第58話 海辺のふたり

あれは那の津でのことであった。


薄青色の帽子もうすが風を孕むのを構わず空との境に向けて青みを増していく海の向こうを見つめる師、


最澄さまの澄んだ眼差しはこれから起こるあらゆる事をやり遂げようとする覇気に満ち溢れていらっしゃったよ…


と弟子の義真ぎしんは帰国後の天台宗に起こった数々の試練と、

ほとんど厄災にも近い困難を振り返り、最澄の死後も心が挫けそうな時は海に向かう師の姿を思い出し、己を奮い立たせたのだ。


と晩年述懐するのであった。


「出航を前に何を思っていらっしゃるのですか?」

とこれからの唐留学に通訳として同行する義真は、


ああ、今からこの窮屈な島国を飛び出して大陸へ向かうのだ!

という躍る気持ちを隠せずついうわずった声で尋ねてまったのを覚えている。


「…いや、日の本は小さくて狭苦しくて窮屈な、閉じられた国だ。

と皆は言うが、ほんとうのこの国は実は海を前に『開かれている国』なのではないか?とふと思ってね」


実のところ義真は我が師が「いやあ、今からこの国を出るのが楽しみでね」と答えると期待していて、「はい!拙僧も同じ気持ちです!」と盛り上がって同調したかったのだが思わぬ言葉に義真ははあ、としか答えることが出来ず、


やはり頭脳明晰なお方は凡人とは変わったものの見方考え方をなさるのだなあ…と感心しているところへ


「遣唐使船一の船に乗る大使さま一行がお通りなさる。道を開けよ!」


と護衛の武人たちがふれ回っているので最澄たちもそのとおりにして藤原葛野麻呂をはじめとする一の船に乗る留学生の列が前を通り過ぎるのを頭を下げつつ眺めた。


「義真…遣唐使船にはあのような少年までも乗り込むのかい?」

と最澄が列の最後尾あたりにいる色白で小柄な僧を目で追って気の毒そうに呟いたので、


「何言ってるんですか?あの僧が空海ですよ。空海!」と言って義真は師の袖を引いた。

「え、あれが噂の」と最澄が口を半ば開けて驚いているところにそうです!と義真は強くうなずいて

「あれが聾鼓指帰ろうこしいきの作者、空海です。

寺にも宗派に属さず10年以上私度僧として山野をさすらい、留学の為に飛び込み受戒した、何もかも謎めいた男です。あれでも年は30」


ほう、と最澄は色白で女人みたいな柔和な顔つきをした空海が真っ直ぐ顔を上げて歩くその眼差しに強く惹き付けられた。

彼の者は、いったい何処を見つめているのだろうか…?


「でも所詮、卑しい私度僧あがり。国賓として留学する最澄さまにはかなわない」

と口を滑らせた義真に


「比叡山で留守を守ってくれている円澄も私度僧だが?」と最澄はわざと声を低めて返した。


「それだけではない、いま比叡山寺にいる僧たちはお前みたいに奈良の寺に嫌気が差して飛び出した僧侶と、私度僧の寄せ集めの集団に過ぎない。


義真、私たちは天台宗を正式な宗派と認めてもらうために今から海を渡るのではなかったかい?」


と周りにいる貴人たちに遠慮して声を抑えているが師から厳しいお叱りを受けた義真は、


しまった、つい余計な事を言ってしまった…と顔赤らめて己の失言を恥じた。

「まあ天台山で深く学べばお前のその増上慢も治るかもしれないね」

と最澄は帽子の下でくすり、と笑った。


「この国で閉じられているのは、人の心ばかりなり」

船に乗る直前、最澄は意味深に呟いた。


延暦23年(803年)秋、


この時の二人にとって空海という男は前に那の津ですれ違っただけの、20年は唐に行って帰らない予定の僧侶でしか無かった。


その三年後、高雄山寺たかおさんじ


「金剛菩薩念経法一巻、十二紙」


と空海が書き記した後に「御請来目録」と呼ばれる力強い字で書かれた目録の経典の名を義真が読み上げ、それを最澄が緊張で帽子の下で汗だくになりながら


「は…はい!あ、これだ。いま確認しました!」と、巻物を手に取って最澄が己が帳面に印を付けてひとつずつ検品を続ける。


ここ高雄山寺の本堂は空海が唐より持ち帰った密教の経典、法具、仏像や恵果阿闍梨から授かったという仏舎利等の膨大な文物に壁も床も埋め尽くされ、その検品に最澄は追われていた。

「普賢金剛薩埵念経法、一巻、十二紙…」

「はい…こ、これです!」


と傍目に見ても明らかに自信無さそうな最澄の慌てぶりを、

こいつ大丈夫か?と言いたげに眺めているのは唐留学30年の契約を終えて帰国し、桓武帝により大僧正に任ぜられた永忠と、空海の師の勤操。


「最澄よ」との大僧正の問いかけに

「これの検品が終わるまで待ってくれますか?」と最澄は手で制した。


「お、おまえ、いくらなんでも大僧正さまに失礼やぞ…!」とさすがに勤操は慌てたが「勤操、よい」永忠はさして気を害する様子もなく黙って最澄が帳面に印をつけ終わるのを待った。


「最澄、お前」

「はい」

「お前は越州で順暁阿闍梨じゅんぎょうあじゃりから密の教えを授かり、灌上を受けたというがそれは一月ひとつきの間であったな?」

「はい…」

と最澄は帽子を外し、大僧正の前で畏まった。

「いま、密教の後継者空海の持ち帰った学びの証拠を前にどう思う?」

と永忠は残る検品の品々に向かって法衣の袖を広げて手で指し示して見せた。

は…と最澄はさらに頭を垂れ、


「私は饅頭マントウをひとくち齧っただけでこれが饅頭だ、と作り方も材料も知らずに理解した気になり、この国に伝えようとする愚か者でした…もう死にたい位恥ずかしい」と顔を歪めて泣きそうになる最澄に


「でもお前は」と永忠は怒気を含んだ言葉を投げかけた。


「お前は都に戻る途中の福原(神戸)でこの国で初めての密教道場を開いてしまったし、先帝の命でちょうど1年前にこの寺で国家灌上を行ってしまったではないか!


他宗派の僧侶たちの頭に水を付けてな…


先帝やお前にとっては国家鎮護の儀式でも、


他の僧侶たちにとっては権力で頭を押さえつけられた屈辱の烙印なのだぞ!これで奈良の僧侶の恨みはますます深くなった。

その事実は消えん。帰りの遣唐使船であれほど『密を修めたとみだりに言うな』と注意したのに…わしの立場をもってしてもお前を庇いきれなくなってきている」


最澄と空海。唐の最新仏教である密教の伝導者が、

この国に二人同時に存在している。という困った状況に、


ああどうしたものか!と帽子をむしり取って頭をかきむしる大僧正であった。

「まことに、申し訳も…」とますます萎縮する最澄が義真には痛々しく思えてならない。


もうやめてあげて下さい。と声に出して止めたかったが相手は大僧正、それさえ出来ない自分が不甲斐なかった。


「もうええやないですか、それ以上最澄を責めるのは酷というもの」


と義真の気持ちを勤操は代弁してくれた。


「そもそも最澄が重きを置いていたのは法華経と天台教学の筈や。

ついでに習って来た密教の、現世利益的な加持祈祷だけ取り上げる貴族たちに利用されて苦しんでいるのは最澄やないですか、なあ?」


とまったく緊張感の無い笑顔で勤操が背後から最澄の両肩に手を置き、


(気持ちを切り替えるんだ最澄。お前はそつなく検品終えたら比叡山に帰り。

後は空海に押し付けたったらええんや)


と耳元で囁くと「ほなおきばりやす」と最澄が咳き込むくらい背中をばん!と強く叩いた。そのお陰で最澄は気を取り直し、滞りなく作業を終える事が出来た。


「…それにしても空海はやってくれたな」


「へえ、唐の仏教がここまで進んでいたとは…最新の仏教の宗派を丸ごと持ち帰って来た遣唐使なんて、後にも先にもおらんのやないでしょうか?」


最澄が帰った後で永忠と勤操のふたりは、大日如来を中心に縦横に広がる金剛界、放射状に広がる胎蔵界の両曼荼羅に囲まれ、

小さな仏の図が星となって広がる小宇宙群を前に言葉を無くし、しばし魂を密教世界に遊ばせた。


その半月前の太宰府。

「噂によると最澄が襲われたらしい」

と人払いした室内で藤原縄主から話を聞かされた高階遠成は思わず背筋を強張らせた。


「最澄自身は無事だが、弟子の一人が怪我を負った。

それ以来最澄は護衛の僧を付けて比叡山に籠りっきりでいる…刺客を放ったのは敵対する仏教勢力か?それとも」


元々奈良仏教派で最澄の存在を疎んじておられた帝の仕業か?


とまでは口に出せない縄主と遠成であった。


「解るか?遠成どのよ。空海が持ち帰った密の教えは大きすぎて、今の朝廷はもて余すに決まっている…

空海謹慎の御沙汰はむしろこっちにとって都合がよいのだ。

下手に都に入って消されるよりはましというもの」


「では私は」と顔を上げる遠成に縄主はそうだ、とうなずき、


「20年の学びを2年で修めた、と言う学びの証の品々と目録を無事に高尾山寺まで運び入れて欲しい。

私も見せて貰ったが、論より証拠とはまさにこの事よ!本当にこの国で見たことも無い物ばかり!」


縄主は牡牛のようないかつい上体を揺すって豪快に笑い、笑いを収めた後で

「空海の身柄はこっちで手厚く保護するゆえ心配するな。明日出立ゆえ早く休むがよい」と言って遠成を下がらせる直前、

「なあ遠成どの、空海の密教はこの国の教え全てを包み込んでしまうかもしれんぞ」と振り返って言って遠成を驚かせた。


都から入る情報はどれも芳しくないものばかり…


薬子よ。お前はどこまで関わっているのだ?


帝よ、あなたは我が妻を破滅の巻き添えになさるおつもりか?


薬子。

心優しく良き妻良き母であった頃のお前は、もう戻って来ない。


ならば私は。



「今宵は冷えるので膳に工夫をこしらえさせていただきました」


と空海の世話役を仰せつかっている若い副官、田中少弐たなかのしょうにが鍋の蓋を開け、湯気を立てる芋粥(山芋を甘葛で似た料理)をよそってくれた。


おお…!二人は感嘆のため息を洩らし、合掌してから椀の中のとろとろに煮えた山芋を啜って「うまい!」と同時に叫んだ。


「芋粥とはまた滅多にない馳走を。感謝します」

と空海が懇ろに礼を述べると少弐は嬉しそうに頬を緩めて


「いえいえ、国の宝である空海阿闍梨を厚くもてなすように、との大宰帥さまの命ですし、私も直接阿闍梨をお世話できて光栄だと思っているのです、なんなりとお申し付けください!」


とぽん!と拳でわが胸を打って張り切って見せた。


その様子が健気でかわいいのでつい空海は、


「光栄、と言われてもわしは留学放棄で謹慎中の咎人でっせ。

太宰府でのわしらの扱いは咎人のそれでなく、まるで賓客や。お上にばれたらどないすんねん?連座して処分されるんやないかぁ?」


と時々こんな意地悪を言ってからかってしまうのであった。


「いいえ、むしろ阿闍梨と智泉どのを大事になさるのは当然の反発」


と弐が急に醒めた顔つきをして言ったので二人の密教僧は怪訝な顔をして


反発って、どういうこと?と眼で問いかけるので、

「…って、あなた方は太宰帥さまのご事情を知らなかったのですか!?」


いくら世間知らずの僧侶とはいえ太宰府にまで広まっているいちばん有名な醜聞を知らないとは…


このお二人は世事に疎い、疎すぎる。


許されて都にお戻りになるまでに絶対伝えるべき情報だ。と


平城帝と藤原縄主の妻、薬子との不倫関係は10年近く続いていて二人は一時期

帝のお父上である桓武帝によって引き離されていたが、桓武帝がご崩御なさるとすぐに帝は薬子を尚侍として呼び戻し、縄主をここ太宰府まで左遷して堂々と妻を奪ったのだ。


「あんなにお優しい夫君を裏切るなんてどんな性悪な女だろうねえ、その宮中女官

ってのは!」


と厨の下働きの女までも知ってて噂する宮中の情報を空海と智泉に教えてあげたのだ。


「あの、私が話したということは大宰帥さまには内緒に」

と言い置いて少弐が辞去すると空海はぼりぼり頭を掻いてから文机に頬杖を突いた。


「なるほど、妻を奪った帝に対する反発かい。道理でここでの待遇が良すぎると思うたわ…どうやらその新帝は問題のある御方みたいやな、智泉」


「はい、先に帰国なされた最澄さまも先帝の認可で宗派立ち上げはしたものの、今上帝は手のひらを返したような冷遇で」


「お辛い目に遭われてるんやなあ、あの最澄さまが」


「叔父上は最澄さまと面識はあるのですか?」


「いや、那の津ですれ違っただけや。帽子を被った背の高い僧侶がひとりで海を眺めていたので妙に惹き付けられてな…

その僧侶が最澄さまだ、と知ったのは船に乗り込んでからやった」


「へえ!どんなお方でしたか?」


と甥っ子で密教の一番弟子に問われた空海はその時の最澄の背中を思い出して、答えた。


「あの人を真に理解する者は誰もいない。と思わせるような、寂しそうな背中やった」

































































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