遣唐

第35話  船乗り星

よつのふね、


とは四隻の船からなる遣唐使船団の別称である。


住吉大社で航海安全の祈祷を受け、難波津から出発した遣唐使船一の船の乗員たちは途中筑紫に停泊し、数日間地元豪族である宗像一族の歓待を受けた。


久しぶりに船を出てくつろいで座る空海の袖を「ちょっと」と引っ張る者が居た。


振り向くと大きな瞳が印象的な15,6才の娘であった。前髪にかんざしを差しているのでおそらくは宗像氏の頭領家の娘だろうか。


「あたしはタギツ、姉様あねさまがあんたに話があるってさ」夜の事でもあったので周りの留学僧たちは皆疲れて眠ってしまっている。


まさか僧侶の自分に色の誘いはないだろう、と思い空海が磯の香りのする海風の中娘に手を引かれて行った先は、灯りの付いた一番大きな小屋だった。


姉様連れてきたよ、とタギツが空海の手を握りながら部屋の奥に座る女人二人に声を掛けた。


「あたしはタゴリ、タギツの姉」と手前の女人が言った。年は二十歳ぐらいで切れ長の眼をしている。


そして部屋の奥で古びた宝剣を抱いて座っている二十代半ばの女人が顔を上げて、


「あたしはイチキ、宗像一族の頭領さ」と自己紹介した。


空海は「えぇっ!?私たちは確かに昼、頭領どのとお会いしましたが…」とあからさまに驚いた顔で言った。


「見てみな姉様!このお坊さんはいちいち本音が顔に出て面白いよ」と三女のタギツがころころ笑って空海の肩に無邪気に抱き付く。


娘の両乳が押しつけられる感触が気になって仕方がなかった…。


「あれはあたしの夫さ。頭領家に娘ばかり生まれたから長女のあたしが婿を取った。他の氏族もやってることだ。ついでに言うとあたし達全員人妻さ」


と彫りの深い顔立ちの美人だが気性の強そうな宗像の女頭領は「ん!」と妹ににあごをしゃくると慌ててタギツは空海から離れた。


イチキの指示で空海は床に腰を下ろしたが三姉妹に囲まれる形になってどうも落ち着かない。


日頃女人に接していない僧侶にとってそれは息苦しい状況極まりなかった。いい薫りするけど、柔らかそうだけど…なんか切なくて胸苦しくなる!


「で、お話って何でっか?」さっさと話を済ませて帰りたい空海であった。



「あんたたち『よつのふね』の人たちは嵐の多い今の時期に行くなんて本当に馬鹿だよ…


田ノ浦(長崎県平戸)から外海に出たら本当に地獄だよ。乗員の中で本気で命を海に預ける覚悟があるのはあんただけのようだ、と見極めてね、直に話したいけど、


昼日中から女から坊さんに近づくのは人目をはばかる。で、暗くなるのを待ってあんたをここに連れて来た、って訳さ。あんた名前は?」


「空海」


「俗名は?」


「真魚、佐伯真魚といいます」


へえ、と言ってイチキは意味深な笑顔になると急に空海の眉間に自分の親指を押し当て、何やらまじないの言葉らしきものを唱えてから宝剣を構えて空海の顔前で宝剣の切っ先を縦、横、交互に五回ずつ斬った。


「昔から代々伝わる守護のおまじないだよ。姉様が気に入った男の乗る船は絶対沈まないのさ」


と言って初めてタゴリは白い歯を見せて笑った。


「そして船に乗って外海に出たら、必ず南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ、と唱えて船乗り星だけを見て進むんだよ」


「八幡様は船乗りの守り神さ、そして船乗り星は夜空の中で唯一動かない北の星」


「てんで役に立たない帆を付けた船に多すぎる荷物と人員…あんたたちのやろうとしていることはでっかい『漂流』なんだよ!とにかく北に向かえば間違いなく大陸に辿り着く」


と三姉妹が口々に言うので空海は丁寧にうなずき返し、八幡様、船乗り星、と数度復唱して空海が記憶したのを確認すると、


イチキはうむ、と満足げにうなずきやっと空海を解放してくれた。


再びタギツに案内してもらって帰った空海は熟睡している僧たちの間に入って横になり、あれは修験道や陰陽道に伝わる九字や。と確信した。


イチキさまは縦横5回ずつ斬ったから臨兵闘者 皆陣列在前に行、を足して「臨む兵、闘う者、皆 陣列べて前を行く」という最強の守護を授けて下さったのだ。と空海は思いいつの間にか熟睡していた。


翌日、宗像大社で祈祷を受けて帰って来た大使、藤原葛野麻呂を先頭に一の船の乗員たちが船に乗り込むのを、三姉妹たちは夫の横に並んで青い衣装で最上級に美しく着飾って見送った。


船が出航する直前、唐人の水夫たちに唐語で


「船乗り星を目指せ!」


とイチキが檄を飛ばすと水夫の頭は盛り上がった肩を揺すって髭面を緩ませ「あんたの檄は心強いぜ!」と唐語で返して出航の号令を掛けた。


「今回の大使様は念を入れて宗像の神に祈念した。難波津の住吉大社は男神、宗像大社の神は女神だ。陰と陽、太陽と月、男と女の両方が揃わないと加護は『完璧』にならない。解っていらっしゃるねえ」


と遠ざかる船を見ながら次女のタゴリが感心して言うを聞いて三女のタギツが


「あら姉様、あの大使様は去年ここを素通りして航海に失敗したのよ、知らなかったの?」とからかうような口調で言った。


「失敗から学んだか…にしてもいい男だったねえ」と葛野麻呂の顔を思い出してため息を付く次女に対して


「あれは悪い男だよ」


と長女のイチキが年の功で葛野麻呂の本性を見抜いて妹たちに忠告した。



田ノ浦から出航して二日目に予期していた事態は起こった。


かけ声とともに逞しい水夫たちが長い櫓を前から後ろに回転させるのを頭の男が止めさせた。


水夫たちのむんとした体臭と腋臭で顔をしかめつつ葛野麻呂は通訳に「船頭どのは何と言っているのだ?」と尋ねた。


は、と通訳は畏まり


「帆を上げろ、櫓を漕ぐ手を止めろ、もうこれから先は何をやっても無駄だ、嵐が来る、と」


やがて空が黒くなり、ぐうおぉぉぉ…伝説の海龍の唸り声のような不気味な音が船体に向けて近づいてくる。


「…来るぞ!」


と葛野麻呂が言うと間もなく床が大きく揺れて、大量の海水が窓から入り込んだ。


「各々、頭を庇って床に伏せるのだ…ここからが祈祷の者どもの力の見せ所ぞ!」


「はっ!」と航海安全の祈祷の為に乗船した神職、陰陽師、僧侶たちはそれぞれの口で祈祷の言葉を唱え、その中で空海は


南無八幡大菩薩、と唱え続けた。これが、一か月にも及ぶ漂流の始まりだった。


高い波と風がまるで巨人が平手打ちするかのように船体を翻弄する。


室戸岬での苦行とどっちが辛いだろうか?と船の揺れに合わせて後ろ受け身を取りながら空海は考えた。


あっちはあっちで何もせずに真言だけを唱え続けるという精神を削った行だったが、


こっちもこっちで海は祈祷に集中させてくれない!まずは自分の身を護ることやな、と空海は開き直り、身が転がる時は床に伏しながら呪文を唱えることにした。


途中、嵐が止むと乗員たちは干飯ほしいを手に取り、それを水でふやかして藻塩で味を付けて啜った。


が、それも船酔いで吐き戻す始末。10日も過ぎると喰わぬと己が命にかかわる、と悟った留学生たちは意地でも吐かぬよう歯を食いしばった。


晴れると、昼夜構わず北に向かって水夫たちが櫓を漕ぎ続けた。


北の空に船乗り星を見つけると船頭の唐人は「このひと漕ぎで確実に故郷に向かってるんだ!」と水夫たちを鼓舞した。


力尽きた水夫は休憩していた水夫と交代して休まず漕いで、嵐が来ると船内で身を丸めて眠った。


祈祷の者たちも漂流生活が長引くにつれ祈祷する気力が薄れ、飲食と休息を最優先するようになった。


空海も食うだけ食って出来るだけ休みながらも南無八幡大菩薩、と心で唱え続けた。


そして34日目の夜、不意に追い風が吹いて船の動きがやけに滑らかになった。船頭たちが外で騒ぐので空海も船室から出て空を見上げると…


満天の星が散りばめられた夜空に、船乗り星が輝いていた。


船乗り星は別名は北辰、太一星、今では北極星と呼ばれる。


そして星明かりに照らされた海の向こうに黒々とした陸地が見えた。


「陸地やー!!」と風を孕んだ帆の下で思わず空海は叫んでいた。その声に釣られて船室に居た遣唐使たちも出て来て


己が目で陸地を確認すると皆、ついに生きてここまで辿り着いたか!虚空に両手を突き上げて吼えた。


延暦23年(804年)盛夏、遣唐使船一の船は漂流35日目朝、福州長渓県赤岸鎮己南ノ海口(現在の福州市から北へ約250キロに位置する海岸)に漂着した。


じりじりと窓から夏の陽射しが入り込む船室、大使の葛野麻呂をはじめ貴族の子弟からなる留学生も、祈祷の者たちも皆気力を無くして吐瀉物がこびりついた床に突っ伏していた中で最初に橘逸勢が顔を上げて、


「南無八幡大菩薩…あ、もう着きましたな」とひとり船室の床に座している髪の伸びた僧侶に向かって初めて声を掛けた。


「僧侶どの…お前は何者なのだ?」


「へえ、ただの留学僧るがくそうで、船乗りの子です」


と空海はにっこり笑って答えた。


やれありがたや、宗像の三人の女神の恩恵で辿り着きましな。





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