第33話 菜摘33・受戒

遣唐使船をこの国に押し戻した暴風という名の追い風は桓武帝に出航を来年に延期という決定をさせ、


留学僧の交替という異例の人事を起こさせ、あれよあれよと空海を受戒の儀式の場へと押しやったのである。


その背景には失意のどん底にいた空海を遣唐使の留学僧へと引き上げた3人の男の働きがあった。


一人目は東大寺権別当、実忠。


「あなた達が何故朝廷に棄てられたのか分かるかね?そうやって肝心なことを何一つ決断できない役立たずだからさ」


と留学僧の人選を直前で入れ替えた大僧正たちを前に穏やかな口調で辛辣な皮肉を放ち、怒って二月堂の奥に引きこもっていた実忠は、


渡航に失敗した遣唐使団の留学僧が九州から早馬に乗って東大寺に戻って来た、という報告を聞くと直ぐにその留学僧を自分の元に呼び寄せるよう命じた。



不眠不休で馬を乗り継いで来た若い僧侶は、全身泥まみれで疲れ切った顔をしていて実忠の前で畏まってはいるがその身は細かく震えている。


「使命果たせず、申し訳ございません…」と僧侶が平身低頭に謝するのを実忠は


「そなたが無事に帰って来ただけでもいいのだ」と泥のこびりついた僧侶の手を握って労った。


普段、偉い僧侶たちは自分と目も合わせて下さらぬのに…


思いも掛けぬ高僧の優しさに触れた僧侶は両目からぽろぽろ涙を流して泣きじゃくり、


「大僧正からの命令で恐ろしくて言えませんでしたが…私は元々唐へ行く気など無かったのです!


大嵐に船ごと揺すぶられ、一の船の渡航の無事を祈るどころか吐いて床にへばりつく事しか出来ませんでした。

読経すら思い出せなかった私は僧侶失格…


私にこのお役目は無理です。辞退させて下さいっ!」


と切に哀願したのは実忠でさえも予期せぬことであった。


「余程恐ろしい目に遭ったそなたの気持ちは分かるし、そのように取り計らおう。しかし、留学を断ればこの奈良に居づらくなるぞ」


当時、遣唐使に選ばれた者の渡航拒否は貴族ならば官位が下げられる程の罪であった。


構いません、と僧侶は目を見開いて顔を上げ、


「還俗いたします」


と強い決心を口にしたのだ。僧侶は下級貴族の次男で食うに困って出家した若者だった。と実忠は記憶していた。


「実家で何かあったのかね?」


「出航直前に兄の死を知らされました。戻って家督を継ぎます」


なるほど、僧侶が渡航してしまえば十年二十年も唐から戻ってこれない。その間家長を失ったままの一族が困窮するのは目に見えている。

そのような悩みを抱えたまま船に乗った僧侶にとってもこの嵐は僥倖だったに違いない。


「お前の深い事情を聞いてしまっては仕方がない。今すぐに還俗して家に帰り、家族を助けてやりなさい」


と実忠は直ちに僧侶に還俗の手続きをさせ、十分過ぎる程の路銀を持たせて故郷に帰してやった。


こうして「元」留学僧は剃髪に烏帽子を被った貴族の平服姿で馬に乗り、晴れやかな顔で奈良から出て行った。


「これで正僧が一人減りましたな」

と両頬にえくぼを浮かべた実忠は次に徳一を呼ぶと「手筈通り律宗を動かせ」と指示した。



「俗名、佐伯の真魚こと空海はおるか?」と大安寺に律宗の僧侶たちが来たのは陽が落ちる前だった。


夕餉の膳の支度を智泉にまかせて空海が「私めでございます」と袈裟をつけた僧侶たちの前に進み出ると


「空海よ、此度東大寺戒檀院での受戒の許可が下りた。それまでにお支度をされよ」と儀式の日にちを知らせた。


私度僧空海の受戒決定にその場に居た大安寺の僧たちは一斉にどよめき、やがて、真魚どのの努力が実ったのだ!と隣の者同士肩を叩き合った。


そして使者の中で一番年嵩の僧侶が


(受戒の段取りは頭に入っている筈だ。頑張れよ)


と空海の耳元で囁いて笑顔をひらめかせた。


実は常日頃大僧正に反感を抱いていた律宗の僧侶たちは、すでに受戒に必要な十人の推薦僧、三師七証も揃えていつでも空海が正僧になれるよう準備していたのだ。


「あ、ありがとうございます!」と空海は目に涙を浮かべて鑑真和上の孫弟子たちに深く頭を下げた。


そうだ、鑑真和上は5度も渡航に失敗して、目から光を失ってまで唐からこの国に具足戒(僧侶が守るべき戒律)を伝えにいらっしゃったのだ。


今ここでわしが唐行きの夢諦めてなるもんか!と空海の胸に再び激しい情熱の炎が灯った。



二人目は遣唐大使、藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろ


葛野麻呂は出航直前の難波津に到着した留学僧が、自分が楽しみに待っていた者ではないことにひどく驚いた。


都で用事の時は我が邸に私宿して唐の情勢を懇切丁寧に教えて下さった戒明和尚の弟子の空海ではなく、


全く別の正僧であること、そして、その僧が自分の妻の甥であることを顔を見るなり気付いて、


「一体どういうことなのだ?なぜお前が唐に行かねばならないのだ!?」と憤慨し、義理の甥を問いただして事の仔細を知った。


「…なるほどね、要は大僧正の子供じみた嫌がらせのせいか。それにしてもお前が実は私の甥だとろくに出自も調べぬ内に遣唐使船に乗せようとは。


私がこの世で最も嫌いなのは、杜撰な仕事をする輩だっ!

無能なお偉方が結局この国を腐らせているのがようく分かった。…今に見てろよ」


と葛野麻呂は酒の入ったかわらけを握りつぶして呟いた。しかし、甥を帰そうにももう間に合わず出航して目も回るような嵐に遭って九州に引き返した時、


「お前は故郷に帰れ」と甥の身元証明と還俗の嘆願の文を書いて持たせ


「いいか?まず最初に二月堂の実忠さまに会うのだぞ」


と念を押して報告の使者として早馬に乗せた。


もし甥がそのまま東大寺に行ってしまったら、持たせた文を握りつぶされるか甥の身に危険が及ぶかもしれない。と心配した葛野麻呂の配慮であった。


その一方で葛野麻呂は船の損壊状況と修理にかかる金額と期間を試算し、


「船が航行可能になるまで少なくとも一年はかかりましょう」と意見書を添えて護衛の武官の一人に朝廷への報告の文として持たせて早馬に乗せた。


さてと、後は一の船の留学生たちを引きつれて都に戻るだけだ。と帰京の手筈を整え、背を丸めて見るからに気落ちしている橘勢逸たちに


「あなた方は選ばれし者達なのだから、せめて今は胸を張って帰るのだ!」と叱咤しながら馬に乗って都に帰った。


帰京して数日後、桓武帝の元に呼び出された葛野麻呂は、


「ここまで詳細な報告書、まことに感心した。遣唐使の渡航は来年まで延期とする」という勅を賜った。


は、と葛野麻呂は右手に笏を構えて恭しく畏まった。「それと、もう一つの報告書なんだがな」と頭上から声がした時


そら来た、と内心ほくそ笑んだ。


「留学僧の選抜で起こった東大寺側の専横、目に余るものがある。

極めて遺憾なり。そこでだ、


『嵐に押し戻されたのは祈祷の力が足りなかったのではないか?』


というお前の意見も踏まえて一の船に乗る留学僧の追加を許可する。

深く修行した僧侶を新たに選抜するのだ。まずはお前が推薦する佐伯真魚こと空海を祈祷の僧に任ずる」


やった…!


と帝の言葉の傍に控えていた官吏が震えそうになるのを抑えながら素早く先程の帝の言葉を筆記した。


天皇の補佐をする中務卿なかつかさのかみ、神野親王である。


「それは、勅でございますか?」


と疑い深げな声で葛野麻呂が尋ねたので桓武帝は、な…!朕が信用ならぬか?と怒鳴りつけそうになったが、


こうなった原因は己が自己保身からの忖度そんたくで、私度僧空海の推薦を実忠に丸投げしてしまったからだと重重承知していた。


「すいません、もう記録してしまいました」と息子神野がしれっと言った一言が桓武帝に


「勅である」と空海の留学決定を宣言させた。


「では勅書を渡して彼の者の立場を早う安堵させとうございます」


と一礼すると葛野麻呂は、宮女たちをもとろかせる魅力的な笑顔を振りまきながら帝の前を辞した。


帝に念書の作成を依頼し、それを急かすとはなんて大胆な奴!


明鏡よ、おまえの父は敵に回すと恐ろしい男だ…と神野は苦い顔をして葛野麻呂の背を見つめる父帝と、悠々と出て行く葛野麻呂を見比べながら思った。



そして三人目は伊予親王。


親王さまの突然の来訪に大僧正は慌てて身を整えて応対に出た。


伊予はけばけばしく着飾った大僧正に一瞥をくれて「なあに驚く事は無い、ある筋から書物庫の床下のことを聞かされてね…改めさせてもらおうか?」と目を細めて笑った。


この親王さまのひと言で大僧正は自分がとんでもない過ちを犯したと気付いたが、もう遅かった。


「私の顔を潰した償いはさせてもらうよ」伊予親王と家来たちは大僧正の隠し財産をごっそり持ち出し、そのまま大安寺に「寄進」した。


この出来事には、東大寺の重鎮実忠が伊予親王に宛てた文で大僧正の隠し財産の密告をした背景があった。


「留学費用の足しにしてくれ」と軽やかに笑った伊予親王が馬に乗って去って行く姿を空海はいつまでも見送った。それが、空海が見た伊予親王最後の姿だった。



「それにしても、えーえ格好になりましたのーう『空海和尚』」


と勤操は、自ら剃髪した空海の頭を満足げにつるりと撫でた。


「やめてくださいよ」と真新しい僧衣に袈裟を付けた空海は恥ずかしげにうつむき、受戒後の宴の席に身を縮めて座っていた。


目の前では叔父の阿刀大足あとのおおたりが訪れる招待客たちに「有難うございます、有難う…」と半泣きになって頭を下げている。


「儀式自体は仰々しいが思ったより早く済んだだろ?」と徳一が言うと「へえ確かに」と空海は肯いた。


確かに前半は朝廷と僧綱所そうこうしょの官吏による口頭の試験で、必要なことを全て暗誦出来れば合格とされる所は大学寮の入試と同じだった。


「さて、お前はあの須弥山を模した戒壇の上で何を思った?」


と師の戒明に問われて空海は僧たちの読経の中、戒壇の頂で合掌する自分の頭上に、さらに天へと続く長い階段が見えたような気がした。


「へえ…まだまだやな、と思いました」


「謙虚だね」と戒明は小さく笑った。


「仏への道はまだまだ、か…私はこれで逆臣の子と言われずに済むと思った」と徳一が遠い目をして言うと、


「わしはこれで食うに困らずに済む、と思うたがな」


と勤操があっさりと言うと徳一は「あなた本当に俗だな」と呆れ果てて先輩僧侶を見た。



招待客のほとんどが僧侶なので酒は出ないが晴れて正僧になった空海のお披露目と遣唐使決定の二つの慶事で皆、笑い合っていた。


宴の席にいる者たちの体から光の粒子が飛び散るのが戒明には視えた。


これは喜びから出る光だと戒明には分かっていた。若い頃より崖の上の庵に通い、拙僧を師と敬ってくれた勤操と徳一も立派な僧に成長した。


そしてあの月明かりの中で出会った佐伯の真魚が今は正僧空海として若い頃の自分と同じく異国に旅立とうとしている。


自分が学んだものを全部弟子たちに伝えきった自分は僧侶として人として…


今が生きてきて、いちばん幸せだ。


と思った時急に胃の腑から何かがせり上がるような感覚を覚え、


失礼します、と言い切らない内に廊下で大量に血を吐いて戒明は倒れた。

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