第28話 菜摘28 斎王

強き人が人を支配する。


というこの世ではよくある単純な政治の在り方がなかなか通用しない国がある。


その国では天皇家という姓を持たない特殊な一族が古来より祭祀とまつりごとを執り行い、それは天照大神の子孫とされる血脈に依って代々受け継がれてきた。


天皇は政の頂点に立って国事を取り仕切る表の存在。その影で天皇の治世を支える為に聖域の伊勢に籠り、清らかな身で国の安泰と豊穣を祈り続ける皇族の娘たちがいた。


太陽神の巫女として祭祀を執り行う神の娘たちを人びとは崇敬の念を込めて


斎王さいおう、と呼んだ。


 

桓武帝の皇女、朝原内親王あさはらないしんのうは4才の時に斎王に選ばれ翌年伊勢入りし、12年間伊勢神宮に籠って神に仕えた。


朝原が17才になった頃、都から勅使の橘入居たちばなのいりい(橘勢逸の父)がやって来て「斎王の任を解く」という桓武帝の宣命を読み上げるといつも物静かな伊勢の巫女たちが一斉にざわついた。


斎王職は普通、天皇の譲位・崩御、斎王の病、肉親の不幸がない限りは辞める事は無いのだが「なんの忌事もなかったのに」朝原は斎王を解任されたのだ。


一体なんのためなんでしょう…?


と周りの侍女や巫女たちが囁き合っているのを聞きながら朝原は悠然と輿に乗り、伊勢から新都平安京に向かった。


都に用意された邸に入るとまず母の酒人内親王さかひとないしんのうが涙を流して出迎えてくれた。


「また会えたのね…」と娘を抱きしめて声を詰まらせる母も若い頃は斎王であった。が、その任期はわずか4年。


母の井上内親王いがみないしんのうと弟の他戸親王おさべしんのうの幽閉先での急逝という「身内の不幸」が起こり退下し、異母兄で当時皇太子になったばかりの山部王(桓武天皇)と結婚して25の時に朝原を産んだ。


だから、可愛い一人娘が斎王に選ばれた時は小さな朝原を抱きよせて抵抗し、迎えの使者たちに娘を引き離されて「嫌でございます!」と泣き叫んだという。


「都が変わってあなたが居ない間に色々なことがあったのよ…帝もご心痛を癒す為にあなたを呼び寄せたのかもしれません」


と酒人は娘に長いお喋りをし、やがて話し疲れると暗くなる前に御所に戻った。夕餉を済ませて寝所に身を横たえた時初めて


ああ、私はもう巫女ではなく、一人の皇女に戻ったのね。という思いが頭をよぎったが、やはり何の感慨も湧かなかった。


私は長く神域に居過ぎたのだから心のありようが人と違うのだ、仕方ない。と朝原は割り切り、旅の疲れもあってその夜は深く眠った。


父帝が会いに来られたのはそれから随分経ってからの、小雪の散る冬のお昼前だった。想像していたよりも老け込まれた父のお姿を前に朝原はつい驚いた顔を団扇で隠してしまった。


「久しぶりだね、ここでは不自由してないかい?」


「いいえ別に。でも伊勢よりも夏は蒸し暑かったわ」


「父は慣れた。お前もいずれ慣れるさ」


「はい」


と父娘は短く会話したきり黙り込む。傍らの侍女たちが心配するほどの長い沈黙が続いた。


やがて父はひとつ空咳をし、上目遣いで顔を上げると


「おまえを呼び戻した訳なんだがね、おまえの兄で皇太子の安殿あてと結婚してほしいんだ…頼むよ」


と突然の縁談で、しかも異母兄妹同士の政略結婚を切り出したのだ。


ついこの前まで斎王でいらした皇女さまになんと強引な!!


と伊勢から付き従ってきた若い侍女たちは驚き過ぎて怒りすら沸いたが、朝原だけは「やはりそうでしたか」と全て見通していたかのように答えた。


その言葉を娘の承知、と受け取った桓武帝は喜んで御所に戻り婚儀の支度を進めた。


年が明けて正月の宮中行事が一通り終わるとすぐに朝原内親王は異母妹の大宅内親王おおやけないしんのうと共に皇太子安殿親王に嫁して春宮妃となった。


これが6年前のこと。


最澄、俗名三津首広野よ。


拙僧のまなこでみるお前の本質は、近江に広がる琵琶湖の如きあらゆる生き物を育む水。


だが、


お前の説く「正しき教え」が拙僧の心に響かぬのは何故か?


お前の心の中の湖には、生き物が全く住まうておらぬのだよ。


最澄よ、お前は己が頭の中に詰め込んだ仏の言葉を本当は…



「…と、いう訳でまた法相宗の徳一が最澄と論戦になりましたが、お互いが自分の主張を訴えたのみで物別れに終わりました。一体何回目になりますかね、ははは」


と昔馴染みの老僧、戒明の報告を聞く桓武帝は「そうか、また論破するには至らなかったか」顎髭に手をやり残念そうに天井を見つめた。


それから東大寺から届いた文箱を手元に引き寄せて蓋を開け、


あなた様の目論見が上手くいかなかった時のために、この男を唐へやってはどうかね?


という内容の文と紙袋入りの丸薬とその処方の書きつけ。それに、都とその近辺の知識階級にすでにばら撒かれている私度僧空海の書いた手紙、「聾鼓指帰」を戒明の前に広げて見せた。


「空海の叔父、阿刀大足あとのおおたりがすべて白状したぞ。大安寺の勤操や大学寮の学生たちを使って僧侶、貴族たち…果ては我が皇子たちまで読んでしまっているこの手紙。

すべてはお前の入れ知恵だそうだな?戒明」


「兄弟子にも読まれていましたか」と戒明和尚は華厳宗の兄弟子、実忠のいつも何考えているか分からない青い瞳を思い浮かべ、口元で小さく笑った。


「実忠といい、おまえといい、華厳宗の坊さんたちは肚の底が知れぬ」


と脱力して脇息にもたれる桓武帝は、いつにもまして疲労しているように戒明には見えた。


「二年前のあの夜だ。お前が遣唐使船に乗せたい若者がいる、と言ったがその名をわざと明かさなかった。

私が佐伯の名を聞いて、この手紙を書いた佐伯真魚とやらにいらぬ事でもすると思ったか?」


そう聞かれて戒明は正直にあの時の心情を告白した。


「ええそうです。あのような恐ろしい話を聞いてしまった直後ですから警戒しました。拙僧も可愛い弟子を失いたくない」


「うん、そうだな…お前は正しい」


と桓武帝は尚侍明信に言って白湯を持って来させ、実忠から贈られた丸薬を躊躇なく飲み下した。


「最近体がだるくてな…。御所に典薬寮はあれど、結局は実忠の薬が一番効くので頼んで取り寄せている…で、本題なんだが」


と桓武帝は眼で合図をすると明信を下がらせ


「私もこの手紙を読んだ。若さゆえに感情に走っている部分はあるが、儒教、道教、仏教の三教比較論としてはよく書けている。

単に仏教以外をけなした内容ではなく最後の十韻詩で全ての教えを称えてうまくまとめ上げている。合格だ。

お前が十年かけて育てただけはあるな」と教え子の卒論を添削する教授の如く論評して見せた。


桓武帝自身も昔大学頭だった頃の気持ちに戻って楽しく手紙を読んだ一人なのだが。


「空海に才があるのは分かった。が…遣唐使の人員はほとんど埋まってしまっているし、私が最澄を強引に推したせいで奈良の僧侶たちやそれを庇護する藤原氏からかなり反発を買ってしまった。

大使の葛野麻呂かどのまろなどは『最澄と同じ船に乗って死にとうはない!』と怒り出す始末。仕方ないから最澄を二の船に乗せる事にした。

私の方からもう一人僧侶を、と言われても…困る」


それはご心配なく、と戒明は笑って答えた。


「空海の留学は兄弟子に推薦してもらいますので」確かに実忠ほどの実力者ならばすでに決まっている留学僧の人事を動かして空海をねじ込む事など造作もない事であろう。


「うむ、お前に任せる…ところでお前は神野に妙な事を言ったそうだが」


戒明の眼が用心深そうにすっと細まった。


今日の昼過ぎ、内裏の庭で貴族の子弟たちが蹴鞠に興じていた時だった。


残暑のきびしい陽射しの下で眩暈を起こし、戒明は膝を付いて倒れた。その様子に気づいて遊びを中断した若者たちが大丈夫か?老僧を取り囲んだ。


「いえ…単なる立ち眩みで。目がかすんでしまって」と手を差し出してくれた若者の手を取り、つい口走ってしまったのだ。


「あなたさまが肩に乗せてらっしゃる輝く鳥は何なのですか?」と。


神野親王はその時虚を衝かれたように黙り込んだ。が、気を取り直すと舎人たちに「この僧を介抱せよ」と命じて再び遊びの輪の中に戻った。


戒明は再び毬を蹴上げる親王さまの後ろ姿を見たが、もちろん肩には何も乗せていない…


「お父様、その者には私と同じ清庭さにわの力があります」


サニワ?背後の声に戒明が振り向くと、垂髪を腰まで垂らした真っ白な巫女装束の女性がすぐ目の前にいた。


三日月型の濃い眉に彫りの深い目鼻立ち。彼女の眼差しからは強い意志と誇りが感じられた。


「紹介しよう、我が娘で春宮妃の朝原内親王だ」


「妃といってもまだ生娘です。おかげで御神鏡の巫女として好きなようにやらせてもらっています」と朝原はほほ、と笑って意地悪そうな笑みを父帝に向けた。


「それはまた後で説明するから…」と桓武帝は話を本題に戻した。


清庭さにわとは神道で神の託宣を受ける者のことだ。

祖母の井上内親王から母娘3代続いた斎王の血ゆえか、朝原は生まれつき霊力が高い。

常人には視えぬものが視え、人の本性を見抜くことが出来る。私も何度か朝原の力に助けられた…

この朝原がな、お前に会いたいと言うから今宵ここに呼んだ」


朝原は戒明と正対し、心の奥底を透視するようにその目を覗き込む。


「お前は荒行の末に霊力を身に付けてしまったのね。自分自身でその力を疎んじているけど、必要な時に告げるべき者に告げるのを止められない。

そういうものなのよ…

ふうん、空海の本質は清浄たる炎で、と最澄の本質は万物を育む水。この二人が大陸から仏の教えの神髄をもぎ取って帰って来るのね。楽しみだこと」


己が心眼で視た空海と最澄の本質を言い当てられた戒明は何か大きな力に肩を押されたような感覚になり


「参りました…」と朝原の前に額づいた。


「おまえに聞きたい事がある、私にも神野の肩に輝く鳥が視えます。

でも正体が解らない…この国一の知識人のお前に聞きます。あの鳥は何?神野はどんな使命を持って生まれてきたの?教えて」


「申し上げます」御神鏡の巫女の前で顔を上げた老僧は、一片の曇りもない心で語り始めた。



賀美能


と自分で書いた字を矯めつ眇めつ眺めて神野ははあーっと吐息をすると、不貞腐れたように自室の床に突っ伏した。


「一体どうなさったのです?」とその様子を見ていた侍女の明鏡が呆れて神野の肩を揺すると、神野は文机を指差し、


「その紙を持って見せよ」と命じた。


「賀美能…かみの、と読めますが」


「本当の私の諱だ。幼い頃、叔父の早良親王の祟りから守るために改名させられたのだ。兄は小殿から安殿、私は賀美能から神野、と。…こうして書いてみると元の諱の方がいい」


「今更そんな我儘を申されましても」と明鏡は言い返したが内心、確かにこっちのお名前のほうが古風で好きだわ。


と神野の書いた字をうっとりして眺めてしまって、背後から神野が「一緒に見よう」と自分の肩を抱き寄せるのを、いつものことだと思っていた。


だが次の所作はいつもの神野とは違っていた。一瞬で明鏡のからだは神野の下に組み伏せられ、もう片方の手で裳の腰帯を解かれて上着の前をはだけさせられ、両の乳房を露わにさせられていた。


え?まさか…明鏡は怖さと恥ずかしさの入り混じった気持ちで叫んだ。


「な、何をなさるのです、親王さま!?」

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