第51話 天皇の侍医

その少年は、父の所在が解らない時にはいつも大学寮の南にある邸に入りその姿を探した。

邸とはいっても家具調度などはあまりなく、ほとんどの部屋が書物を並べた棚で埋め尽くされた雲亭うんてい(公開図書館)づくりである。


少年は書斎に当たる部屋の床の上にいつも通り右腕を下にして真横に寝そべっている父の姿を見つけてほっと胸を撫で下ろした。


真菅ますがか?と少年の父でこの公開図書館、弘文院こうぶんいんを大学寮に寄進した和気広世わけのひろよは首をねじって顔だけこちらに向けて、


「近う寄って父と共に寝そべらぬか?床が冷えて心地よいぞ」と後ろ手でつんつん、と床を指す。


自分が童だった頃は父と並んで床に寝そべっていたのは楽しい思い出だった。が、今の自分は14とはいえもう元服を済ませた大人なのだ。


「大事の時に一家のあるじが所在不明とはどういうことですか!?母上も呆れていましたよ」


と広世の長男、和気真菅わけのますがは和気氏の家長でありながら、全く出世に興味のない父を叱咤するほどの大人になっていた。


わかったわかった、と床に手を付いて半身起き上がった広世はふああ、と盛大に欠伸をして組んだ両手を天井に向けて伸ばした。


「長男だから和気氏の家督を継ぎはしたが…

はっきり言って私は医術と薬学以外に、興味が無い。まつりごとでのお家の生き残りとか、そんなことは真綱まつな、お前に任せるから好きにやれ」


と興味の無い事は弟に丸投げして薬草学と医術の研究に没頭する広世、39才。

この呑気な学者貴族は我が息子が次に告げた一言で長い惰眠から叩き起こされる。


「朝廷から我が家に勅使がいらっしゃっていますぞ、疾くご帰宅なさりませ!」


はあ?と広世は間の抜けたような返事をして、慌てて帰宅して妻に手伝ってもらって身支度を整える。妻は、


「きっと加冠のお知らせですわよ!あなたも殿上人になるのですからちゃんとして下さいね」

と母が子をたしなめるように注意して冠から足元まで夫の服装を確認してからよし!と夫を勅使が待つ客間へと向かわせた。


勅使はうやうやしく帝からの勅書を読み上げ

「和気広世を正五位下、左中弁に叙す」と平伏する広世に告げた。


妻の言った通り広世は殿上人になった。


弁官は朝廷の最高機関、太政官の職であり、官庁を指揮監督する役を負っていた。故に、弁官経験者は三位以上の参議になる資格を有する。貴族にとって弁職とは、出世への登竜門なのだ。


一分の隙も無い礼儀正しさで勅使を見送った広世の背後では妻子はじめとする家人たちが喜びで沸き立っている中、ひとり広世本人だけが不本意な気持ちでいた。


この叙爵が自分にではなく、覇気の強い弟、真綱のほうに行けば良かったのに。


その夜は家人だけで内祝いをし、床に就く前に妻は、


「これで和気の家にも光が差します、亡き義父上もきっとお喜びでしょう…


おめでたい夜だから申し上げますが、まるで出世に関心が無い様子のあなたとの暮らしは平穏だけどどこか張りが無い。そう思って諦めて過ごしてまいりました。


明日からは誇らしい気持ちであなたを送り出せます」


と結婚以来胸に秘めていた本音を告げて酒も入っているので横になると妻はそのまま熟睡してしまった。


自分の心の浮き沈みは、夫の身分次第。

女人とは、そういうものなのか?


私との暮らしを諦めだと!?


と妻の本音に少なからず衝撃を受けた広世は、激変する明日に向けて寝ようとしたがその夜は頭が冴えてほとんど眠れなかった。


翌朝、広世は五位以上の朝服である薄紫の袍、頭には皀羅頭巾くりのうすはたのときんを被り手には象牙製の牙笏、金銀装腰帯、白袴、烏皮履くろかわのくつを着けて参内した。


初めて平城帝に謁見する直前で広世は


「お前の願い出は親王にあるまじき我儘自儘というものぞ、臣籍降下など許さぬ!」

というほとんど金切り声に近い帝の激しい叱声を聞いた。


「は、しかし春宮さまには我が兄神野親王がおつきになられて私はもう親王で居る必要は無いかと、この上は姓を賜り」


黙れ!と帝は叫び、そのせいで喉を傷めて空咳をなさっているのが聞こえる。


新帝は癇気の強いお方、と噂に聞いた通りだったな…と広世はもう帰りたい気持ちで今の謁見者が叱られているのをすぐ後ろで頭を垂れて聞いていた。


「大伴、お前の母は誰か?」

と威儀を正して平城帝は問うた。叱られているのは帝の弟君、大伴親王だと広世は察した。


夫人ぶにんの藤原旅子でございます」


「旅子の実家はどこか?」


そう問われた大伴は一瞬口ごもり、嫌々と言った感じで

「藤原の…式家です」

と答えた。

「朕も式家出身の皇后、乙牟漏おとむろの腹から出た身だ。春宮神野とは母を同じくする…朕の言っている意味が解るであろう?」


はい、と消え入りそうな声で大伴親王は答えた。


「我らが父、桓武帝の御代から天皇家は藤原式家の庇護を得て生き延びてきた。

故に、式家の血を引く大伴、お前を皇族から外す、という考えは一切無い。


なあ大伴…式家の妃を母に持つ兄弟たちが力を合わせて内政を落ち着かせる。これからという時にお前が居てくれないと、困るよ」


そこまで兄帝に懇願されては何も反駁出来ないではないか、と大伴は悟り、


「拙いこの身、帝の為に力を尽くします…」

と口上を述べて笏を掲げてから大伴親王は帝の前を辞した。


次の謁見者が広世だと気付くと大伴は恥ずかしい所を見られてしまった、という気まずさと日頃懇意にしている広世と宮中で仕事ができる嬉しさが入り交じった笑みで広世に近付き、


(ま、兄上はあのようなお方だ。叱責は常日頃のことだから『がんばれよ』、その格好似合うぞ)


と耳元で囁きかけて広世の肩をぽん、と叩いてから謁見の間を出ていった。


「和気の広世、罷りこしました」と緊張しながら笏を掲げる広世に平城帝は


「お前が来るのを待っていた、顔をあげよ」と少し弾んだ声をかけられた広世は言うとおりにし、御椅子にお掛けになっている帝に初めて相対した。


ずいぶん端正なお顔だちだな。


それが、広世が平城帝に抱いた第一印象であった。

色白で細面な美男子であらせられるが、目元は神経質そうにぴくぴく引きつり、頬がそげていらゃるのが惜しい、それに額には汗が滲んでおられる。


先ほどの叱責で随分体力を消耗なさったのだろう。

と元典薬頭という侍医の長官職だった広世は一目で平城帝を診察し、

「不躾で申し訳ありませんが、これから先の謁見は控えめになさった方がよろしいのでは?」

と初対面の謁見で天皇にこれ以上無理をするな。と僭越ながら申し上げたのである。


「こいつ、一目で朕の体調を当ててしまったぞ!見ろ薬子、これがこの国随一の医師の見立てだ」


と平城帝は背後に控えていた尚侍、薬子に向かって愉快そうに声を立てて笑ってから、

「よい、広世。本日の謁見はここまでにする」

と素直に臣下の言葉を聞き入れたのであった。


さて、薬子の案内で天皇の休憩室である部屋に通された広世は、堅苦しい正装を解いて診察着である白衣に着替えるよう命じられた。

薬子がぽん、と手を打ち女官たちに持ってこさせたものは薬箱、秤、すり鉢など全て医術に使う道具。


「お初にお目に掛かります。尚侍、藤原薬子でございます」と改めて広世の目の前で丁重な挨拶をした薬子は薄化粧の顔を上げた。


確か年は40過ぎている筈だが、こんなに肌の肌理きめが細かく美しい女人を初めて見た。と広世は思った。


「私はお父上の清麻呂どのを見知っております。亡き父種継のご同僚で、切れ者と評価される優秀なお方でしたが…

心が芯から冷える程冷たい目をなさっておいででした。

あなたはお顔立ちはお父上に似てらっしゃるけど優しい目をしているのね」


と言って薬子は目を細めて笑った。無邪気な少女のような笑みに広世は思わず見とれそうになる、が、6年前の醜聞のことを思い出し、


魅かれるな、広世。

この女は東宮と帝の評判を汚した張本人だ。と自分に言い聞かせた。


「帝がお着きになるまで私の方からお話しなければなりません…実は、ご即位以来帝はお体を一切、内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんしたちに触らせないので私ども側近もほとほと困っております」


内供奉十禅師、それは常に天皇のお側に侍り国家護持の祈りと天皇の体調管理を任された選ばれし10人の僧官。彼らの進言は時に臣下より重く用いられ、


僧衣の佞臣ども。


と貴族たちに揶揄されている集団でもある。


先帝桓武帝も最澄を寵するあまり内供奉十禅師に任じ、常に側に置こうとしたぐらい最側近である僧官たちに体を触らせない天皇など前代未聞だ。

という異常事態を薬子は打ち明けたのだ。


「その者たちに体を触らせない、ですと?帝は、その」


とこれ以上言及すると失礼にあたるのではないか?ど口ごもる広世の心理が読めるように薬子は話を継いだ。


「はい、帝は式部郷葛野麻呂のりのつかさかどのまろさまと、参議の緒継さまと、尚侍の私しか信じておりません…


当然十禅師たちも帝のなさりように不満を持ち、東大寺の権別当さまの元へ苦情の文を送る始末」


東大寺だと?


「ちょっとお待ち下さい尚侍どの!東大寺権別当さまは」


そうです。と薬子は真剣な顔で頷き、


「権別当、実忠さまは悲田院、施薬院で修行をお積みになられたこの国で最も信用の出来る医僧…

その実忠さまが十禅師の苦情をお聞きになり


『ならば拙僧が唯一才能を認めた愛弟子、和気広世をお傍に付けるがよろしかろう』

とあなたを侍医に付けることを進言なされたのです」


なんと、自分の叙爵は我が師実忠さまの進言であったか!


貴族家の跡取りに生まれたのなら、一度は政治と言う苦い胆を舐めて苦労するべきだな。


政治から逃げて生きるだなんて世間が許すもんかね。


と、広世の心の中で医術の師、実忠がそう言ってぐすりと青い目を歪めて笑った。


実忠さま。とうとう私を千尋の谷に突き落としなすったのですね…


解りました、この広世今より、貴族となりて帝をお守り申し上げます。


そう決意した広世の顔つきの変化を見逃さなかった薬子は、


肚を決めた貴族の男はみんな冷たい目つきをするのよね。

と醒めた気持ちで広世を見、やっぱりお父上にそっくり。

と高く尖った鼻や細い顎など清麻呂と広世の類似点を探している内に平服にお着替えになった平城帝が部屋に入り、早速脇息にもたれてから、


「さあ広世、早速朕の体を診てもらおうか?なに人払いは済ませてある故遠慮なく朕の体に触れ」


と言って広世を近づけた。


「では、ご遠慮なく」


とまずは顔や白目や舌の色を診る視診、

手首を取って心の臓の動きを診る脈診、


それから上半身裸になってもらい仰向けにして腹部を押し内蔵の働きを診る触診をひととおり終えた結果、

平城帝のお体のある病状に気づいた。


「失礼ながらお聞きしますが、帝、あなた様は激しく動いたり感情が昂ったりするとすぐ動悸や息切れを起こす体質だったのではございませぬか?

それも最近ではなく10年以上前から」


「当たりだ。そこまで診断出来た者はおまえが初めてだ」

と言って平城帝はくっくっ、と顔を歪めて笑った。


まさか…帝はご自分の心の臓の病に気づかれておいでで、それを隠すために東宮に引きこもっておいでだったのか?


「陰陽師というのはみんな嘘つきばかりの役立たずだな、広世。あいつら、朕の病の原因をすべて叔父の早良親王の怨霊のせいにしおった…

確かに朕には物事が思い通りにならぬと我慢がならず人に当たる性質ではある。


なれど心の病の発作は、全て朕の芝居だ。

そうでもせぬと胸の病が周りに知られ、朕を疎んでいた父などは喜んで朕に一服盛って始末したかもな」


まさか、実の父と息子でそこまで疑い合ってきたとは!


皇子に生まれるという事はかようにも過酷な人生を強いられ、それを納得して病の身で日の本を背負われる帝のお覚悟に、広世は強い感銘を受けた。


「常に朕の傍に侍り、朕が天皇としての任を遂行できるよう助けてくれぬか?」


「は…身命を賭してこの広世、おつとめ致しまする」


と平伏しながら人の噂とは当てにならぬものだな、帝は暗愚などではなくこうして病を隠して20年以上も周りを欺いて生き延びて来られたのだから、


むしろご聡明なお方であるよ。

この瞬間から広世は天皇の侍医となった。


「優秀で嘘を吐かぬ典医がひとりいるだけでこうも心強くなるものか。

…父が雇うた高禄食みの十禅師ども、隙を見せたら追い出してやろうかな?」


と平城帝が放った冗談に広世は、

親友で桓武帝が任じた十禅師の一人である最澄の身の危険を感じた。


間もなくその予感は最悪の形で的中するのである。


「あの3年間は、一瞬とも気が抜けず、

人生で一番わが心を消耗した時期であった。宮中の闇の底の底まで見尽くし、つくづく私は政治に向いていないと思い知らされたのだ…」


と後に広世は、比叡山寺で最澄にだけその事を語ったのである。



















































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