第34話 菜摘最終話 海へ。
生温かい水の中の、どこか懐かしい漆黒の底へ自分の意識が沈んで行こうとする…
自分はこのまま死ぬのだな。ということを戒明は割と冷静に自覚することが出来た。
ふふ、幸福の絶頂のまま逝くのも一興。
と笑いすら浮かべた時、ふいに自分の僧衣のふところから一匹の魚が飛び出して、戒明を心配するように二、三回旋回して水面に広がる光の中に昇って行った。
真魚!と水の中で戒明は叫んだ。
まだだ、自分はあの子に伝え終わっていない。いま逝ってなるものか…と自ら水面に手を伸ばした瞬間、戒明の意識は現世へと戻ってきた。
「戒明さま!」
とわが手を握り締めて呼びかける空海と、「戒明のじいさんが戻って来た!」と涙目で叫ぶ勤操。
そして、沈痛な面持ちでこちらを覗き込む兄弟子、実忠の吸い込まれそうな瞳の青が戒明の視界に飛び込んで来た。
「実忠さまが懸命な処置をなさったからですよ」とほっとしたような徳一の声が枕元から聞こえる。
若い頃から施薬院で修行を積み、今ではこの国で最も医術に長けていらっしゃる兄弟子が自分を死の深淵から引き揚げて下さったのか…
と戒明は感謝のまなざしを実忠に向けて小さく微笑んだ。
「喋るでない、わしの質問にまばたきで答えてくれ…お前、血を吐いたのはこれが初めてじゃないね?」
はい、という意味で戒明はまばたきをした。
「おそらくは半年以上前から、5,6回は吐血してて今までそれを隠してきたんじゃないか?」
戒明のまばたきを確認すると実忠は嘆息し、
「あまりにも血を失い過ぎている…もはやわしに出来るのはここまで。今のうちに伝えたいことを全て伝えよ」
と間もなく訪れる死を戒明に宣告した。
戒明は紙のように白くなった顔でまずは「徳一」と呼びつけた。
「お前のひたむきさは美点だが、欠点でもある。ぶつかりすぎて敵を作るんじゃないぞ」
「は…」
「次に勤操」
「へえ」
「おまえはそのままでよい。
「え?へ、へえ!」
もう息をする力があまり残っていない。あと20呼吸で自分は死ぬな、と戒明は思い最後に
「空海」と10年かけて育てた愛弟子を慈悲深く見つめた。
「わしの実家は
と初めて聞く師の出自に空海は目を瞠った。
「お前に一番手を掛けたのは単に同郷のお前が可愛かったからかもしれん…
子を持てぬ僧侶の身ながら、我が子を慈しみ全てを与えるように弟子たちを育て全て伝えることが出来た。もう悔いはない」
そして空海の横にいる実忠の青い目を見ると「ああ、故郷の海が見える…」と最後の力で空海の手を優しく握り返し、
「行きなさい、自由な
と微笑みながら目を閉ざし、間もなく息を止めた。
戒明入寂、享年66歳。その魂は故郷、讃岐の海に還って行った。
戒明の周りには大勢の僧たちが集まり、この世が時間を止めてしまったのような沈黙がしばらく続いたが、やがて実忠が戒明の体をあらためてその肉体の死を確認すると
「皆の者、いま戒明和尚は旅立たれた」
と数珠を取り出して合掌瞑目を始めると皆、それぞれの思いで嗚咽しながら合掌した。年取った高僧から見習いの少年僧に至るまで
この時大安寺で泣かぬ者など一人も居なかった。
読経が終わるとむせび泣いて師の亡骸にすがりつく勤操。あふれる涙をこらえてじっと天井を睨む徳一。
そして師から「大事な何か」を受け取ったかのように両手をきつく握り合わせる空海。
ひとり廊下に出た実忠は、
「この世はいつも善人ばかりが先に逝き、自分のような憎まれ者ばかりが生き残る…理不尽だ」
と涙を溜めて暮色に染まった空を見上げた。
「今頃一の船が出航してる頃だろうか?」
と伊予親王は盃の中で揺れているにごり酒を見つめてから隣で不貞腐れている弟、神野親王に声を掛けた。
「それよりも兄上、空海に二度も会ったと何故教えて下さらなかったのです?」
と神野は干し鮑を一口かじってから酒を飲み、いかにも羨ましい!という目線を兄に向けた。
「お前が宮仕えになってから会う暇など無かったではないか。父上は人使いが荒いと聞くが勤めはどうだ?疲れてないか?」
と伊予が尋ねると
「勤めには慣れましたが、外出する機会が減ったので体が
と硬い口調で答えた。
「なんだかさっきからやけにつっかかるねえ…お前、私に妬いてるんだろ?」
神野は無表情でしばらく黙りこくり、やがて
「そうです、空海に会えた兄上が羨ましゅうございます、妬ましゅうございます!」
と自分の心情を素直に吐露した。
「とうとう認めたな!」と伊予が笑うと不意に遠い目をし、
「遣唐使全員が無事に帰って来るといいな」
と真剣な顔つきで言った。無事に大陸に着くか嵐で沈み海の藻屑となるか、遣唐使船に乗った者の生存確率は五割以下。
「ええ…」
と神野も兄と同じ方向を見つめて、
海よ、どうか、この国の宝になる者たちをを無事に送り届け給え。
とまだ見ぬ海に祈った。
伊予親王が空海を留学僧に推し費用まで援助した事は、彼の短い人生の中で行った最大の善事だったかもしれない…
「
荷物と共に遣唐使船一の船に乗りこむ直前、一度だけ振り返ってもう見ることはないであろうこの国の青く晴れた空を見上げた。
わしがここまで来れたのは、決して自分一人の力だけではなくあまた人々の手助けがあったからや。
父上、叔父上、勤操和尚、タツミさま、伊予親王さま、
そして、あの夜崖の上で出会った戒めの明かり。戒明さま、見ておられますか?
「行ってまいります」と空に一礼して空海は乗船した。
延暦23年(804年)、空海30才。
昔、どこの宗派にも属さない謎めいた僧が、日の本から唐へ向けて出発した。
「菜摘」終わり第二章「遣唐」へとつづく。
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