


実忠は包みを開き、中から出てきた茶褐色の丸薬を見ると青い目に緊張の色を浮かべ、「今から布で口を覆え。直接匂いを嗅ぐな」と目の前にいる広世と徳一に伝えてその通りにさせると丸薬の一つを慎重に小刀で割る。


丸薬の中央にある薬物の臭いを手で仰いで少し臭いを嗅いだだけで実忠はすぐ包みを閉じ、

附子ぶす(トリカブトの塊根)だ」

と告げると広世は徳一に目配せし、徳一はすぐに部屋中の戸を開け換気を始めた。


「附子は服用するとすぐ死に至るが、このようにいくつかの生薬を蜜蝋で固めて丸薬で包むとほんの少し死を遅らせる事が出来るのだよ。胃の腑で溶けるまでの間だが、な。広世、お前はこれを確かに?」


との実忠の問いに広世は居ずまいを正し、


「検死の結果、伊予親王さまのお口の奥からこの9粒を見つけました」


お前が?帝の命で?とわざと実忠は言葉尻を上げて、


「わしが帝だったら絶対検死を任せたくない相手だな」と鼻で笑った。


「命じられた時は私も信じられませんでしたが、私が『毒で自殺なさった』と言えば皆疑わないですからねえ。おもて向き帝にはそう報告しましたよ。


でも伊予親王のご遺体には吉子さまに出ていた服毒の兆候はありませんでした。

折れた前歯、奥歯に挟まった何かの皮と血の塊、死因は何者かに鼻と口を塞がれての窒息死です。

感服すべきは死の瞬間まで抵抗し続け、わざと毒を含んだ口で刺客に噛みつき息を止められるよう仕向けた伊予さまの執念。

我は殺された、という声と『しるし』が私には伝わってくるのです」


「物言わぬ死者はお喋りな生者よりも正直である。か…


広世でかした、この丸薬で朝原さま毒殺未遂と伊予さまの冤罪。

二つの事件が式家の尚侍でつながっている、という証拠を得た」


と実忠が箸につまんで見せたのは、薄紙に包んだ布切れ。一年半前、朝原内親王から依頼を受けて送られた裳の酒の染みた部分を調べてみると…


「これにも附子の毒が染み込んであったわい」と実忠は端正な顔にぐすり、と不敵な笑いを浮かべた。


外はさあさあと雨が降り、重く暗い冬から明るい春へと移り変わる大同3年の始まり、


空海のもとに、師の勤操和尚ごんぞうおしょうから手紙が届いた。


お前の叔父、阿刀大足あとのおおたりどのは和泉国の槇尾寺に匿っている。


政変の時、難波に里帰りしていたのが幸いして大足どのは罪に問われなかったが…

急な事件で主の伊予親王さまを失い、大層気落ちなされている。


ついては空海、智泉を連れて槇尾寺に来てくれないか?お前たちが側にいれば大足どのも心強いだろう。


「都に入らなければ謹慎中」ということですでに僧網所にも話は付けてある。


共に学んだ奈良の僧侶たちもお前の帰還を心待ちにしている。


頼む、空海。


伊予さまのご不幸で人心は絶望に満ちている。

遍昭金剛と呼ばれるお前の光で日の本の闇を晴らしてくれ。


勤操


読み終えるとすぐに空海は手紙を藤原縄主ふじわらのただぬしに見せ、

「大宰府から出ることを許す」という許可を得て荷物をまとめ、世話になった観世音寺の僧や田中少弐をはじめとする大宰府の官人たちに懇ろに礼を述べてから馬にまたがり、太宰府から出立したのは朝日が昇り始めた時であった。


大同3年6月、藤原乙叡ふじわらのたかとしが死んだ。

何の落ち度も無いのに伊予親王の政変に巻き込まれて中納言を解職され、厳しい詮議を受けて自邸に戻ると急に病み、引きこもって失意の内に死んだ。享年47才。


乙叡…乙叡!どうしてこんなことに…

明信は息子の遺体に取りすがって泣いた。が、泣いている内に意識の隅で3年前、宮中の廊下ですれ違った時の事を思い出した。

確かに私は、

「天皇の『女』というだけでは尚侍という重責、務まらなくてよ」

と忠告めいた嫌味を式家のあの女に言ったが、あの時の報復?と思い至ると明信は「乙叡許してえ!」と絞るように叫んだ。

藤原種継の娘。これがお前のやり方なのね…



やった…あの女の息子をとうとう死なせてやった。先帝の愛人あがりの明信め。


あんたはこれから死ぬまで子を亡くした無念に苛まれて生きるのよ!


実家で乙叡の訃報を聞いた薬子は、それまで宮中で抑え込んでいた感情を解放し高らかに笑った。

殺したい程憎い女が居れば、本人ではなくその子供を死に追いやればいい。さすれば相手を簡単に生き地獄に突き落とせるのだ。


ああせいせいする、ざまをみろ!

あはははは!と激しい雨音をかき消すけたたましい声で薬子は気が済むまで笑い続けた。



胸の動悸と息切れで目覚めるようになったのはいつからだろうか?


父の崩御後、解放感と爽快感で目覚めていた頃が今では遠い昔のように感じられる。


平城帝は汗を吸って重たくなった夜着を煩わしく思いながら身を起こし、

お加減はいかがですか?と朝の仕度に来た女官に

「いい筈ないではないかっ!」

と水の入った角盥つのだらいを投げつける。相手が薬子だったらこんなことはしないのに、ええい気の利かない女官どもめ!


「帝の癇気の発作が『また』起こっていると?」

葛野麻呂かどのまろは内裏の女官から寝物語で帝の状態を聞かされた。


「常に尚侍さまがいないと不安でたまらないご様子。暴れたと思ったら急に大人しくおなりになったり…振り回される周りも大変ですよ」

とこぼす女官の白い肌を撫でて「おつとめ大変だねえ」と慰めてやる代わりに帝の近辺の情報を入手する。それが葛野麻呂のやり方だった。


母親のようにあの坊やを慰撫しろ。と申し付けたのに薬子め、その程度の女だったか…と落胆しながら自分の下で息弾ませる宮女を満足させるまで可愛がった。


即位して3年、天皇としての重責と激務で平城帝の心臓は悲鳴を上げていた。


「ですから味の濃いもの、特に塩気を控えたお食事をなさるべきです」という広世の小言を最初は


食事だけが楽しみなのに煩わしいな。

と思っていたが、最近は聞き入れるようになって少し体調が良くなった。


が、それだけではない。薬子にも広世にも言えぬ秘密が一番自分を追い詰めているのだ。


伊予が死んでから、夢に毎晩伊予が出るようになった。


夢はいつも朝議の場で、自分は椅子に座っているのだがそこに臣下は一人も居ない。見下ろす先には伊予だけが立っていて、何を考えているのか分からない静かな目で自分を見上げるだけ。


その状況で平城帝は毎晩、死んだ弟と、自分の本音に向き合わされるのである。


生まれつきひ弱な朕は父に疎まれ、周りに蔑まれて育ってきた。取り柄と言えば式家の皇后から生まれた、ということだけ。


宗成の言う事が正しいか嘘かなんて関係ない。

父から一番可愛がられ、朕よりも天皇に相応しいと言われるお前が妬ましくて疎ましくてたまらなかったよ。


伊予、嫉妬でお前を殺した朕を恨んでいるのか?


もう死人なら何か言えばいいだろうに。


怨霊ならば読経なり加持祈祷なり行ってお前を追い払ってやるのに。


「何か言え!伊予!」

激しくわめいて跳ね起きた平城帝は傍に薬子がいたのでその手にすがり付いた。

「帝、どうなされました!?」

「ああ薬子…もう朕のそばを離れないでくれ」と薬子の肌の匂いを嗅いで安心した時、いつになく激しい胸の締め付けに平城帝は襲われ、喘ぎながら空を掴む。


その様子をただ事でない!と思った薬子は「早く和気広世さまを!」と命じて広世の他に緒継おつぐ、葛野麻呂など藤原家の腹心たち、薬子の兄の仲成が平城帝の枕元に呼ばれた。


おい、いよいよ帝が危ないらしいぞ。

やって来たことが全て跳ね返ったのさ!この際…


と噂する貴族の横を平城帝の第一皇子、阿保親王が通りすぎたので「この際」で貴族たちは口をつぐんでしまったが、阿保も実は同じ気持ちでいた。


この際お隠れになって欲しいものだ。


とあなたたちは思っているんでしょう?気持ちは解りますよ。我ながら父親に対して薄情だとは思いますが。


でも、婿入り先の大舅である乙叡どのを理不尽に解職して病死に追いやった父を今更哀れむのは無理です。


息子の阿保、高岳まで枕元に集まるのを見て平城帝は

ああ、もう自分は駄目なのか。と視界が狭まる中で周りの者たちを見回した。


自分を見下ろす深刻な顔が並ぶ中、ある人物が片頬を上げて笑っているのを見付けると、


そんな、最も信頼していたお前までが!?もう私は駄目だ…


と昏倒し、平城帝の意識は漆黒の闇の中に沈んだ。




























































































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