第30話 菜摘30 尚侍明信の罪

もう五十年近くも昔のことでございます。


結び文に添えられたあふひ(逢う日)の花に言寄せたあの方からの求婚の歌を受け取った夜、私は使いの若者の案内で邸をこっそり抜け出し、


農家の娘に変装して夏草生い茂る野の向こうにある待ち合わせ場所へと駆けて行きました。


そこは農家が収穫の季節の時だけに使う収納小屋で、若い男女が忍び逢うにはうってつけの場所でした。


入り口の筵を上げると奥にはあの方が淡い灯火の光の中、自信なさげにうなだれて座り込んでいましたが私の顔を見るなり跳ね上がるように立ち上がりました。


幼馴染で初恋同士の私たちはとっくにお互いの名なんて知っているのに、


あの方は薄桃色の葵の花を差し出して改まって


外国とつくにからの姫さま、名は?


としきたり通りに名を問うて求婚なさったので私は花を受け取って


明信、百済王明信くだらのこにしきみょうしんでございます。と弾んだ声で答えたものです。


私は山部王…良いのか?


あの方は照れくさそうにお笑いになり、私がうなずくと強く抱き寄せて男女の契りを交わしたのです。


あの頃山部王と呼ばれていた帝は御年18で、私は17。


私たちは自分の恋に夢中になり過ぎて、お互いの立場も自分たちがどれだけ大それた事をしているのかも知らない子供でした。


それから私たちは機を見ては家を抜け出し、あの小屋の中で熱い想いを言葉にして囁き合って逢瀬を重ねました。


思えば人生でいちばん幸せだったひと夏です。


蜜月は突然に終わりました。


夜中、私たちが共寝をしていると小屋なだれ込んできた男たちに無理矢理起こされました。



お前たちはなんてことをしてくれたのだ!と松明の明かりの中顎髭を震わせながら叫んだのは父の理伯りはく


無位無官のお前が姉上と釣り合う訳なかろう。高貴な飼い犬山部王!


と弟の俊哲しゅんてつが怒りに任せて山部王さまを殴りつけるのを前に私は止めて下さい、止めて!と哀願する事しかできませんでした。


私たちは元々許されない恋をしていたからです。


その頃私には藤原家の殿方との縁談がありました。


百済王家といっても私たちには帰る国はもうありません。

私と一族は既に滅んだ国の亡命王子の子孫で、帰化したこの国で生きていく為には有力貴族と縁組して地位を得るしか道は無かったのです。


山部王さまは皇族ですが、皇統どころか出世も望めない傍系のお血筋で父にとっては論外の相手です。


最初山部王さまは弟の殴打に耐えていましたが、犬、と罵られたその瞬間別人のように顔つきが変わり、かつてない位熱のこもった眼差しで弟と父を睨み上げました。


あの時、気弱でお優しかった山部王さまが初めて憎しみの感情を露わになさったのです。


最後にあの方は明信、明信!と声を振り絞って手をお差し伸べになりました。


私もそれに応えようと山部王さま!と手を伸ばしましたが家人たちに引き離され、それを限りに私たちは強引に別れさせられました。


連れ戻された私は自室に閉じ込められ、始終見張りが付いている状態になってからふた月後、朝餉の粥の匂いで吐き気をもよおし体の異変に気付きました。


そうです。私のお腹に山部王さまとの御子が宿っていたのです。



私とお腹の子をどうしようかと家人たちは幾夜も話し合いました。


困ったものだ…身籠った娘では嫁に出せない


薬を飲ませて子を流しますか?


それで明信に何かあったらどうする?藤原家に差し出せないではないか


あくまで私は、いえ、貴族の家の全ての女というものは男にとって出世の為の「品物」でしかないのです。


聞きたくもなかった家の男たちの本音を壁ごしに聞きながら私は何があってもこの子を産もう、と心に決めていました。


父が薬師に相談した結果、健康な状態で私を嫁に出すには取り敢えず子を産ませて、産後の肥立ちが良くなるのを待とう。


と家族の間で話は決まり、お腹が大きくなる前に私は父の別荘に移され、そこで女の子を産みました。明慶みょうけいと名付けたその子は父理伯の養女として育てる事になりました。


出産から半年後、私は南家の藤原継縄ふじわらのつぐただどのの元へ嫁ぎました。


20才近く年上の夫は温厚な人柄で私をこの上なく大事にして頂き、数年後には息子の乙叡たかとしが生まれました。


夫は順調に出世し、私は表向きは何不自由ない貴族の妻として見られていたことでしょう。


でも心はいつも、最初の三か月だけお乳をあげて育てた我が娘に会いたい!という想いが乙叡の成長を見るにつけ膨らんでいったのです。


それが叶ったのは父理伯の死で実家に帰った時でした。葬儀の準備で親戚一同が集まっている中でお姉さま?と私に呼びかける年の頃二十歳前の娘がいました。


私は一目で我が子、明慶だと分かりました。だって、涼しげな目元が実に山部王さまにそっくりだったのですもの…


私たちは年の離れた姉妹として語らい、明慶が父理伯の養女として大事に育てられていた事や、実の両親の事は生まれてすぐに亡くなったと聞かされて育った事、


そして、ある貴族の家にもうすぐ嫁ぐのだ、と。恥ずかしそうに明慶が微笑んだ時、再会したばかりなのにまた私たち母娘は別れてしまうのか…と絶望して涙しました。


明慶はそれが父の死を嘆いて泣いているのだ、と思い、長いこと背中をさすって慰めてくれました。


優しい娘に育ってくれたのね…とその時ばかりは亡き父に感謝したものです。


人の運命とは実に不思議なもので、謀反とそれに伴う粛清、とうんざりするほど幾つもの政変の末、


お若い頃は皇族の厄介者、と蔑まれていたあの山部王さまが皇太子となり、私は公卿の妻として宮中に召し出されました。


東宮の奥で再会した私と山部王さまはしばらく無言で見つめ合い、「長かった…」と固く抱擁し合ったものです。


あの夜の別れから20年の歳月が経っていました。


山部王さまは「実は、私の周りは敵だらけなんだ…心から信用できる人間はお前をおいて他に無い。宮女として側に仕えてくれないか?」と真剣にお頼みになり


私は「夫の許可を得たいと思います」と一応は答えましたがもう、この方のお傍を離れるつもりはありませんでした。


そして…二人の間に生まれた娘、明慶の存在をお伝えしたのです。


山部王さまは最初驚き、そして大層お喜びになり「本音はすぐにでも我が皇女として引き取りたい!」と仰いましたが、


明慶はすでに人妻ですし、参議の妻と皇太子の間に生まれた隠し子の事が露見するのは今は良くないと思い説得し、


「結婚して幸せにしているのならば見守っていよう」とその時は親子の名乗りを諦めていただきました。


それから歳月が経ち、山部王さまはお父上の光仁帝からの譲位を受け天皇として即位なさり、私も宮女として多忙な日々を送っていました。


久方ぶりに実家に帰ったある日、再び会った明慶は花のような美貌だったのにすっかりやつれ果て、魂が抜けたようになっていました。


結婚して12年、子を成さないまま病で夫を亡くした明慶は実家の一室に引きこもり、


「私も夫の後を追って儚くなってしまいたい…」と不穏なことを口走るので私は心配になって実の御父君である帝に相談すると


「新しい夫を探して添わせるべきではないか?」とお答えになりました。


「愛する相手を失った傷を癒すのは、新しい恋しかない。人はそうやって生きていく」


それは殿方はそうでしょうけど…と内心反駁しましたが、


亡き夫を思って死を考えるより、やはり再婚して新しい人生を歩んでもらうのがいいのかもしれない。と思い直し、


できるだけ政治的野心の薄い、誠実な殿方と添わせてあげたいという親の想いで私が相手を探している間に…


娘はとある貴族の男を通わせてしまっていたのです。


明慶の部屋で幾つもの恋文と相手の男から贈られた芙蓉の花を見つけ、それを娘が慌てて隠した時、私は全身の血が逆流して激昂し、


「相手は誰なのっ!?」と問い詰めました。


すっかり血色が良く、艶やかな容貌を取り戻した娘の口から相手の名前を聞いた時、


なんてこと!自分が願っていたのと正反対の男と明慶が結ばれてしまった…。と絶望のあまり視界が歪み、その場に座り込んでしまったのを今でも覚えています。


「明慶、明慶…その男にはすでに何人も妻がいるのよ…。あなたはの大勢の女の中の一人でいいの!?」


「でもお姉さま、私のお腹にはあの方との子供がいるのです。この子が私の生きる望みよ!」


と誇らしげに言って本当に嬉しそうに明慶が自分のお腹を両手で包んだ時、この子はやっぱり私の娘なのだ。


親に従い、夫に従うよう教育される貴族社会の中でひたすら己が意思を貫くところが若い頃の私そっくりではないか!


もっと身勝手な恋をしてきた私に何が言えるでしょう?結局娘の恋を許すほかありませんでした。


娘の相手は当時地方任官の国司で、母の死で一時帰京を許されていた時に庭に立つ明慶を見初めて密かに夫婦になり、短い逢瀬の後に任地に戻りました。



相手の男は明慶が身籠ったことを手紙で知ると体は大丈夫か?早く任期を終えて子に会いたい、という内容の手紙と地方の特産品を頻繁に送って来て深い愛情を示していたようです。


そして産み月が近くなると私はお産の準備の為帝の特別の許可を得て宿下がりを頂き、明慶は難産の末、女の子を産みました。


娘は赤子に明鏡と名付けて殊の外可愛がりました。明鏡が2才になった頃父親の男も任期を終えて帰京し、足繁く明慶の所へ通うようになりました。


「いずれ加冠したらあなたと明鏡を我が家に迎え入れるから」


と言って明慶を抱き寄せ、幼い娘を膝に乗せる貴族の男。その様子は仲睦まじい家族そのものです。しかし…


今上帝の皇女がいち貴族の女のままでいていいのか?


と何度も思いましたが当の明慶が「このままでいいのです」と幸せそうに笑っているので何も言えませんでした。


33才で苦しいお産をした明慶は、明鏡が健やかで利発な子に成長するのと引き換えにどんどん弱り、生命力を失っていきました。


延暦15年(796年)は私にとって大変辛い年でした。


前年に弟の俊哲、そして夏の盛りに夫の継縄さまが亡くなり、秋には風邪をこじらせた明慶が危篤状態になったのです。


高熱でうなされて意識も朦朧としている中突然明慶が目を開き、


「…お母さま?」と私を見てはっきりそう言ったのです。「本当は…ずっと前から思っていました…あなたが私の母ではないかと…そうなのですね?」


私は娘をわが胸に抱きしめ「そうです、私があなたの母よ!」と耳元ではっきり聞こえるよう答え、娘はかすれた声で「お母さま」と言ったきり目を閉じ、そのまま呼吸を止めました。


やがて「お母さまぁっ」と明鏡が泣きだし、母親の遺体に取り縋ってから私は正気を取り戻しました。


そうだ、私には明慶が遺したこの子がいる。この子を立派な女人に育てて幸せにするから、


明慶、明慶、日陰の子として生んで、日陰の女として死なせてしまった愚かな母を許しておくれ…


ひっそりと明慶を弔って間もなく、相手の男から「明鏡を正式に我が家の姫として迎え入れる」という内容の文が届き、私は激しく動揺しました。


あの男が娘に囁いていた言葉は戯れではなくまことだったのか!


明鏡の父親は有力な貴族家の男です。このまま父親に引き渡した方が孫娘の幸せなのか?それとも固辞すべきなのか?


どっちつかずの気持ちのままで宮仕えに復帰すると、全て事情をお分かりになられていた帝は私を抱き寄せ短く激しく嗚咽なさいました。


やがて感情の昂ぶりが治まりになられてから「朝原から話があるそうだ」と珍しくお傍にいらした春宮妃の朝原内親王さまと私を部屋に二人きりにして下さいました。


「あなた、皇女をひとり隠していますわねえ…その子を私に会わせてくれませんか?」


と耳元で朝原さまに囁かれた時、私の心は決まりました。


約束の日と刻限、明鏡を迎えに来た使いの者たちは百済王家の邸宅で「明鏡などという娘は最初からいない」と門前払いを喰らって途方に暮れていたでしょう。


一足先に私は息子の乙叡に命じて明鏡を連れ出させてこっそり宮中に入れてしまっていたのですから。


良く言えば最愛の帝との間にもうけた孫娘をやっと取り戻し、


悪く言えば明鏡をかどわかして実の父親から娘を奪う罪を敢えて犯したのです。



「神野さま、以上が年を取った宮女の罪の話でございます。わが孫明鏡は春宮妃さまの面接を受けてから3年間宮中で行儀見習いをし、あなたさまの元に仕えるよう命じられたのです」


「朝原の姉上はなぜ明鏡を私の所へ遣わしたのだろうな?」


「春宮妃さまは明鏡の顔をご覧になり『大きな泉が見える…神野のところへやりなさい』とお命じになりました」


どちらかといえば現実主義者の神野には朝原の姉上の言ってることは理屈が付かないし、納得がいかない。でも、元斎王の姉上はこの世界を独特の見方で見ていらっしゃるのだろうな。いくつもの神秘性と不可思議で成り立っているのが天皇家なのだから。と無理矢理自分を納得させるしかなかった。


「お前はさぞかし明鏡の実父に恨まれているだろうね」


「はい、かなり強く。娘を奪われたあの男は出世と復讐の為なら手段を選びません。神野さまの御代になった時、必ず宮中に禍を及ぼす危険な存在です。

いまここで神野さまには名を明かしましょう」


と尚侍明信に明鏡の父の名を告げられた神野は何だって!?とこころもちのけ反り、


「成程、確かに今ここで教えられなければ、私は即位を待たずに骸になっていただろう…感謝する。もう遅いからここまでにしよう」


と部屋の外で見張りをしていた三善高子に命じて御簾を上げさせ、廊下に出てすっかり冷え込んで露が降りた萩の庭を明信と並んで眺めた。


「明慶が逝ったのも、こうして庭の草木に露が降りる頃でした…」と初めて明信は涙を一筋流し、袖で拭ったのだった。


神野が自室に戻ると、室内では明鏡が明かりを灯して待っていて、伏し目がちなその横顔がとても頼りなく見えた。


「明鏡、お前の父は一体何を目指しているのだろうね?」


「とりあえず偉くなって宮中の奥深くに入りたいのでしょう。父の今の位ならまずは参議」


「欲しいもののためなら何でもするんだね」


「はい、私の父は、三位を取るためにまず海を渡ります」


と、来年唐へと出発する遣唐大使で皇太子安殿の信任厚い男、


藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろが父であることを明鏡は明かしたのだった。

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