第20話 菜摘20・吉祥天女たち

ねえねえ、親王様は連日高子さんの寝所に通い詰めのようね。


えーえ、ほら見て下さいよ。高子さん、お勤め中の昼日中からあくびなんかしちゃって。


親王さまと随分お励みのご様子…いやらしいっ。いい?やるわよ!


はい!


うふふ、くすくす。


あの…やはりお止めになった方が…


今高子さんが通るわよ!


ほどなく、ひと仕事終えた多治比高子が休憩部屋に行こうと廊下を歩いている途中で、「もし」と自分を呼ぶ幼い声に振り返った途端、


顔に薄衣を被せられて複数人のものらしき細い腕に絡まれて、


高子のからだはたちまち衣裳部屋じゅうに広がる色とりどりの絹布の上に仰臥させられてしまっていた。


宮中に入ってすぐの頃は

「あの不器量な娘がどうして親王様の御寵愛を受けるのかしら?」と女官たちから陰口を叩かれてひとり涙した事があったが…


直接こんな狼藉を受けたのは初めてだ!


「何をなさるの!?いくら落ち目の多治比家の娘だからといってしていいことと悪い事があるわっ!」


と顔に巻き付いていた布を自分で剥ぎ取って、高子が自分を押し倒す手に思いっきりしっぺを食らわせた。


「あいたっ!」と叫んだ明鏡が自分の手の甲を押さえて高子の胸から転がり落ちた。


「明鏡っ、このいたずら者!」と怒った高子が明鏡の裳裾もすそ(宮中侍女のスカート)を掴んで引き寄せて、さらにぶとうとした時「おやめになって!」

と止めたのは、橘嘉智子と、その隣でしたり顔をしている百済王貴命だった。


二人とも高子と同じく神野親王の御寵愛の侍女たち。

勝気な性格の貴命と、いたずら者の明鏡はともかく…


「まさか嘉智子さん、あなたまで」と高子は絹布の上に座り直して呆れて嘉智子の済まなそうな顔を見上げた。


「御免なさいね。私が明鏡をそそのかして高子さんの秘訣を聞き出そうとここに連れ込んだの」

と高子の目の前にしゃがみ込んで、貴命は神妙な顔で謝罪して見せた。


「つまり、いたずらするのに人手が足りないからと貴命さまは嘉智子さまとあたしを強引に誘って事に及んだのです」


明鏡が余計な説明を付け加えるのを貴命はめっ!と睨み付け、明鏡はひゃあっ、ご免なさい。と大仰に首をすくめてみせる。明鏡の隣でさらに視線を落とす嘉智子。


その様子が妙におかしくて、高子はさっきまでの怒りの沸点が急激に下がってしまった。


「秘訣ですって?ははーん、分かりました。

ここにお集まりの女人がたは、さえない容姿をしている私がどうして四連夜も親王さまをお引き止めしているのか、

何か秘訣があるに違いないと思ってらっしゃるのですね?」


「さすがは高子さま、鋭い…」

明鏡が桜の花びらのような唇をぽかんと開いて自分たちの浅はかな考えを見破った高子を、畏敬の眼差しで見つめた。


「秘訣ですって?唐の後宮じゃあるまいし、秘伝の房中術なんて多治比家には、あ・り・ま・せ・ん。それに、ここ四連夜親王さまがなさっているのは閨事ではなく…」


と高子は神野から口止めされているのをうっかり忘れて、親王様がとある私度僧からの手紙に夢中になり、教養高い高子に手紙の難しい部分を解釈してもらうために高子のもとに通っているのだと喋ってしまった。


なーんだ、と貴命はすとんと両肩を落としてもう興味ない、という風に絹布の上に寝転がってしまった。

「じゃあいま親王様が夢中になってらっしゃるのは、女人ではなく…」


「はい、空海というお名前の私度僧なのです。聾鼓指帰ろうこしいきと題された手紙の作者なのよ」


「親王様を夢中にさせるなんてどういうお手紙なのかしら?」


と嘉智子が珍しく食い気味に聞いてきたので、高子は


「ここだけの話ですよ」とかいつまんで空海の書いた物語のあらすじを説明してあげた。夫神野に「秘密だからな」と念押しされた手紙の内容が、ここだけの話方式で新たに3人の侍女に知らされる。


虚無隠士が儒者の亀毛先生を自分の道教論で言い負かすくだりを夢中になって語る高子の上気した顔を見ながら、


やはり女子供は、秘密を守れない生き物なのだ。宮中に入ったら発言に気を付けなさいよ。という母上の言い付けは本当だ。と貴命はつくづく思った…


「それで、親王様はまだ手紙をまだ読み終えていないのですか?」

「ゆうべはやっと乞食僧こつじきそう仮名乞児かめいこつじが登場した所で親王様は寝入ってしまわれたから、今夜じゅうに読み終わると思うわ。解釈に付き合わされる私はもう眠くて眠くて…」


「高子さんもご苦労様」と貴命は実家の百済王家に伝わる施術でぱんぱんに凝った高子の肩を揉みほぐしてあげた。


「目と頭を使い過ぎと、睡眠不足ね。私から内親王さまに言っておくから明日は休んでなさい」

内親王、と聞いて高子はうつぶせになっていた頭を急に上げて、

「内親王様が何て!?」と少し怯えた目で貴命を見た。


「あなたが心配しているような悋気ではないわよ。

だけど『一番先にお兄さまの御子を授かるのは高子かもしれないわね』と意味深な事を言われたのよ…ご正妻の高津内親王こうづないしんのうさまは表面では気丈に振舞ってらっしゃるけど、本当はご自分は病弱だから親王さまのお相手をあまり務められない事を気に病んでらっしゃるのよ」


最近、高津さまは季節ごとに襲われる偏頭痛に悩まされて寝付くことが多くなった。


皇女としての矜恃と、親王の正妻としての重圧。高津内親王の病の原因を口に出さずとも気付いている4人の少女たちは、皆一様に黙り込んだ。


「あたしも宮中に入った時は自分の身を儚んだけど…ご正妻に比べるとあたしたち侍女は気楽ですわね!貴命さまっ」


沈みかけた空気をわざと明るくするように明鏡が声を張り上げてぽふん!と貴命の背中にもたれかかった。

「生娘はお黙り。神野さまづきの侍女でまだお手付きでないのは人妻たちとあんたぐらいよ…それにしても不思議ね、明鏡あんた、もう13になるのにまだ親王さまのお手が付いてないなんて」

と貴命が首をかしげると


「きっと口が悪くて物事をずけずけ言うから、親王さまが警戒してらっしゃるのよ。このお喋りな小鳥は親王様が閨でなさった『あんなことやこんなこと』を喋ってしまうに違いないって」


「高子さまひどい!」と明鏡が長い絹布の端をぽふっと高子の大きな乳房の谷間に投げつけた。

「やったわね!」と高子も笑って脱いだ背子はいし(女官の制服のベスト)を投げつける。明鏡は身を翻して高子の投げた背子を見事に避けた。


長いお喋りをしている間に4人の侍女たちはいつの間にか透けた藍色の衣と裳裾だけという下着同然の恰好になっていた。


うだるような酷暑の平安京の屋内である。こうして人目に立たない所で薄着になってないと暑気あたりで倒れてしまう。


嘉智子、貴命、高子、明鏡は夕餉の刻限まで絹布の巻物を広げて領巾ひれのように我が身に巻き付け、仏画の吉祥天女のごとく笑い、舞いながら部屋中を走り回った。


この二十歳にもならない四人の少女たちのうち


一人は皇后となり女人としての栄華を極め、


一人は嵯峨帝後宮を取りまとめる伝説の女御となり、


一人は夫人ぶにんとして寵愛されながらも短い生を終え、


そして一人は、この国の未来に大いなる遺産を残す、


将来の嵯峨王朝を守る吉祥天女そのものとなる。
































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