第36話 葛野麻呂謁見

何度も襲い来る嵐と波に揉まれながら葛野麻呂かどのまろは何度も気を失い、その間切れ切れに夢を見た。


我が袖からするりと抜けた小鳥が晴れた蒼海の向こうに飛び去っていくのを「明鏡!」と手を伸ばして追いかけようとするが、船の舳先から自分は降りる事が出来ないのだ。


何度叫んでも声が出ず、小鳥が視界から消えてそこで夢から醒めた。


明鏡。私が最も愛した女、明慶との間に生まれた愛しい姫よ…父は一時たりともお前を忘れた事が無いぞ。


尚侍明信ないしのかみみょうしんはかりごとによってお前が宮中に連れ去られたと知った時、私が愛した女は皇女だったのか!と初めて気付いたのだ。


父は何度もお前を返して欲しい、と明信どのに嘆願したがあの女は地に伏す私に向かってにべもなく言い放ったのだ。


「この際はっきり言っておきますけど、母の無いあの子があなたに引き取られても何人もの継母と大勢の異母兄弟たちの中で肩身の狭い思いをするだけ。

藤原家などに可愛いあの子を渡したくはないのが本音よ。

安心なさい、明鏡は私が後見となって立派な宮女に育てます。娘のことは忘れるのよ」


その時、私の中で初めて権門への憎しみが生まれたのだ。下肚から突き上げる赤黒い焔が喉元にせりあげ、私に本音を吐かせた。


「愛する者を忘れるなんて無理に決まっているではないか。明信どの、それはあなたも同じことだ!…何位にまで上がれば娘を返してくれますか?三位の公卿か、それ以上か?」


といきなり問われたあの女は一瞬怯んだ顔をした。可哀想に。帰化して歴史の浅い渡来人家の女は藤原家の男の本質、


欲しいものの為なら誰の血を流してでも手に入れる。という事を知らなかったのだ。


「人妻ながらに帝の寵姫になりおおせた権高き女官よ、今の地位がいつまでも続くわけではないぞ」


「く、口を控えなさい…ここは宮中ですよ。将来あるあなたのために言っているのよ!」


と声をひそめながらあの女は逃げるように立ち去って行った。それから間もなく二十数年ぶりの遣唐使の話が持ち上がり、私を大使にして欲しいと真っ先に名乗りを上げた。


明鏡、私の小鳥。父はお前を取り戻すために海を越えたぞ!


しかし私の心は、大陸に着いて50日を越えてもう挫けそうであるよ…



「大使どのは相当落ち込んでいらっしゃるな」


「無理もないよ、やっと陸に着いたと思ったら赤岸鎮は僻地も僻地、異国の船の対応は出来ない、とお役人に追い返され海岸沿いに福州まで船をやったら海賊の疑いをかけられて

しまいには船ごと監禁されている状態だもんなあ」


「国書と印符があればすぐに下船出来たのに…二の船の副使どのに持たせたから証を持ってないだと!?どれだけ我々は不運なんだよ!」


と留学生たちが爪でぼりぼりと体の垢を掻きながら大使どのを段々冷ややかな目で見るようになった。それもそのはず、大使どのは何度も福州の役人に嘆願書を出していらっしゃるが、


その文章が「悪文悪筆である」という理由で却下され続けていたからだ。


唐ではその人の書いた文章によって相手の人となりを判断する習慣が当然の如くあり、少しでも不備があれば相手にさえしてくれなかった。


もう水も食糧も尽きかけている乗員たちの我慢は限界であったし、船内には剣呑とした空気が流れていた。


「あのう」と身分違いながらものんびりした口調で貴族の子弟である留学生たちに声を掛ける僧侶がいた。


すっかり船上での生活に飽き飽きした留学僧空海である。


「何だ?」と気軽に返事した留学生、名を橘逸勢たちばなのはやなりという。血筋をさかのぼれば皇族という名族橘氏の息子で、従妹に神野親王の寵愛を受けている橘嘉智子がいる。


ことし22才の逸勢は人と話す時は身分の上下を考えない気さくな人柄で、漂流時から気になっていた空海に話しかけられて内心嬉しかったのである。


「失礼ながら修行時代のわが師が申しておりました。大唐帝国は文書の仕上がりに大層厳しく、お役人によっては文字の大小、行の高さが少しでも違っていれば不可とされてしまう。読めればいいというものではないのだ、と」


「お前の師は唐帰りか?」


「へえ…で、僭越ながらあなた様を通して大使さまの文書を拝見させていただきたいんですが」


私が!?と逸勢はあの矜持の高そうな葛野麻呂さまに今話しかけて胸ぐらを掴まれでもしないか、と顔を引き攣らせたが、


その心を読んだかのように空海が「大丈夫です、いま大使さまは何度も文書を突き返されてその矜持が砕けている。好機です」


と逸勢の背中を押した。言われるままに逸勢がうなだれている大使さまにおずおずと話しかけると急に生気を取り戻した葛野麻呂が手招きして空海を傍に寄せた。


「恥を忍んで頼む!私の文章のどこが悪かったか教えてくれないか?」


と手に握りしめていた10枚近くの紙を広げて見せた。


「…なるほど、つまりは私の筆の拙速さが原因ということか」


「文章の内容は伝わっている筈です、が、大使様の心の焦りで筆が乱れているのです。唐のお役人は杓子定規を使って字や行間まで添削する、と聞いております」


所詮、田舎の小国の使節だからと今まで舐められていたのか…なんて意地悪な役人どもだ!と葛野麻呂は紙をぶちまけて叫びたくなったが今ここで落ち着かなければ…と葛野麻呂は深呼吸して怒りを鎮めた。


「そこで、わが師戒明和尚から教わった唐の文書の書き方で書いてみました」と空海は背後に持っていた自筆の文書を恭しく葛野麻呂に差し出した。



う、美しい…。と葛野麻呂と逸勢はその文書の完璧さに思わず見とれてしまった。


「決めたぞ、この文書をそのまま提出するがよいか?空海和尚」


「よしなに」


その後の福州のお役人たちが空海の文書を目にし、手のひらを返したように好意的になったのは言うまでもない。




福州から首都長安に派遣された使者が「藤原葛野麻呂の一行を国賓として礼遇するように」という勅を持ち帰り、やっと海賊から国賓に格上げされた遣唐使団一行が福州を出発し、


約50日かけて首都長安入りし、割り当てられた宿舎に入って旅装を解いてやっと一息ついていた。


「あーあ、死ぬ思いで航海して陸に着いても相手にされず。困難な旅だった…なあ?空海」


となぜか食卓で隣に座っている逸勢が晴れ晴れとした顔で空海に声を掛けた。


「へえ、二の船はさらに都に近い明州に漂着して、たやすく下船を許可されたそうな」


遣唐副使、石川道益いしかわのみちますと最澄、義真の乗った二の船は一の船よりもさらに20日多く漂流したが、漂着した明州での受けが良かったのか役人の審査もすんなり通り、


幸い最澄が目指す天台山も近くにあったため、二の船の一行はとうに宿舎に入っていた。補足すると三の船の乗員たちはは途中大破した船を放棄して脱出し、壊れた舟板を筏がわりにして太宰府まで帰りつく。四の船、消息不明。


「道益どのは完璧主義と言われているほどしっかりしたお方だ。国書と印符を肌身離さず付けていたんだろうよ…しかし、明州で病に伏しておられるとはな」


と逸勢は目の前の茶碗に注がれた琥珀色の液体に目を落とした。


「この薬湯は味がさっぱりして美味いな」


「それ、茶というもんでっせ。食事の時に飲むと胃の腑がさっぱりする、とさっきくりやの料理人から聞いて来ました」


「ほれ見なさい、空海どのは何処へ行っても順応が早い」


と少し掠れた声で言って笑ったのは45才の留学僧、霊仙りょうせん。この時代、もう老境に差し掛かってる霊仙が留学を志願した理由が


「随分前から大日如来さまが夢に出てきてましてなあ、でも何も話しかけてくれんし、日の本では大日如来を調べようにも資料が少ないからええい!なら唐まで行ったろか思いましてなあ」


という随分思い切ったものであった。


「今頃大使さまは唐の宮中で私らより旨いもの召し上がってるんだろうなあ…」


と宿舎で遣唐使たちがぼやいている頃、



貞元20年冬(804年12月23日)


長安城に入った藤原葛野麻呂は大唐帝国12代皇帝、徳宗とくそうへの謁見を果たした。


もうすぐ60半ばだが、覇気に満ちた皇帝は大使葛野麻呂一行がここにたどり着くまでの経緯を聞くと大層同情し、


「随分辛い旅程だったんだな…海路で半分は命を落とし、陸路ではいちいち地方役人の検閲を受けて心身疲れたであろう。

許して遣わす故気の済むまで城内でゆっくりと休むがよい」

と労いの言葉を掛けた。


「私どものような小国の使節に対しての厚遇いたみいります」

と葛野麻呂は拝礼しながら、徳宗皇帝の堂々とした振る舞いや懐の深さにいたく感じ入るところがあった。


やはり国の頂点に立つ御方は健康である方が良い。それに比べて我が国では70前の年寄りが帝位にしがみつき、その跡継ぎは決して暗愚ではないが感情の抑制が効かない性質たちだ。


帰国したらしたで心配の種が尽きないな…とじんわりこめかみが痛くなったが、やがて宮中で歓迎の宴が始まり、豊かな髪を結い上げた美しい宮女の酌で杯に注がれた葡萄酒を飲み干すと、


まあいい、やるべき事はやったのだ。故国の心配は帰ってからの話、と体の力を抜いて堂々と接待を受けることに決めた。


明鏡、父は無事につとめを果たしたぞ…


砂糖と酒に付け込んで焼いた豚肉の塊を両手で持ってかぶりつく葛野麻呂を見て、


「まあ、見事なご健啖ぶり!」と傍らの宮女が艶っぽい笑みを浮かべて美丈夫の遣唐大使にしなだれかかった。



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