第19話 菜摘19 多治比高子

親王様に抱かれた後の沼の底に沈むような眠りの中から程なく、水面に沸き立つ泡のようにふわっと意識が軽くなり、


神野親王付きの侍女、多治比高子は短い熟睡から目覚めた。


こんなにも眠りが短いのはやはり暑い夜だからだろうか?額も、乳房の谷間もしとどに汗で濡れている。


房事の後の目覚めはいつも手足の先と頭の芯がしびれた感じになってそれは半日続く。


汗まみれのからだを半身起こすと高子は、隣で上半身裸の親王様が脇息にうつぶせになって何か文を読んでらっしゃるのを見ると、


ああ、親王様も暑さで眠れないのだな。と慌てて布で汗を拭いて夜着を整え、


「何をお読みになってらっしゃるのですか?」と神野親王の筋肉の張った肩に手を置いて尋ねた。


「鷹狩りの帰りに三守がくれた文だよ。なんでも大学寮の学生の中で出回っているらしい」


これは絶対お読みになるべきですよ!但し、大学寮の博士たちや特に帝には内緒に、こっそりと読んでくださりませ。


とにやにやしながら三守は狩装束の襟元に手紙の束を入れてくれた。


大人にはばらさずに、なんてさては何か艶めいた内容か?と期待してこうして真夜中に開いてみると…


「とある私度僧の出家宣言の手紙なのだよ…なんだ。と思って一応読み進めてみると、これが面白い!」


「まあ」


神野は高子に読み聞かせするように手紙を朗読した。



「文章が書かれるには理由があります。


天が朗らかに晴れ渡っているときは、吉凶をあらわす象を垂れ、人が何かに感じるときには筆を取るものです。


このために心の動きを紙に記して、鱗卦、耼篇、周詩、楚賦などの優れた古典が出来上がったのです。


凡人と聖賢、昔と今で、人も時も異なるとはいえ、人の憤りを写すのは同じこと、わたくしもここに志を述べましょう…


と長々と大学寮辞めて出家したい言い訳を述べた後で、儒教、道教、仏教の例えばなしが始まるのだよ」



内容はこうである。



長者兎角ちょうじゃとかくこう公の屋敷に儒教の師、亀毛きもう先生が招かれて


「どうかならず者の甥を更生させて下さい!」と切に懇願する。


兎角の甥、蛭牙しつがはやくざ者たちとつるんで乱暴を働き、賭博をし、大酒を飲んで女とまぐわるとんでもない問題児であった。


亀毛先生は最初は渋ったが「優れた儒者の先生にしかできないことです」と兎角におだてられて、仕方なく蛭牙に


「ならば儒教を学ぶがよろしい。人間というものは学ばなければ自然と悪の方に流れていく。


道・徳・仁・義・礼・智・信を常に心に留め生活しなければならない。


さすれば周りの人びともお前を次第に尊敬するようになり、高い地位に恵まれて豊かな財と大きな家と、美しい妻を得て、毎日お前を慕って訪れる客が絶えない家になるであろう。


それが人間としての、真の幸福なのだ」


と説き、先生の話にすっかり感銘を受けた蛭牙は、「必ずや先生の教えに従い、努力します!」と誓うのだが…


「ふっふっふ、それはどうかな?」


と亀毛の論に異を唱える者がいた。道教の修行者、虚亡隠士きょぶいんじの登場である。



あの、と高子はここまで読んで


「虚亡隠士は、いつからそこにいらしたんでしょうかね?」


とたまらず言いたかったことを言ってしまった。


「うむ、そもそも隠士は呼ばれてもいないだろ。と私も思うのだが…ここから虚亡の道教論が始まるようで一気に読みたいのだが、なにせ、文章が長い。

とても一晩では読破出来ないし、あと三、四日はお前のもとに通うが、いいか?」


と言って神野はくわあっとあくびをして文を高子の褥の下に隠した。


まだ16の少年、若い内は眠いものである。


「それは構いませんが」


と高子はこころもち顔を傾けてずっと前から思っていたことをこの際思い切って聞いた。


「どうして…私のような不美人をこんなに可愛がってくださるのですか?」


色白だが、目が糸のように細くて丸ぽちゃの高子をどうして寵愛してくれるのか、最初の契りから不思議に思ってしょうがなかったのだ。


14才の高子が「宮中に入り皇后さまの第二皇子のお仕えせよ」と父に言われて入侍したのはちょうど初笄はつこうがい(貴族の女子の成人式)した12の時。


多治比家の先祖、多治比嶋たじひのしまが左大臣であったのは持統天皇の御代でもう百年以上昔の話。


橘奈良麻呂の変に巻き込まれて多治比家も没落し、お家の再興のために神野親王に仕える身となった、ほとんど嘉智子と同じ境遇の娘であった。


神野は高子の長い髪を指でかき分けてふっくらした耳たぶを唇で吸いつつ、耳元で囁いた。


「だって、お前は四書五経(儒教の教科書)を諳んじる賢女であるにも関わらず、それを他の女たちにひけらかさない。

奥ゆかしさもまた、心の美しさでもあるのだよ。一緒に『文学』を楽しむ女人はお前しかいないのだ…」


耳たぶから首筋に唇を這わせ、左手を再び可愛い賢女の胸元に差し入れ、優しく揉みしだいた。


小鳥がさえずるような声色で神野の手の動きと共に喘ぐ高子はすっかり脱力し神野の下になりながら思った。


でも結局、眠る前になさることはなさるのですね…


それからの高子の意識は、神野の体の動きに合わせて押し寄せて来る痺れのある熱い波にすっかり呑み込まれて自身も熱い波となった。

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