第29話 菜摘29 飛べない小鳥
蝉の声がしなくなったわ、もうすぐ夏も終わりね…
と思いながら嘉智子が廊下を歩いていたちょうどその時、
夫、神野親王の部屋の入り口に掛かる御簾の向こうから少女の叫び声が聞こえた。
明鏡ちゃん!?
嘉智子は一瞬立ちすくんだ。が、意を決して
(あなたは何をするつもりなの?
と声を低めて耳元で囁きかけたのは神野の正妻高津内親王づきの命婦で侍女たちの指導役、
(ここでは親王様のなさることを止めることは出来ないのですよ)
高子が口を塞ぐ手にさらに力を込めると、橘家の娘は瞳だけ動かして一瞬だけこちらを強い目つきで見返し、やがて力無くうなずいた。
驚いたわ。入侍した時は暗くて気弱な娘だと思っていたのに…強くなったわね。
と思いながら高子は腕の拘束を解き、
「いい子ね…さ、あちらで一緒に果物でもつまみましょう」と嘉智子の手を引いてその場を離れた。
御簾の中では明鏡の上にのしかかった神野がわずかに膨らんだ少女の両の乳房の間に手のひらを当て、
「私の傍に仕えていながら、自分だけは無事でいられると思ってたのか?皇女明鏡っ!」
と威圧するように言うと少女の上半身がびくっ!と明らかに跳ね上がった。明鏡は自分が置かれた状況と不意に掛けられた言葉に動揺し、
「まさか…これはおじい様のいいつけ?」と思わず口走ってしまった。
「やはりそうだったか」
と神野が押さえていた手を離すと、とても哀しげな眼で明鏡を見下ろした。
急に自由の身になった明鏡は慌ててはだけた胸元を合わせると、あ、自分は親王様にかまをかけられたのだ。と悟った。
「手荒な真似をして済まなかった…許してくれ」と神野は身を起こして明鏡から離れ、姿勢を正すと頭を垂れて皇女明鏡に詫びた。
いいえ、と明鏡は首を振り何度か息を付いて落ち着きを取り戻してから「こうでもされないと私は決して口を割らなかったでしょう」と乱れた衣服を整えながら答えた。
「でも、いつから私を皇女だとお気付きに?」
「出会った時から」
は?と呆気に取られた明鏡の顔を見て「冗談だ」と真顔で言った。
「今年に入ってから父上と明信が連れだって私の女たちに会いに来られたこと6回。
その度に私は鷹の様子を見て来いだの大学寮で博士の講義を聞いて来いだの用事を言い付けられた。
まるでわざと私を遠ざけるようにな。
おまえが私の暮らしぶりを逐一報告しているのだろう、と女たちは疑いもしないが…私は思った。
父上と明信は、『お前に会いたいから』いらっしゃるのだ、と。
あのお二人にとってお前はどの皇子や皇女よりも愛しい存在なのだな。おそらくお前の親は父上と明信の間に出来た…」
「そこから先は私に言わせてください」
と明鏡が神野の話を遮り「今まで出自を隠していた非礼をお詫びします」と言って拝跪した。
「確かに私の母は帝と尚侍明信さまとの間に生まれた娘です。が、
私が7歳の時病で亡くなりました。私は祖母明信に引き取られ、行儀見習いとして宮中に」
そうか、と神野はひとつうなずき「ならお前は私の姪にあたるんだな。もし父上が誰かに産ませた娘だったらどうしようかと心配したぞ」
「心配とは?」
「お前と私が異母兄妹だったら気まずいではないか。父上は皇族の血を絶やさぬ為に30人以上いる我が子らに半ば無理に兄妹婚を奨励した。
私も異母妹の高津と結婚したが…
夫婦仲がうまくいってないのはおまえが傍で見て一番分かっているだろ?」
高津様との不仲は血の濃さからではなくご自分の浮気癖のせいじゃないですか?16才ですでにお手付きの侍女12人って多すぎでしょうが。
と明鏡は腹の底から思ったが言っても神野が浮気癖を改める訳ではないので黙っておくことにした。
この賢い少女は話の流れで神野が言わんとすることを察し、
「じゃあ、姪で少しは血が遠いからって…私と?」とさっきのような隙は出さぬ!とばかりに堅く身構えた。
「そうさせたいから父上はおまえを私の元に送り込んだのだろうが、
まだ膨らむものも膨らんでいない
当分は安心して仕えよ」
と笑って部屋を出て行こうとする神野に明鏡は怒って漢詩の巻物を投げつけた。その軸先がちょうど神野の背中に当たったので
「痛っ!」と叫ぶ主人を「親王様も隙だらけじゃないですか!」と小馬鹿にして笑い、御簾を上げた明鏡は羽ばたく小鳥の如く廊下へと駆け出した。
侍女部屋に戻ると橘嘉智子、百済王貴命、多治比高子が揃って大丈夫?恐くなかった?ととても心配した顔で明鏡を取り囲んだ。
「怖くて驚いたでしょうけど最初はそういうものなのよ。何回かで慣れるわよ」
「親王様は女人の扱いには長けていらっしゃるから乱暴にはなさらなかったはず」
「はっきり言って実家よりもここの方が女人たちの待遇がいいんだからねっ!」
どうやら自分は親王様のお手が付いたばかりと侍女たちに誤解されているのに明鏡は気づき、
「い、いいえっ!あたしはまだ何もされてませんからっ」と顔を真っ赤にして否定した。
「え、あなたまだ生娘なの?なんだ…」
と3人の侍女たちは顔を見合わせて自分たちの早とちりを恥じるのと同時に、
明鏡だけがまだ
とそれぞれに自分の女心を不思議に思うのだった。
その頃、神野に呼び出された三善高子は「嘉智子に肝心なことは聞かれていないのだな?」と問われて
「はい、すぐに別室に連れ出しましたので。なれど御寵愛のかたに無礼を働いてしまいました…」
と自分が嘉智子にしたことをありのままに報告し、床に額づいて謝罪した。
「よい、お前はお前の働きをしたまで」
と神野は高子を許すと「お前は最初から明鏡の出自を知っていたのだな?」と鋭い眼光を面を上げた高子に射込ませる。
「ずっと明鏡さまを見守ってほしいと尚侍さまから頼まれていました」
「なぜ内親王として遇されるべきあの子が侍女として私の元に来たのか?父上と明信、若い頃愛し合っていた二人にとても深いわけがあるのだろう…
命婦、明信と二人きりで話をしたいのだが」
は、すぐに尚侍さまにお伝えいたします。と三善高子は言って神野の前を辞した。
神野は高子の機敏な働きぶりを見て、さすがは征夷大将軍、坂上田村麻呂の正妻。
武家の女というのはいつも肚が据わっているものなのだな。
と感心して廊下を足早に去る高子の後ろ姿を見送った。
「神野親王さまが二人きりでお話をしたいと仰せです」
と尚侍明信のところに三善高子が知らせに来た時、空には稲妻が光り、数瞬の間を置いて轟音が辺りに轟いた。
とうとうこの時が来てしまいましたわね…と明信は覚悟を決めて顔を上げ、
「面会の日取りと場所をあなたに任せます」と高子に指示して自室に帰ると、
6年前、敢えて罪を犯そうと明信に決心させた朝原内親王の一言を思い出していた。
「あなた、皇女をひとり隠していますわねえ…その子を私に会わせてくれませんか?」
私は一度だけ、宮女ではなく一人の女としての我を通した。最愛の人との間にもうけた孫を取り戻して何が悪いの?
と思って断行したことが、とても大きな不吉な結果を招きそうで…怖いわ。
朝原さまに秘密を見透かされたあの時も確か大雨と共に雷が鳴っていた。
「不思議なこと」と明信は誰にともなく呟いた。
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