第31話 菜摘31 陽の下の露
秋の終わり、藤原三守は中納言藤原内麻呂の邸に呼ばれた。
内麻呂の次男、冬嗣に嫁いだ姉の
「若君ご誕生!母子ともにお健やかです」と報せを受けるまでの冬嗣は「美津子は?美津子は大丈夫か?美都子に何かあったら俺はもう…」と周りの家人たちが心配するほど狼狽えてしまい、
しまいには「少しは落ち着け冬嗣っ!」と父内麻呂に一喝されてようやく我に返ったという。
宴の席の中心で義兄の冬嗣は幸福この上ないといった様子で赤子を抱いて微笑んでいた。
才気と鋭気が服を着ているような北家の梟雄、と周りの貴族たちから評され、いつも鋭い目つきをなさっていたあの義兄上が。
大判事(司法職)として罪人たちを容赦なく処罰なさっていたあの義兄上が?
と三守があんぐり口を開けて驚く程冬嗣は子煩悩な父親の顔に面変わりしていたのである。
やがて冬嗣が三守に気づくと手招きして隣の席に座らせ、
「
姉のお産の時に大学寮から実家に帰っていた三守は別室で姉のいきむ声や赤子の産声ももちろん聞いたし、生まれてすぐの赤子を見せてもらっていたのだが、
生まれた時はあんなに小さくて皺だらけだったのに、たったふた月で赤子とはかように大きく重くなるのか!
と当たり前の事にいたく驚き、腕の中の赤子が物珍しげにくりくり瞳を動かすのを見つめる内に、
ああ、この子が我が甥なのか。
生まれてくる時は小さく弱くても、こうして父母や一族に囲まれ、愛情を受けて人は「人」として育っていくものなのだな…
という温かい感情が産着ごしに伝わる赤子の体温を受けてじわじわと胸の奥から沸き上がって来る。
腕の中の赤子が急に身を反らせて泣き出したので三守はどうしたらよいか解らず周りの男どもと共に固まっていると、
「きっとお乳を欲しがっているのですわ」
と泣き声を聞いて駆けつけた姉の美都子が弟から我が子を抱き取った。
「生まれてからずっとこうなんです…我が殿はお勤めの時以外は若君から離れないの」
と美都子は夫を見て呆れたように微苦笑してみせた。
「早く父親である我に懐いてほしいのだ」
と冬嗣が名残惜しそうに我が子の髪を撫でるのを見て美都子は
「まずは、母親である私に懐いてもらわないと困ります。育てられません」と微笑みながらきっぱりと抗弁し、我が子に乳を遣りに奥へと連れ去ってしまった。
長良…と名残惜しそうに呟く冬嗣の肩に手を置いて、あはははは!と快活に笑ってから貴族の若者が言った。
「ご妻女の言ってることは正論だよ。乳を遣る時、
その貴族は三守の知らない若者だったが、はて、誰かに似ているような…
「ああ、二人は初対面でしたな」と冬嗣は三守の肩を引き寄せて「紹介しよう、帝の皇子で俺の同母弟の
と安世皇子を三守に紹介した。
「さま付けと敬語は止してください、兄上。もうすぐ姓を賜る事が決まってるんだ、これで同列の臣下です」
とちょうど冬嗣を甘くしたような顔立ちをした安世は不敵な笑いを浮かべた。
桓武帝と冬嗣の母の
姓を賜る、というのはつまり皇族からただの人になる、という事なのだが…
「その割には嬉しそうなお顔をなさっておいでですね」
と三守が率直に感想を述べると当たり前だ、と安世は言って
「宮中には異母兄弟たちが大勢いて私は結構窮屈な思いをして育ったんだ。これで自由になれて出世しやすくなる」
とそこで言葉を切って急に声を潜めて
(藤原や橘のばか息子たちを何人も出し抜いて実力で出世してやるよ…この3人の中で誰が一番早く大臣になるかな?)
と周りの大人たちに聞かれたら厳しい叱責を受けかねないような大胆なことを安世は言った。
なるほど、安世さまにとって自分はばか息子ではないらしい。と冬嗣と三守はほぼ同時に思った。
(それより、とんでもない話の種があるんだが)と言うと急に安世が激しいしゃっくりをして横向きに倒れ込んだ。
冬嗣と三守はこれは演技だ、とすぐ気づいたが「話の種」の内容が気になり…
「皇子さまは御酒を多く召されたようです。介抱のため中座致します」
と父、内麻呂に神妙な顔を作って見せると内麻呂は結構酔った顔でそうか、丁重に扱うのだぞ。と言って宴の主役代理を引き受けた。
冬嗣と三守は悪酔いしたという風の安世の両肩を担いで離れの部屋まで運び、周りに人が居ない事を確かめてから座らせると、
「この部屋なら安心して何でも話せる」と秘密の話の続きを促した。
「先月のことになる。私が夜明け前、通っている女の所から帰る途中でね」
「
と冬嗣が兄貴面して説教し、話の腰を折ろうとするのを「まあ義兄上」と三守が止めた。
「途中でなにか面白いことがあったのですね?」
「とんでもない話だと言っただろう?私もここ以外では話さないし、兄上たちにも口外してもらいたくない
…とある貴族の妻のところに、とある勢いのある貴族の男がこっそり通っていた。という話だ」
「人妻の所に通うとは大胆な」
「夫の地方任官中に妻がこっそり浮気するのはよくある話。だが、この人妻は良くない。我が兄と通じた大胆過ぎる女でな」
安世がそう言っただけで人妻の正体が娘婿である皇太子、
「それで…相手の男は?」
「何かの間違いだろう?と私も最初は思った。でも私ははっきり見たんだ…大和守、
これが公になったら遣唐大使は罷免、藤原式家は確実に潰れる。いや、父がお潰しなる。
私もいちおうは皇族だから兄の醜聞を貴族たちに蒸し返されたくはない。
だから、口が堅くて信用できそうなあなた達二人にだけこの話をした」
話が終わると、安世、冬嗣、三守の3人は不吉な予感に首元を抑えられたような重苦しい心持ちで黙り込んだ。
なんてことだ、藤原薬子と葛野麻呂が密通しているなんて!
それは、すっかり秋が深まった日の朝のことだった。侍女たちが朝餉の膳を片付けているところに
嘉智子、嘉智子はおるかと夫の神野親王が探している声を聞いて嘉智子が「はい」と振り向いた途端、
体がふわりと浮いて嘉智子は夫に抱きあげられていた。驚きながら前を開ける侍女たち、制止しようとする命婦、黒塗りの蔀戸、渡り廊下、庭に用意されている馬と目まぐるしく風景が変わっていく…
気が付いたら嘉智子は騎乗して神野の首にしがみついて、内裏から外へ馬で疾走していた。
恐い…でも、風が顔に当たってなんて気持ちいいのでしょう!
「親王さま、警護つかまつります!」
と馬で追って来た若者、藤原三守が神野に並走するとこちらに向かって叫ぶと、
神野は巧みに手綱をさばきながら「ああ頼む」と白い歯を見せて笑った。
やがて神野が馬を止めた場所は、秋草に降りた露が朝陽を受けて輝く野原だった。
神野と嘉智子は野に降りて、緑の野に珠が連なるような美しい光景にしばし言葉を忘れた。
「どうだ?」
「美しゅうございます…」
「どうしてもあなたにこの眺めを見せたかったのだ。今しかないと思って」
今しか?と嘉智子が神野にけげんな顔を向けると、神野は嘉智子の手を取って自分の左胸に当てた。
「年が明ければ私は父上のお傍について政務に関わる事になる。こうやって二人で外に出る機会はもうないだろう…
だから、私が最も美しいと思った景色を、あなたに見てもらいたい。
美しいと思った調べを、あなたに聴かせたい。
美しいと思った言葉をあなたに囁きたい。
これが、私の真心だ」
その言葉を聞いた嘉智子は心の中にちょうどいま陽の光に照らされて露を乾かしていくこの野のように温かな幸せが広がっていくのを感じた。
わたくしも、とほとんど泣く寸前の声で嘉智子も神野の手を取って自分の左胸に押し当てた。
若い二人は、輝く野の中でしばらく無言で見つめ合った。
今このひと時は、やがて訪れる試練と困難だらけの人生を送ったこの夫婦に与えられた、束の間の安らぎだったのかもしれない。
その夜、桓武帝は神野親王をきつく叱った後退出させて、
果たしてあの子は本当に戒明の言った通りになるのだろうか?
と常人に視えないものが視える心眼を持った戒明の言葉を思い出していた。
「これは瑞兆でございます。
神野親王さまが肩に留めておられる鳥は
鳳凰と呼ばれる伝説の聖鳥でございましょう。
春秋時代の書籍では聖天子の登場を待って現れる瑞獣の一つとされます。
鳳凰は、霊泉だけを飲み、六十年から百年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐の木にしか止まらないといわれております」
「戒明、お前と朝原の視た鳥がまこと鳳凰ならば」
「はい、神野親王様はこの国に光をもたらすべくお生まれになられた、百年に一度の聖太子。
新都平安京を百年どころか千年の都に栄えさせる名君になるやもしれませぬなあ」
と言って戒明は笑っていたが、本当にあの子が、なあ…
年が明け、神野は17才で
中務卿とは天皇の補佐や朝廷に関する職務の全般を担う中務省の長官のことであり、後に千年の都となる平安京を拠点としたこの国の政治、文化、思想の礎を築く一歩を、
この若い皇子は今まさに踏み出したのだ。
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