第32話 菜摘32 風が吹く

延暦22年(803年)初夏、難波津から第14次遣唐使団の船が出航した。


船団の最後の船が港から離れたのを見届けると青年はうつろな目で高台から降り、大和国に向けて三里ほど歩いた山道で急に脚に力が入らなくなり、


あれ、わしはどないなったんやろ?飯は食うたはずなのに…と思いながらも地に頬を付けて倒れた。


日が暮れて、とっぷりとした夜の闇に包まれても青年は身動き一つする気力さえも失っていた。



夜更けに山道を徘徊していた二人の中年男が若者を見つけると何やら不穏な会話を始めた。


(あにき、こいつ棒で顔をつついてもなんも反応しねえぞ)


(生きてんのか死んでんのかわからねえな…行き倒れか?それにしても金無さそうな身なりしてんな)


(おおかた山で修行する私度僧だろう、こういうやつはいざという時のために路銀を隠しもってるもんなんだぜ)


(それじゃあいつものように、身ぐるみ剥いで、殺して、崖から捨てるか)


きこりの恰好をしていても男たちの正体は山賊だった。昼間は本当に樵の仕事をしているが、妻子を食わせるためにはそれだけでは足りず、


難波と大和を往来する旅人や商人などを襲っては金と衣を奪って男なら殺し、女は犯して人買いに売り飛ばしてきてそれを何とも思わない、


弱い庶民の面の皮を被った畜生どもだった。どの時代にもこんな輩はいるのだ。


じゃあまず、と兄貴分のほうが手っ取り早く青年の心の臓を突いて殺すために血の匂いがする小刀を懐から抜いた。


その時…


「待ちな」


と張りのある男の声がした。殺気だった山賊どもが振り返ると、肩まである髪を一括りにした白衣姿の男がこちらを見てへらへら笑っている…


「その私度僧は俺たち修験者の獲物だ。去ぬるがよい」


なんと山の中では一番関わり合ってはならない者たち、修験者に山賊どもは出くわしてしまったのである。


もう一人の小柄な修験者が青年を抱き起こし、真魚どの、真魚どの!と呼びかけ頬を叩くが何の反応もない。


「息があるのに痛みも感じないとはおかしい…ここは手早く済ませましょう、お頭」とたでが言うと修験者タツミはうなずき、


「さて…ここで刃物を置いて逃げ帰るか、それとも命果てるか?道は二つ」


闇の中なのに、修験者の眼だけが光って見えた。剽悍な体つきをした二人の修験者を前に賊どもはあっさり降参して鉈などの刃物を目の前に置いて


「おねげえします…妻子がいるんでどうか命だけは」と土下座した。


「お前らの妻子の所在は?」


は…と顔に脂汗を浮かべて震えながら二人の賊は聞かれた通りに答えた。


「そうか、立て!」と言われた賊たちは武器は取られたけれどこれで解放される、と思って気が緩んだ瞬間、


山道の脇にある崖から蹴り落とされ、悲鳴を上げる間もなく崖下の闇に消えた。


「悪いが、お前らがやってる所業を聞いちまったら生かしておけねえ…妻子たちには俺が食う道を見つけてやるから」


と乾いた声で呟くとタツミは心神喪失状態になった私度僧空海をおぶって部下の蓼と共に風のような速さで山道を下った。



「勤操から事情は聞いたぜ…おまえがこうなっちまうのも無理もねえよな。


なにしろ遣唐使の選抜を直前で外されて、唐行きの夢も十年以上の努力も潰されてしまったんだからなっ!」


うおおおおおおっ!と怒りの余り獣のような咆哮を上げてタツミは走り続けた。



「佐伯の真魚よ、こうして私がお前に会えたのは何かの巡り合わせのような気がしてならない」


と伊予親王は言った。そこは叔父の阿刀大足に連れられて行った、都の北郊にある邸宅。


紅いもみじがはらはらと散る中庭で伊予親王は縁側に座っていて、空海は叔父と並んで庭の端の方で畏まっていた。


「もっと近くにお寄り」と伊予が手招きするので空海は言われた通りににじりながら端近に寄ると、白く細い伊予の指で唐突に顎を掴まれた。


「うん、いい面構えをしている」と伊予は言い、いかにも人の良さそうな顔ににっこりと笑みを浮かべると顎から手を離した。


「ところで讃岐出身だそうだな」


「はい」


「私の名前の伊予は、讃岐の隣にある伊予国から付けられた。と思っている者が多いが…父帝によると古事記にある伊予之二名島いよのふたなのしま(四国の古称)から名付けたそうだ。


だから私の名は四つの国からなる島そのもの、という意味になるのだ。


大足からはじめてお前の話を聞かされた時、なんだか他人とは思えなくてな…いつか困ったことがあったら助けてやりたい、そう思い続けていたのだ。


分かるかい?お前に会えて私は今とても嬉しいのだよ」


父、善通や叔父の大足が渡してくれた金子だけでは留学に必要な額には到底足らず、


「寺に所属していない、受戒も済ませていない私度僧の留学など前例がない!」と奈良仏教界の大僧正をはじめとする保守派と、


「才能豊かで、十分に修行を積んでいてそれを見届けてきた正僧たちが推薦する若者に機を与えてやるのが我々のすべきことではないのか?」


と主張する実忠をはじめとする宗派を超えた正僧たちの改革派の論争で揉めに揉めていた。


「…恥ずかしい話なんだがな、奈良の寺は最澄にだいぶ弟子を取られて怯えきっている。

空海、お前に唐帰りの箔を付けさせたら第二の最澄みたいになってまた弟子を奪うと大僧正はお思いになっていなさるのさ!ああ情けなや」


と時々大安寺に来ては勤操にだけ言いたい愚痴をぶちまけてすっきりした顔で帰って行く口の悪い僧侶、徳一が


「今のところ形勢は不利だ」と偽りなく空海に告げると「お前、阿刀大足の甥と言ったな?」と聞いてきた。


「へえ」と答えると「なら少し望みがある、大足につてのある皇族や貴族に頭を下げて来い!寺に金出してくれてる方々が意見すればあの目障りなほどぶっとい柱の東大寺も揺らぐかもしれん」


と相当皮肉の入った徳一の助言で自分は都に行って「十年間不幸を致しました!」とまず叔父の大足の家を尋ねて頭を下げた。


叔父は怒るでもなく「あの手紙を受け取った時から諦めはついていたよ。困った事があるから来たんだろ?」と空海を迎え入れて大体の事情を聞くと


分かった、と了解してこうして大足が家庭教師を務める伊予親王に頭を下げに来たのだ。


「大体の事情は大足から聞いてるよ。私は前例のない事をやろうとする者が好きでね」


とぽん、と手を叩いて侍女に文箱と紙を持たせると何やら文を書き始めた。


「よろしい、金が足りないなら私から出そう。奈良の僧侶たちにも意見しよう。要るものは遠慮なく言うがよい」


書きながら伊予は空海の願いを快諾した。「すんまへん…」と空海は声を震わせて頭を下げた。


「お前の書いた作り話は愉快を越えて痛快だった。読みながら笑ったのは人生で初めてだ。

憂さを晴らしてくれてありがとう」


と散ったもみじが風で舞い上がる中、微笑んだ伊予の顔を自分は一生忘れないだろう、と空海は思った。



それなのに、結局遣唐使に選ばれませんでした…


父上、叔父上、戒明さま、勤操はん、そして伊予親王さま。


ほんま、申し訳ありまへん。



目を開けた先にあったのは見慣れた天井だった。


「叔父上!?」と智泉が嬉しそうに自分を覗き込んでいる。「皆さま、叔父上が目覚めましたよ!」と隣室に控えている者たちに智泉が呼びかけると、


勤操、戒明、そして私度僧に変装したタツミと蓼の修験者二人が部屋になだれ込んで来た。


「大丈夫か?おまえ丸二日間眠ったままだったんやで」と勤操が空海の脈を取る。


そんなに?ああ、自分は伊予親王さまの夢を見ていたのか。ここは、大安寺…


「俺は届け物をしにここに来たんだが、お前が難波津まで船を見送りに行ったと聞いて嫌な予感がしてな、追いかけてたらちょうど山中で倒れていたお前を見つけてここまで運んだ、って訳」


空海を襲おうとした賊を二人始末した、と余計な事は言わないタツミと蓼であった。


「お前さん重篤な気鬱の病で倒れたんじゃよ。まあ10年以上修行で休みなく走り続けたんだ、無理もない」


と戒明がそこで言葉を切ると「済まない…」と言って肩を落として初めて空海の前で泣いた。


空海が遣唐使に選ばれなかったのは、戒明と大僧正の過去の遺恨が原因だった。


選抜直前で私度僧空海の師が戒明だと知った瞬間、大僧正は手のひらを返して「私度僧あがりを唐に行かせるわけにはいかん」と空海を遣唐使から外した。


理由は、昔の戒明との諍いにあった。戒明が唐から持ち帰った経典の一つに偽経である!と難癖をつけて罪人呼ばわりし、


戒明を奈良仏教界から追放したのだ。


「言いがかりや!唐がえりの戒明はんの出世を恐れた僧どもが寄ってたかって潰しにかかったんや!」


と勤操がきっとまなじりを上げると


「まあ昔のことだ。本来なら筑紫に左遷される筈だったわしを兄弟子の実忠さまは庵まで用意して大和国に留めて下さった。

あの崖の庵で人生に絶望した人びとに出会い、人を本当に救うのは言葉ではなく実行、難解な経ではなく一杯の椀や生計の手助けだと学んだのだ」


昔受けた仕打ちを戒明さまはとうに許していらっしゃるのに、大僧正はまだ根に持っていたのか!それとも疚しさから反発したのか…


やっと寝床に半身を起こし、蓼が調合してくれた薬湯を飲みながら空海は思った。


「ところでタツミ様と蓼さまは何を届けに?」


聞かれるとタツミはにっと笑い


「俺の配下がとある山に(水銀鉱石)の鉱脈を見つけてね、丹の扱いに長けた渡来人一族を雇って精製し、寺社仏閣の建築に使う朱色の塗料として売りさばいたら金が入った。


でも儲けすぎて余った。どうしたもんか、と思案してたらそうだ、金を必要としてる男が大安寺あたりにいた、な~と思って」


「タツミどの、それは…」


と戒明がこらえきれずにぷっ!と噴き出した。ぐふふふふ、と勤操が拳を口に当てて笑った。


師匠二人が笑う理由が分からぬ空海に勤操はかいつまんでタツミの話のからくりを教えた。


昔、桓武帝が奈良仏教と朝廷を徹底的に切り離そう、と決断したきっかけの事件が起こった。


それは寺への布施と称して貴族たちが奈良のいくつかの寺に財産隠しをして何処かから情報が漏れ、かなりの数の貴族と僧侶たちが捕縛されたいわゆる巨額脱税事件である。


「隠し財産は律令違反になるが、寺に寄進をすれば違反にならない。貴族の奴ら、偽の寄進をして寺を金蔵代わりに使うてたんや。

奸智に長けた女もいるものよ、とその時は思うたがな」


「え、首謀者は女人なのですか!?」


「確か、藤原喜娘ふじわらのきじょうという女ながらに家督を継いだ貴族だった。その後は流罪になったとか密かに斬られたとか、所在は解らん」


と過去の事件はどうでもいい、とばかりに勤操は手を振り、


「わしの部屋の床下に、タツミさまからの『寄進』がある、ちゅーこっちゃ」と空海の耳元で囁いた。


つまり、タツミさまは大安寺を使って脱税をしに来たと!?


「全部やるから違反にはならねえよ、お前らさっさと使ってしまってくれ」


「少し前までは使う機会があったんですが、もう船は出てしまいました…」と空海は心の臓をぜんぶくり貫かれたような虚無を感じ、わが胸を押さえた。


「絶望を感じているならじっくりと向き合うのだ。今は『止まる』時だぞ」


と戒明が優しく諭すと空海は小さくはい、と肯いた。


「人生は長い。まあどっかからいい風が真魚に吹いてくるか分からんぞ」と言い残してタツミと蓼は吉野に帰って行った。


それから半月近く、空海は瞑想と写経に没頭してなるべく物事を考えないように務めていた。


本当に絶望した時の向き合い方を教えられ、実践して初めて唐には行けなかったが自分が仏教をやってきたのは間違いではなかったのだ…


と心身共に安らぎを取り戻した頃、


遣唐使団の船が暴風雨に遭って破損、渡航を中止して戻って来た。という一報が勤操の元に届いたのだ。


寺中を探し回って厨の裏で薪割りをしていた空海を見つけると、勤操は息を弾ませ、


「お前に風が吹いてきたで!空海!」


と叫んで喜色一杯に空海を抱き上げ、辺りをくるくる回った。傍目から見ると完全に子供扱いされている空海は


「恥ずかしいので離してください~!」と無邪気な中年僧侶の肩を叩いた。

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