第50話 春宮神野

私が結婚した殿方は、ずいぶん早くお歩きになること。


裳裾が脚にもつれてまろびそうだっていうのに。この方のこういう所は許嫁いいなずけとして出会った14年前からちっとも変ってらっしゃらない。


もうふた部屋以上は歩いただろうか?

「お前に見せたいものがあるんだ」と目を閉じさせられて夫に手を引かれていた皇女、高津内親王こうづないしんのうは、


「お兄さま…いえ春宮さま、まだなの?」と焦れて声を上げた。


「あと十歩で終わるから、そう、そこに立ってまだ目を閉じていて」と春宮さまの御手が両のまぶたを覆う生暖かい感触。

「高津、目を開けていいよ」

と宮女たちに命じて合図通りに巻き上げられた御簾の向こうには、神野が東宮の中庭に作らせた立体の絵画が広がっていた。

緑の芝の上に富士の山と湖畔を思わせる勾配がなだらかな円錐形の岩と小さな湖。湖の周りにはかきつばたやあやめが涼しげな紫色の花弁を開かせて佇んでいる。


「なんて美しいの…春宮さま、嬉しい!」と高津は目を瞠り、両手を合わせて喜んだので神野は「良かった」と正妻の両肩に背後から手を置いて一緒に春の終わりの庭園の眺めを楽しんだ。


まあ…高津さまの晴れ晴れとお顔を見るのはひさかたぶり。と夫婦の背後に控えて涙ぐむのは、命婦の三善高子。


坂上田村麻呂の正妻である彼女は、夫の妹で高津内親王の母の坂上又子さかのうえのまたこが25の若さで病死したため桓武帝の命でまだ5才だった高津内親王のお世話係として宮中に入った。


高子にとって高津は義理の姪であり、もう10年以上もお仕えしている実の娘以上の存在なのである。


「それに、このお花の刺繍もすてき、貴命は手先が器用ね」


と高津は袖の内側の隠し刺繍の芍薬にそっと指を触れ、傍らに控える百済王貴命くだらのこにしききみょうを振り返ってその裁縫の腕を褒めた。


「まことにありがたきしあわせ…」


と畏まって頭を下げる華やかな顔つきの美女、貴命は高津のお気に入りの侍女で春宮神野の10人以上いるお手付きの宮女の一人。


高津よりも早く神野のお手付きになったので、ここ東宮の侍女たちの「先輩」として一目置かれる存在になっていた。


「女たちの引っ越しは済んだか?」


と神野が貴命に尋ねると「はい、全ての女人たちが東宮に入りました」と簡潔な答えをする。


報告の時も余計な事を言わず、相手に気を遣わせない。神野も高津も、貴命の優秀な仕事ぶりを認めていた。


「東宮は、広い」

と言いながら神野は腕組みしてずいぶん広々とした部屋を与えられたものよ。


と今自分が置かれている立場をあまり気負わずに受け止めていた。


彼も明日の即位式に伴う立太弟の式典を前にここ内裏(皇居)の東に位置する東宮(皇太子の住居)への引っ越し、立太弟の時のこまごまとしたしきたりを覚えるため忙しい日々を送っていた。


だからこうやって、日ごろあまり会話をしない正妻の高津と作庭を楽しみ、ゆとりを持っていないと春宮なんてやってられないよ。と神野は思うのだった。


「ほんと、東宮は広すぎるわね…引っ越し早々、道に迷う宮女がいなきゃいいんだけど」とこの19才の若い春宮妃は美しい花の刺繍の付いた袖で口元を覆って笑った。


高津の予想通り東宮で迷いかけた女人が、実はいたのだ。

「ほらほら嘉智子さま、そこじゃないですよ!」

と明鏡に袖を引かれて自分の部屋まで辿り着くまで神野の寵姫、橘嘉智子たちばなのかちこは3度も順路を間違えそうになった。


「どうしましょう明鏡ちゃん…あたくし、なんだか怖いわ…」


与えられた部屋が皇太子の側室が住む格上の部屋だったため、嘉智子は畏れ多いわ、と呟きながらぽつねん、と隅に荷物が置かれた部屋の中央で細かく震えてうずくまっていた。


やっぱりわたくしは、とんでもないお家に嫁してしまったのね…


とかちかち歯を鳴らす嘉智子の背中をばん!と叩き、

「あなたは春宮さまの寵姫なんですよっ!もっとご自分に自信をお持ちになって」

と叱咤するのは17才の明鏡。


嘉智子は神野の立太弟に伴い、宮中の一侍女から皇太弟の側室へと立場が上がり、そして明鏡は、嘉智子づきの侍女となった。


「さあさあ、衣服をゆるめて横になっておくつろぎ下さい嘉智子さま。お荷物の整理はぜんぶ私がやっておきますから…って、お荷物これだけなんですか?」


と東宮に引っ越し早々、主人に対して失礼な口を叩く明鏡である。


「ええ、宮中に入った時のお道具のほとんどは、遠い親戚の右大臣さまからの借り物だったの。橘家にはお金が無かったからその文箱と、お厨子と鏡台だけがわたくしの荷物、やっぱり恥ずかしい?」


右大臣とはつい先日病で薨去した神王みわおうに代わってその職に就いた北家の藤原内麻呂。


桓武帝が神野の妻にと嘉智子の入侍をお求めになった時、橘家は経済的に困窮していて結婚のための道具を揃えることも出来なかった。


そのため、皇族美努王こうぞくみぬおうの曾孫で橘家と先祖を同じくする藤原内麻呂が嘉智子の後見を買って出て道具の貸借や実家の橘家の援助などを行い、橘家は随分北家に借財をした。


そう、借財の担保は嘉智子自身。


初見で嘉智子の美しさを認めた内麻呂が嘉智子の後宮での出世を期待して行った、北家隆興のための投資なのである。


い、いえいえ滅相も無い!と明鏡は首を振り


「ただ、春宮さまがしょっちゅうお立ち寄りになる部屋にしては景観が寂しいかと」


と失礼が無いようにちら、と素早く部屋を見回していると「失礼します」と部屋に来たのは命婦の三善高子。


「橘のご実家より調度品一式が贈られてございます。このままお運び入れしてよろしいでしょうか?」


え?と嘉智子は顔を上げた。実家の兄たちからだろうか?いえ、まだ五位にもなっていないのにそのような財は…


「実は、藤原南家に嫁した御姉君、橘安子さまからの贈り物でございまして」


と高子は言い添えて、姉からの手紙を盆にのせて嘉智子に差し出し、嘉智子がうなずいてから手紙を受け取ると、高子は背後の舎人たちに指示して荷物を全部嘉智子の部屋の中に運ばせた。

嘉智子は戸惑いながらもそれはそこに、と指示して家具を置かせて、短い間にほとんど物が無かった部屋は、たちまち豪華な飾りがついた家具調度品で埋め尽くされた。


それでは、と高子たちが下がった後で嘉智子は姉からの手紙を開いた。


妹、嘉智子さまへ。

15の若さで宮中に入り親王様の元に嫁す、というあなた様の身の上を婚家で聞いた時、私は心配でなりませんでした。


ほとんど閉じこもりきりで生きて来られたあなたが色々としきたり難しい宮中でうまく立ち回れるはずがない、と毎日気をもんでいました。

なれど、深い御寵愛の噂を度々夫、三守さまから聞いて安堵いたしました。この度は夫君である親王様の立太子、誠におめでとうございます。


ずいぶん多い荷物で驚くでしょうがこれは私と婚家の藤原南家からの贈り物です。もうあなたの物なのだから気兼ねなく使って下さい。


南家 藤原三守室 橘安子


「お姉さま…」懐かしい字を一字ずつ追う嘉智子の眼には涙が溢れていた。


父上の遺言ひとつで一室に閉じ込められて育ったわたくしを唯一励ましてくれたお姉さま。


「観音様にお祈りしなさい。そうすれば何もかもいい方へ行くわよ」


と母、田口媛に頼んで曽祖父諸兄の代から伝わる観音立像が納められたお厨子を自室に運ばせてくれた。


「縋るものがなければ、嘉智子は早まって何をするか分かりませんよ」

と嘉智子の知らない所で姉が母を半ば脅しつけてやらせたことだと、かなり後になってから知った。


わたくしはしもやけになった両手を合わせて毎日観音様に拝みました。15で宮中に入侍が決まってやっと外に出る事を許され、結婚した神野さまはこの上なくお優しい殿方。


何もかも、観音菩薩のお救いがあったからこそ…


嘉智子は文を折りたたんでお厨子の観音像に供えてから随分と長い間橘家を守って来た百済渡りの小さな像に向かって拝んだ。


信心深過ぎて嘉智子さまは変わり者、と口さがない侍女たちが噂するけど(その度に私は言った娘をきつく叱って黙らせてやるんだけど)


逆臣の孫として生まれて不遇過ぎる扱いを受けて育って来られた嘉智子さまは、仏道に縋っていないと辛くて辛くてとても生きて来られなかったのだ。とお世話をするようになってから早や5年。


明鏡は嘉智子の信心を理解するようになっていたし、それを容認する神野にも深く感謝して主人の後ろで一緒に手を合わせるようになっていた。



大同元年5月18日(806年即位6月8日)平城帝、即位。


聖武帝の御代から伝わる赤地の上衣には日月星、辰、大龍、小龍、山、錐子きじ、焔、宗舞そうい(虎と猿)の 八種。

裳には藻、粉米ふんぺい(斧)、ふつ(己れの文字が向かい合わせ)の4種、合計12種 の文様の豪奢な冕服べんぷくを身に纏い、


黒漆の冠の上に漆羅の方形の天井を張り、そ の周り四方よ り玉の垂れ飾りをつけ、前面の上部に光を放つ太陽の形を立て、五山冠の中央には火焔の形が立てられた冕冠を頭上に乗せた新帝、平城帝が高御座たかみくらにお立ちになり、初めて臣下に威厳のあるお姿を見せた。


その時ばかりは祝賀に参列した貴族たちも、やはり、お血筋のなせる業か。と感嘆せずにはいられなかった。


続いて、神野親王立太弟の式典には獅子が向かい合う形の刺繍を施した濃い紅色と白の蛮絵装束を身に付け、太刀を差した4人の舞い手による舞楽「春庭楽」を二回繰り返して舞う「春庭花しゅんでいか」が舞われ、これを心待ちにしていた神野、大いに舞楽を愉しんだ。


「ねえねえ、あの笛の音は春宮さま御自らお吹きになられてない?」


と高津内親王が貴命の袖を引いた。もう辺りは暗くなり、祝宴もたけなわ、といったところである。


「本当ですわね!あの勢いのある音色は春宮さま。疲れが吹き飛ぶような調べですわ…」


「ほら、やっぱり疲れてたじゃない。おめでたい夜なんだからもう休みなさい」とふふ、と声を立てて高津は笑い、

「高子以外はもうお下がり」

と先帝崩御から休みなく立ち働いてきた侍女たちを労った。


は、と侍女たちが高津の元を下がろうとした時である。一人の貴族の青年が三善高子に言伝をしに訪れた。


神野の異母兄で兄帝即位に伴い、衛士大尉(近衛兵の士官)に任ぜられた良岑安世よしみねのやすよである。


「突然のご訪問お許しください。実は、春宮さまより東宮に仕える女人がたに馳走と御酒を振る舞いたい、との仰せでこうやって使者としてつかまつりました」


と膳の入った駕籠が五台、十人の舎人に担がれて中からいい匂いをさせている。


まあ…普通、女にはご馳走は回ってこないものなのに、春宮さまったら。


「もう出来上がったものなんだから有り難く頂きましょうよ。春宮さまったら、私たちを驚かせるためにこっそり帝にお願いして膳部に作らせたのよ」


と言って高津は膳を全ての女人に行き渡らせるためにさらに侍女たちを呼びつけた。


「そうだ、貴命。嘉智子と高子を呼んで一緒に楽の音を楽しみましょうよ」


という高津の思いつきで、神野の側室になった橘嘉智子と多治比高子が呼ばれ、

「貴命も明鏡も一緒にいなさい。私たちは長く神野さまにお仕えしてきた女たち。内輪で楽しんじゃいましょう」


とこの気さくな皇女は女だけでの気楽な宴を開き、「ほらほら、いいお酒があるんだから高子も遠慮なく飲みなさい」と伯母の三善高子が意外にも酒好きだということをばらしたのである。


夜空を突き抜けるような龍笛の音が響く中、東宮ではうふふ、と笑い合う女たちの密やかなお喋りがこの夜遅くまで続いた。


それは梅雨いり前の、平安京の穏やかな天候の頃であった。



































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