第59話 白雪

雪は、冷たく優しく降り積もる天からの清浄なもの。


ああ、苦しい…

なぜ私はこの美しい雪景色を前に息苦しさを覚えるのだろうか?


大同二年、元旦(807年2月)。


大内裏の北西にある太極殿だいごくでん高御座たかみくらに礼服である冕服べんぷくに身を包んだ平城帝がお座りになられたちょうどその時に陽の光が差し込み、太極殿に積もる雪を眩しく照らし出した。


朝賀とは古来より天皇が皇太子以下の文武百官の拝賀を受ける行事であり、

即位式に次ぐ重要な儀式とされた。


そして、この日は参列している官人たちと外国の使節の前でいちばん最初に進み出、天皇に「賀のことば」を奏上する皇太弟神野親王の、初めてのお披露目の場でもある。


それなのに、半時前はんときまえから神野は雪が積もった日には必ず起こる、原因不明の喘息発作を発症して気が遠くなるような息苦しさを人知れず抑え込んでいるのだ。


絶対一つの間違いもあってはならぬ場だぞ。どうしてこんな時に!


と神野は自分ではどうすることもできない己の発作を忌々しく思い、


冷たい外気をゆっくりと鼻から吸って気を落ち着かせようとするが、帝の白いお顔が目に入ると、急に頸部を左右から圧されるような苦しみに襲われた。


もう駄目か?と気を失いそうになった神野はその時、背後から抱かれるような優しい感触と、


(あなたはこの国を生まれ変わらせる聖太子。ここで倒れては、駄目)


と頭の中で自分を叱咤する声が聞こえるという不思議なことが起こり、温もりが通り過ぎると息苦しさは消えていた。


今は自分の成すべき事を成すだけ。


赤色の生地に龍・山・華虫(雉)・火・宗彝(そうい 祭祀礼器)・藻・粉米・黼(ふ)・黻(ふつ)を刺繍した礼服をひるがえして帝の御前に進み出、日月・四神の幡を背に張りのある声で賀のことばを奏上する神野親王のお姿に、


「なんと堂々たる御姿よ。さすがは俺たちの春宮さまだぜ」


と神野の側近である春宮坊藤原冬嗣は、隣にいる義弟の藤原三守に誇らしげに囁いた。


朝賀と元旦節会という早朝から夕方までかかる長い儀式を終えて東宮に戻ると正月の晴れ着から夜着に着替えていた春宮妃、高津内親王が心配した顔で神野の手を取り、


「まあなんて冷たいお手…早く替えの衣と火鉢と、お薬湯を!」

とてきぱきと侍女たちに指示して夫の衣服を替えさせた。


「こっそり襟を緩めて着せてくれたおかげで楽に息が出来たよ、ありがとう」


と元旦の長い1日の日程を終えた神野は、筥枕に頭を預けて横になり、高津の手を握りながら礼を言った。

「いえ、それは貴命と明鏡が着付けに工夫をしてくれたからです」

と侍女たちの働きを夫に伝えた高津に神野はふふ、と笑いかけ、


「あなたもすっかり妃らしくおなりだねえ」


と神野は正妻高津の手を握りながら言い、妃、と呼ばれた高津は嬉しさで顔をほころばせて抱きついたまま身を寄せて眠った。寝具の中で神野は


あの朝賀の時の、不思議な感触は一体何だったのだろう?

まるで温かい鳥の羽根にくるまれるような…


と考えてみたがやがて猛烈な眠気でことん、と意識を無くしてしまった。



正月二日には神野が主役となる東宮朝賀が行われ、主だった皇族と臣下たちが参内する。


昨日よりも内輪向けの宴なので列席の貴族たちも緊張がほぐれ、これから半月近く続く新年の祝賀を積極的に楽しもう!という雰囲気になっている。


宴席の中心では冬嗣の子供たちで長男の長良ながよし5才、と次男の良房よしふさ3才が見覚えた祝賀の舞いの振り付けをぎこちなく真似て再現し、時々振り付けを忘れて止まるそのぎこちなさがまた愛らしく、大人たちの笑いを誘っている。


「おやお前たち、手の甲のほくろが大きくなったね」


と神野は兄の伊予親王の皇子、継枝王つぐえのおう高枝王たかえのおうを傍に寄らせて頭を撫で、会う度に二人の成長ぶりを左手の甲の付け根にある黒子ほくろの大きさを見ながら言うのである。

「妹にもほくろがあるんですよ、ねえ高枝」

「うん」

と6才と5才の幼い兄弟はみずらに結った髪を揺らして可愛くうなずき合った。


「それは父である私譲りのものだがね…相も変わらず春宮さまは人の変わったところばかりをご覧になる」


と伊予親王は神野の隣で自分の左手の袖をまくって皇子たちと同じ場所にある黒子を見せてから、春宮になっても神野は相変わらず神野のままだ。という安心した心持ちで微笑んでくれる。


「私は変わり者でしたか?兄上」

「いえもう身分が違うのですから伊予と呼び捨てて下さい」


こうして兄に敬語で返されると、もう私たち兄弟は鷹狩の帰りに他愛なく語り合っていた頃には戻れないのだな…とふと寂しさがよぎるが今はめでたい宴。


今の感情をいちいち顔に出さずにいられるほどに神野は成長していた。


やがて、舞いを終えた冬嗣の子らが拍手の中礼をすると小走りに父親の元に戻った。


「見事な舞であったぞ、太郎君次郎君。褒美を遣わす」

と神野はにっこり笑って長良と良房にそれぞれ餅の入った袋を下賜した。


「まことにありがたき幸せ…春宮さまからの歳魂(お年玉)、大事に致します」


わーい、おもちおもち!とはしゃぐ子らをこれ、失礼であるぞ!とたしなめる冬嗣に


「子というものはいいものだな冬嗣、やはり父親になるのは大変か?」と問われ


「最初は小さくて頼りなくて抱くのも大変でしたが…今はよくぞここまで育ってくれたと思っています。これから色々教えるのが楽しみです」


と冬嗣が珍しく優しい顔をして言うので、


「そうか、実は私にも子が出来た。夏には生まれる」


春宮さまの突然の発表に伊予親王はじめ宴の場にいた全員最初は驚き、次にこれは二重の慶事だ、実におめでたい!と宴席のあちこちから声が上がり、

「まことにおめでとうございます」

右大臣藤原内朝呂以下全員その場で平伏した。


今日の神野はやたら子供に触りたがる、とは思っていたが理由はそれだったか。それより、やっと神野が父親になるのか…


伊予は「健やかなお子が生まれますように」と弟の杯に薬酒を酌し、

「兄上に喜んでもらえて一番嬉しい」

とはじめて表情をほころばせて杯を受けた。



「懐妊した皇女はまあ皇族といっても傍系も傍系…生まれた子が皇子でも皇女でも脅威にはならない、その内祝ってやらないとな」


と二日の予定を全て終えた平城帝は床にうつ伏せになって凝った背中をほぐしてくれる薬子にこぼした。


神野の子を懐妊した皇女は交野女王かたのにょおうといい、血筋をたどれば天武帝の皇子舎人親王の曾孫であり、彼女が皇子を産んでも皇統には選ばれない。ということを暗に言っているのである。


「まあ脅威だなんて…まるで春宮さまに跡継ぎの皇子さまが生まれては困るような仰りよう」


「困る」

平城帝はうつ伏せのままこちらを振り返り、すがるように薬子を見た。

「…どうしても高岳さまを天皇になさりたい訳は、やはり伊勢神宮の一件ですか?」


そうだ、とそこで平城帝は身を起こし、脇息に肘をついて薬子にもそっと近う、と側に寄せてから語りだした。


「わが父桓武帝は朝廷の兵が蝦夷えみしと戦って殺されている間も鷹狩りの遊びに呆け、あろうことに狩場で唐の神事を行うような愚かな王であった。


天災、疫病、家族の死…とどめは伊勢の正殿の火災だ。

あいつは我が身の不徳に気付かず天にまで見放されたんだ!


今、天皇家は神格のあかしを失い、正殿の建て直しとご神宝の修復も費用ついえが足りなくて途中で止まっている…神官たちを黙らせておくのももう限界だ」


「だから伊勢一族出身の高岳さまを次の皇太子に据えて、伊勢及び周辺の豪族との絆を深めようと?」


「そうだ薬子、女人ながらお前は政治に明るいな」

と言って平城帝は白い歯を見せて小さく笑ったが、それがなんとも哀しそうに薬子には見えるのであった。


現実問題、二度の遷都と蝦夷征伐による負担で朝廷の経済状況はかなり逼迫していた。

実際の暮らし向きは都の中流貴族よりも地方の豪族の頭の方が豊かなくらいだ。


「即位してみなければ解らなかったことだが、情けないものだな、小国の王というのは」

と言って顔を覆う平城帝に向かって薬子は覆いかぶさるように抱き付いた。


「いいえ、あなたは誰がなんと言おうとこの国の天皇です!あなた様のお気を煩わせる全ての障害はこの薬子が取り除いて差し上げます」


薬子はそう宣言すると腰紐を解き、己が白い乳房の中に愛する青年を誘った。40を過ぎている筈なのにこの人の肌はなんと眩しく白いのだろう…


青年はまず女の乳房に顔を埋めてから右手で女の左の乳房を掴み、目を閉じて左の乳首を吸った。


女は規則的に吐息をつきながら青年の両肩を押して床の上に倒し、彼の衣を優しく脱がせて上にまたがり体を揺らしながら徐々に昂っていく。


さあて、まずは私を脅かす伊予の坊やををどうしてくれよう?


己が五体に流れる藤原の血がそうさせるのか、行為中に黒い謀を思いつくとますます昂る体質に薬子はなってしまっていた。


正月八日、東宮の庭には足首が埋まるくらいの雪が積もっていて、貴族の子息たちが雪遊びをしていた。


神野はこの日やはり息苦しさを覚えていたが子供たちを見ると気がまぎれると思ったので春宮坊たちに命じて子供たちを連れて来させたのだ。


藤原三守は息子たちと雪玉を作りながらも、春宮さまのお体は大丈夫であろうか?


とちらちら御簾の方に目をやり主を気遣うが、背後から衿に雪を入れられて背中を伝う冷感でその場でのけ反った。


振り返ると良岑安世が雪玉を持って悪童そのものの顔して笑っている。

「いいお年をして何してくれてるんですか」

と三守は無表情でで雪玉を安世の顔になすりつけ、

「良房ゆけ」と仕返しとばかりに冬嗣が良房を抱っこして安世の襟元に固めた雪玉を入れさせ、ひやっ!と安世がのけ反るのを見て良房がきゃっきゃ!と笑い声を上げたのを合図に、

たちまち春宮坊たちの雪合戦が始まった。


「…おいおい、父親たちの方が子供じみてないか?」

と呆れた神野は御簾を通して雪合戦を眺めていた。程なく「も、申し上げます!」と慌てて入って来た命婦、三善高子の様子に「どうした?」と怪訝な顔をすると、


彼女の背後には天皇の礼服である白い袍を身に纏った平城帝が八才の高岳親王と連れだって立っていた。


まただ。この息苦しさは、雪のせいか?


朝賀の時もこんな感覚だった。兄上の袍の白を見ると、まるで。


「お前に子が出来たと聞いてな、早く祝いたいと思って来たのだ。まずはめでたい」


と平城帝の背後に控えていた従者が祝いの品を次々と神野の前に並べる。


こうして何度も歩み寄ろうとしてくださる兄上に対して、何故に私は隔てを置くのだろう?

「…まことにありがたきお言葉…光栄に存じます」

と丁重に礼を述べる神野は息苦しさで気を失いそうになりながらも失礼が無いように耐えている。


帝の命で御簾は巻き上げられ、午後の陽射しを受けた雪の庭では高岳を交えた子供たちが屈託なく遊び、大人たちは天皇と春宮の会談を前に少しでも粗相があってはならぬ、と注意深く兄弟の様子を窺いつつ高岳の相手をしている。


神野の発作を知っている三守は庭園からその様子を見て、なんとかして帝にこの場を切り上げてもらわなければ!と思いついた策を実行した。


襟元がぐっしょり濡れる位汗を流し、今にも失神して倒れそうな神野を救ったのは、


「父上もこちらへいらしてご覧になって下さい!」

と雪うさぎを両手に持った高岳親王が庭園から呼びかける声だった。


「ほう…これは見事な雪うさぎだねえ」と平城帝が息子が手のひらに乗せている雪うさぎに目を奪われ立ち上がり、縁石に並べさせた沓を履いて自ら庭に降りて出た。


その隙に神野は大きく息を付いてなんとか気を保つ。


「えへへー、三守が作ってくれたのですよ」


と初めて同年代の子らと遊んだ楽しさで高岳は頬を赤くし、笑い過ぎて息切れしている。


「たっぷり遊んだかい?おや、肩口に雪がついている」

と平城帝が我が子の肩に付いた雪を払おうと手を掛けたのを見た瞬間、神野の脳裏に幼い頃の白雪の記憶が蘇った。


そうだ。

あの時も、こうして三守と雪玉を作って遊んでいた。


急に自分の上に影が差したので見上げると…色白の若いお方が立っていた。舎人たちに春宮さま、と呼ばれる初めて見るそのお方に私は「だれ?」と問いかけると、


「弟皇子など、いらぬ」


と言って私の首を絞めたその人は…


あなたでしたか兄上!


この時、神野の心を封じていた厚い氷の層がぱりん!と音を立てて割れ、温かい陽の光が差し込む現実の雪景色に意識が戻った。


ああ、これでやっと息がつける…


「畏れながら、皇子さまのお体が冷えてはいけませぬので中にお戻りになって火鉢にあたりませぬか?」


先程とは打って変わって余裕たっぷりの声で兄帝に呼びかける春宮さまの様子に三守も高子も驚き、

「いや、もう戻る。急に訪ねたりして悪かった」


との帝の御返事になんとかこの場を切り抜けられた…と安堵したのであった。


「今年の雪もこれで最後なんだろうな」

枝に積もった雪のかたまりが、ばさりと音を立てて落ちたのを見て神野はひとりごちた。


あの雪の日の出来事は兄上ご自身お忘れなのだろう。私が兄上を避けていたのは…


決して近づけてはならないお方だったからた。


あんな人を長く帝位にとどめておく訳にはいかない。


その日を境に、神野の発作は徐々に治まっていった。


翌朝には雪は半分溶け、庭の葉先から落ちる滴の眩しさを美しい、と思い平城帝は縁側から雪解けの庭園の眺めを楽しんでいた。


ふと、違和感を感じて溶けかけた地面の雪の中を見るとそこに犬の死骸を見つけた。


よりによって正月に。これは、不吉の前触れか?と平城帝は急速に不安になり

触穢しょくえじゃ!陰陽師を呼べ!」とその場で従者たちに命じた。


雪は、ぬるんで溶けて水になり地に還るもの。最後まですべてを覆い隠してはくれない…







































































































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