第52話 謀

ねえねえ、最近春宮さまはご機嫌斜めのようね。


え?春宮になられてご住居も広くなられて大好きなご入浴の回数が増えてもですか?


えーえ、それはそうなんだけど…


肌がひりひりするほど熱い蒸気の中でもとどりを解いて髪を下ろして大量の汗と共に全身の垢が浮き出るのを待つ。

熱で体中の毛穴が開き、羽織っている麻の単衣(浴衣)汗でじっとりと重くなる。仕上げに入浴係の若者二人が交互に桶の水をかけて洗い流してくれる。

この瞬間が東宮での窮屈な生活の中で神野がいちばん、


解放された。と思う時なのであった。


この時代、皇族貴族などの高貴な方々にとって入浴とは、日ごろの邪気を取り払うためのみそぎの儀式であり、いくら神野が皇太子といっても吉日しか湯殿に入る事は許されず、故に月に四、五回ぐらいしか髪と体を洗えない。


きょうはちょっと働いただけで汗が滴り落ちる程の夏日。


ご入浴なさった春宮さまはさぞかしお体もお気持ちもさっぱりして上機嫌であらせられることでしょう…と思いきや、


「あのごつごつした手と遠慮の無い力加減、いちいち男どもに触られるだけで私は不機嫌になるのだ。やっぱり柔らかい肌を持ついい匂いのする女人の方がいいっ!」


と嘉智子の太腿に顔を埋めて泣き出すのはこの国の皇太子、神野親王で、


「だからといって入浴係を女人に変えろとでも?

無理です春宮さま。皇太子の身の回りのお世話をするのは春宮坊の若者たちとしきたりで決まっているのですから。いい年した大人がそんな我儘を言うんじゃありません」


と主人を叱りつけたのは嘉智子づきの侍女、明鏡であった。

だって…と嘉智子に頬を撫でられながら抗弁しようとする神野に明鏡は


「いいですか?

春宮坊の役割は次代の天皇のお世話と教育と…護衛という重要なもの。

だから、身元確かで教養があって、武力に秀でた若者たちが神野さまのお世話をするのですよ。

それに最側近の春宮坊は神野さまご自身で選抜なさったじゃありませんか?


いつだって三守さま冬嗣さまなど心やすい殿方をお傍に呼ぶことが出来るんですよ。


ほんっと、いーいご身分ですわねー…」


と相手がぐうの音も出ない位に正論と嫌味を言い返して「次代の天皇」を黙らせた明鏡は「じゃあ私は雑用がありますので」と言ってさっさと部屋から出て行ってしまった。


「なんで私は口げんかで一度も明鏡に勝てぬのだ!?嘉智子」

と悔しがって妻の裳裾の太腿の上に顔を埋める夫に嘉智子は


「明鏡ちゃんは一度も間違ったことは言ってませんから」と何の邪気も無く答えた。


「嘉智子」

「はい、春宮さま」

「お前は兄弟とは親しいか?」

「兄たちとはほとんど顔を合わせぬまま宮中に入りましたが、藤原三守どのに嫁した姉上とは頻繁に文のやり取りをしています」


「そうか、羨ましいな」

「え?」


「私が兄帝のお顔をまともに見たのは、父桓武帝の危篤の時であったよ…なぜか幼い頃から私たち兄弟はお互い近づかぬように育てられた。

同じ母から生まれた兄弟なのにな。


父上にどんなご意向があったのか?崩御なされた今ではもう聞くことも出来ない」


「そんな…両親を同じくする兄弟なのに、ですか?」


嘉智子は驚いた。結婚の形が一夫多妻であるこの時代、一緒に育てられた同母兄弟の絆は強いものだ。と嘉智子は思っていたのだが。


「皇族とはそういうものだよ」


と言ったきり神野は嘉智子の膝の上で眠り込んでしまったので嘉智子は夫の真意を聞けずじまいになった。


兄帝が本当はどういう御方か分からない。


というのが神野が初めて兄平城帝と会話した時の印象であり、腑に落ちぬ点でもあった。


「もう50年前のことだ。父が若き頃、皇族というのは藤原氏にとっては血筋がいいだけの権威の盾でしかなく、皇統として役立つ人間以外は皆、犬でも殺すかの如く粛清されていた時代だったそうな。皇族は絶滅寸前だったと…」


「はい、その話は右大臣神王うだいじんみわおうから繰り返し聞かされてきました」


「お前もか?」

と聞いた兄はそこで初めてお顔をほころばせて


「東宮で朕を人として尊重してくれたのは、参議の葛野麻呂と、父の従兄弟の神王だけだったよ。


神王は朕の手を取り


『いいですか?安殿さまの五体には偉大なる天智帝の血と、その第六皇子で一切政争には関わらぬ、と誓った志貴皇子さまの血が流れているのです。誰が何と言おうと誇るべきです』

と言い聞かせてくれた…志貴皇子の子孫である我々が生き残ったからいま天皇家はあるのだ、ともな」


いつまでも東宮に引きこもりの暗愚な皇子。


即位なさったら碌なことにはならない。


と貴族たちは噂していたが、噂流言の類は本当に当てにならないな。と神野はほとんど初対面の兄に対して、

兄上は決して暗愚ではない。むしろ父上よりも強くご自分の天皇としての立場を、自覚なさっているお方だ。

と神野は「私たちは同じ母を持つ兄弟、こうして手を取って問題山積の内政を整えて行こう」と兄帝に優しく手を握られながら思った。


しかし、心の何処かで兄上を信じきってはいけない。という危惧を同時に抱いたのも事実である。


その様子を傍で見ていた冬嗣から

「帝はご自分が弱い人間と解っていらっしゃる故『人たらし』を武器にしようとなさっているのが見え見えですね。あなたは次の天皇だからこそたらされてはなりませぬぞ」と後で忠告されたので神野は


「では、人は何によって人の虜になると思う?」と冬嗣に問うと即座に


「甘い言葉、丁重なもてなし、そして施しですね」と答えが返り、


さらに

「力の弱い民は施しを受けたら一生恩に着るという習性があります」

と重ねて付け加えたので

「何が言いたい?冬嗣」と問うと、


「施しとは、安い経費で人を虜にする最上の手段だ、ということです」


と涼しく笑って冬嗣は答えた。


兄帝の危険性を告げるとともに朝廷が仏教勢力を利用してきた本当の理由を端的な言葉で伝えた冬嗣はとはとんでもない切れ者であるよ。

だが、自分より能力が無い、利用価値がないと思った人間に対してはどう出るのかな?


「私がこの世で最も信用できる義理の兄でございます」と三守が推薦したので北家の藤原冬嗣を春宮坊に任じて傍に付け、彼が大判事として行ってきた仕事の内容や今の政への意見を聞くにつけ、


百年近く前に制定された律令自体が、今の世の現状とは合わないものになってきている。律令改正を急ぐべきだ。と強く思うのだが…今の自分は律令どころか東宮のしきたり一つ変えられないではないか。


律令を変えられるのは、天皇に即位して詔を出してからだ。自分はいつになったら即位できるのか?


と最愛の女人の膝でまどろみながらも頭の中は政治の事で思考が止まらない神野であった。


春宮さまは今日はお休みのようね…

と御簾の外から様子を窺っていた明鏡が休憩部屋に行くために廊下を渡ろうとすると、前を歩きながら文を見ている貴命のうしろ姿があった。


高く結い上げた一髷に簪二本を差した豊かな黒髪、少しうつむいた睫毛の長い横顔に何か不安なものを感じ取った明鏡は、


「何かございましたか?」とつとめて穏やかな口調で貴命に背後から声を掛ける。

驚いて振り返った貴命は相手が明鏡だと解るとなんだ…とほっとした表情になって「ねえ、次の春宮さまの吉日は確か七日後でしたわね?」といきなり尋ねた。


「はい、そうですが」と答えた明鏡に彼女は黙って持っていた文を差し出した。

文は貴命の兄で陸奥鎮守将軍の教俊きょうしゅんから送られたもので、その内容はというと…

今度の吉日に我が娘を春宮さまに差し上げるので、叔母であるお前によろしく頼む、という内容であった。


「では、姪御さまが七日後に東宮にいらっしゃるのですか?」

「そういうこと」と貴命は鷹揚にうなずいて「年は十四になるからあまり世話はかからないと思うわ。名は慶命きょうみょうというの。ま、よろしくね」と軽く明鏡の肩を叩いた。


「貴命さまの姪御さまだからさぞかし華やかな美人なんでしょうね」

と文を折りたたんで貴命に返しながら明鏡が言うと貴命はこの子は…とでも言うように大仰にため息をついて

「あんたほど自分の美しさに無頓着な娘はいない。そろそろ気を付けなさいよ」と今度はばん!と明鏡の背中を叩いてから先に機織り部屋に戻って行った。


はて、自分の美しさとは?と首をひねりながらも明鏡は

そうか、神野さまが春宮になられたんだから貴族家がこぞってお妃に、と娘を差し出すのは当然のことよね。


嘉智子さまが近い将来他の妃と寵を争うことになるとは…と休憩部屋で好物の瓜をかじりながら考えた。


後宮争いなんて、あのお方には一番向いていない事なのに。



この日の夕方は西日が邸に当たり、高貴な男たちが苛々してまうくらいの暑さであった。


「まったく帝の人を見る目の無さにはほとほと呆れ果てたぞ。仲成なかなりのごときどこにも使いようがない『くず』を右衛門督に任じ重用なさるとはな!」


と同じ北家の参議、葛野麻呂に毒づくのは単衣に袴姿でくつろぐ右大臣、藤原内麻呂。いつも蝋燭のような白い顔が怒りと暑さで赤くなっている。


「しかし内麻呂どの、仲成は出雲、越後、山城、大宰、大和、伊勢といくつも地方任官を重ねてようやく宮中に参内できる身になったのですぞ。式家藤原種継の長男と血筋も確かで、尚侍の実兄なのですからその人事は当然かと」


と、ぬるい酒を口に付けながら葛野麻呂が意見すると内麻呂は目線を上げて葛野麻呂の顔を見据え、


「おまえ、解っててわざと我に意見しおるな」

と急に意地の悪い笑みを浮かべた。


「仲成のやつが長年地方任官を繰り返してきたのは、低能過ぎて素行も最悪だから先帝がわざと中央に呼ばなかったのだ。

…いや、やはり種継の息子だから後ろめたさもあったのかな?」


「私もそのように思います」と言い置いてから葛野麻呂は杯を置き、

「何者かに暗殺された種継の遺児が兄妹そろって帝に侍るようになった…

薬子は色を使うことしか能の無い女で、仲成は何処とも使いようがない屑、じきに専横するのが目に見えております。式家も人材が尽きましたね」


脱いでもよろしいですか?と邸のあるじに断ってから葛野麻呂も汗を吸った衣を脱いで内麻呂と同じ格好になった。


まったくだ、と内麻呂はうなずき

「式家で使えるのは参議の緒嗣と大和守の縄主しかいなかったのに、帝は妻を奪うために縄主を太宰府に左遷してしまった。帝は六年前の不祥事をちっとも悪いと思っていない。むしろ問題の女を呼び戻して地位を与えて佞臣どもを集めなさる一方…頭が痛いわ」と苦い顔をした。


「式家も終わる時が来たんじゃありませんか?」


と葛野麻呂がにべもなく言ったので内麻呂ははっと顔を上げた。彼は、薬子と葛野麻呂が肉体関係であったことをもちろん知っていた。

「情を通じていた女にようもそこまで言えたもんだな…」と内麻呂は呆れたが、


「至尊の地位にあるあのぼうやを喜ばせる閨事は仕込みましたが、私はあの女には一片の情も寄せてはいませんよ?」


その言葉で内麻呂はようやく葛野麻呂の真意を汲み取り、ふ…ふははは!と肚の底から笑い声を上げた。


ひとしきり笑ってから

「お前は我よりも恐ろしい男だな。解った。この内麻呂いま決めたぞ。北家一丸となって力を合わせようではないか。我は何をすればよい?」


との右大臣内麻呂の申し出に

「なに簡単なことです」と一言意見を述べてから今度来る時は氷で冷やした酒を所望してから葛野麻呂は夜遅くに内麻呂邸を辞した。


北家内麻呂の長男、真夏と次男、冬嗣が揃って呼び出され、起こされたのは真夜中で熟睡していた時だった。


腫れぼったい顔を見合わせた兄弟は父上のこのような刻限での呼び出しとは余程のことだろうな、と思い程なく父内麻呂が夜着のまま現れ、兄弟は揃って畏まった。


「真夏、冬嗣。かかる夜分に呼び出して済まない。しかしこれから北家全員で事にかからねばならない一大事と心得よ…今度の吉日、我が娘の緒夏おなつを春宮さまに差し上げる!」


いよいよ北家も後宮に姫を送り出す時が来たか!

せがれ達の目つきが鋭くなるのを確認した内麻呂は、

冬嗣に比べて真夏は心優しく覇気が足りぬ、と不甲斐なく思うておったが…やはりこの子達に藤原の血が流れておったか!と思うと愉快でならなかった。


帝の妃、朝原内親王さまと尚侍薬子に不和あり。


との情報が命婦の三善高子から明鏡にもたらされたのは、春宮神野が新しい妃ふたりを娶る前夜のこと。


「…それで、どのような事があったのです?」

朝原さまを怒らせるとはあの式家の女、どんな失態をしでかしたのか?

東宮宣旨の職にあった時もあの女の仕事ぶりは優秀だった。

娘婿である安殿さまと通じた以外は。

と明鏡は元東宮の宮女たちから聞いていたので意外な気持ちで高子の話に耳を傾けた。


「子細はこうです」


自分の杯に酒が注がれた時、朝原内親王はそれが毒入りだ、とすぐに見破った。

13年間斎王として伊勢神宮に住まうていた朝原には、常人には見えないものが見え、人の運命の行く先が解る、強い霊力が備わっていた。


「だって、薬子自ら酌してくれたお酒が、私には墨汁みたいに真っ黒に見えたんですもの」


それは、平成帝が妃たちを集め親睦を深めようと開いた宴席での事だった。


それは分かりやすく言えば一番位の高い妃である朝原に、平成帝の愛人薬子が一服盛ろうとして見破られた。そういう大事である。


黒い酒で満たされた杯を見つめながら朝原は、いまここでこの女を咎めてはお兄様は逆上して裏目に出るわね、と状況を冷静に考え…

「私はお酒は好きなのですけど、今宵は潔斎に入っているので飲めないの。だから、薬子あなたがお飲みなさい」とそのまま薬子に杯を渡しただけである。


やはり朝原さまの霊力は本物だったか!と自分の黒い謀を見破られた薬子は…


「どうした?薬子」とお側にいた平城帝がいぶかしがる程狼狽した。


「飲みなさいよ」

朝原は落ち着き払った態度で薬子に毒酒を勧める。杯から酒がこぼれる程に薬子はがたがた震え、しまいにはあ…と声をあげて杯を取り落としてしまった。


その酒が朝原内親王の裳裾を汚してしまったので

「なんという不始末なの!気分が悪しゅうなりましたわ。行きましょう大宅」

とその場で妹の大宅内親王を連れて宴席を立ち去り、それ以来後宮の自室に引きこもったままである…


「立ち去る時に

『もし後宮の女たちに何かがあれば、尚侍の不始末として責任を取って貰いますからね』


と薬子に釘を刺しておいたけど、私の一言で後宮の全てを守りきれる訳ではない…まずは東宮の神野を守らなければ」


と朝原内親王は三善高子に命じて神野に一番近い侍女である明鏡に危険を知らせたのだ。


「では、侍女、春宮坊の中から式家寄りの者を洗い出してそれとなく神野さまから遠ざけなくては、ですね。お任せ下さい」

言って明鏡はぎゅっと片目をつぶってみせた。


「ええ、今夜の内に東宮にいる者すべての身元を洗い出すから」

と高子は優秀な侍女に育ったわね。

と自ら教育した少女を頼もしく見つめ、では、と神野と嘉智子が共寝する部屋の前から辞した。


「朝原の姉上に一服盛ろうとするとは…大胆過ぎる女だね」


と背後から神野の声が聞こえたので明鏡は「起きてらっしゃったのですか!?」と嘉智子を起こさぬように声をひそめて御簾ごしに神野に話しかけた。


「父上がいつも言っていた…『佞臣は全ての悪政の元だ』と。兄上はそうと気づかずに佞臣を集めていらっしゃるようだ」


「でも和気の広世さまは佞臣ではありませんよ」


「うん、あの者は望まず宮仕えになり、医僧の代わりをさせられているだけだ。可哀想に」

神野と明鏡は御簾越しに背中合わせになって座り、互いの体温を背で感じながら会話した。

「また…誰かが狙われるのでしょうか?」

「そうだろうね」

「またそんなお気楽な!」

と明鏡が眉を跳ね上げるといきなり御簾の下から神野に手を握られ、明鏡は一瞬たじろいだ。


殿方と手を繋ぐ。それは明鏡にとって生まれて初めての体験だった…

「どうした?やけに汗ばんでいるぞ」自分の胸の鼓動が頭の中でとくとくと鳴り響く。

指をからめてくる神野に何故か抗えない自分が不思議でならない。


御簾の向こうから出てきた神野に抱き締められても唇を吸われても力が抜けて愛撫される心地よさにされるがままになった。


「私が一番好きなのは…」熱い吐息混じりに言おうとする明鏡を

「分かってる」とその花びらのような唇を吸って神野は嘉智子が熟睡している横の帳の裏に明鏡を抱いたまま引き入れ膨らんだ乳房に顔を埋めた。


私、今夜どうしちゃったんだろう?

と戸惑いながら神野を受け入れている明鏡は神野の身体から漂う香の匂いと初めての体の感覚に陶然となり、やがて頭の中いっぱいに夜空の星が弾けた。


好きです神野さま…

気を失う直前に呟いた明鏡の言葉に、

「ずっと前からわかってた」

と神野は律儀に答えた。



























































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