第18話 菜摘18 皇嗣

嘉智子が写経の最後の一文字を書き終えて手を合わせ、少し風に当たろうと立ち上がって部屋から出ようとした時、


部屋の外で夫の神野親王が「終わったか?」と廊下に座り込んだまま首だけ振り返ってこちらを覗き込んでいるのを見て嘉智子は、


親王様はいつからここで待っていらっしゃったのだろうか?


まさかわたくしが写経を始める半時(一時間)前からだろうか、と思ったと同時に、


自分のような一侍女に気を遣う夫の人柄に、ますます惹かれていく自分の気持ちに戸惑った。


所詮自分は、親王様の十人以上いるお手付きの侍女のひとりに過ぎない。


橘家の栄達のため、と後見人の藤原内麻呂さまがおっしゃていたけど親王様にはすでに正妻の皇女さまがいらっしゃるし…


本気でこの方を愛おしく想ったら後で苦しむだけだ。

と自分に言い聞かせていたのに。


神野の足元には大きな水盆が置いてあり、そこにはあらゆる夏の花が切り花のままところ狭しと縁に並べられている。


「好きな花を選べ、生けてやる」


と神野は嘉智子がためらいがちに選んだ数本の花を水盆から取って部屋に入ると奥の厨子の前の花瓶に生けてあげた。


きっと今日の鷹狩りの時に、ご自分でお選びになった花を摘ませて持って来られたに違いない。


夏の花は色合いが派手で香りがきつくて、仏花には合わないのでは?と思っていたけれど、

親王様が木の枝と組み合わせて生けた花は…まるで野から生え出でたような生命力のある美しさではないか!


この方には生まれつき、美しいものを創り出す才が備わっているのだわ。


と嘉智子はため息を洩らさずにはいられない。


だけど神野が、部屋に入ってからずっと黙って、というよりばつが悪そうな顔で自分のほうをちらちら見ている事に気づいて嘉智子はけげんな顔をした。


「その…この前は済まなかった」


と頬をかいて神野が謝った理由を思い出して、嘉智子は、


一昨日の房事のことをおっしゃっているのだ!


と恥ずかしさで顔を赤くしてしまった。


あの夜、親王様はいつもより激しくわたくしをお求めになった。それは何か、ご自分の中の昂ぶりをぶつけてくるような荒々しい抱き方だった。


自分もつとめて親王様のなさること全てを受け止めようとしたが、途中で体の奥から来るしびれでどこからどこまでが現か分からなくなり、


思わず親王様の両肩にしがみついて言葉にならない声を上げてしまった。


朝が来た時には床に親王様のお姿は無く、自分は昏倒したまま眠ってしまったのだ。


と全裸に衣を被せられたままの姿で嘉智子は目覚め、身支度をしていつもの務めに入るが、余韻で頭の芯がぼうっとしている…


目線を泳がせて衣装庫で衣服の整理をしていると、他の侍女たちがくすくす声を忍ばせて笑っている。


昨夜そんなに大声を出してしまったのか?と


嘉智子が恥ずかしさでいたたまれなくなっていると、「あれは親王様は相変わらずね、と呆れて笑っているのよ。いちいち恥ずかしがっていたらこの先もたないわよ」


と衣裳部屋を任されている侍女、貴命が気安く声をかけてくれたのだ。


「表向きの事で親王様に何かあったに違いないわ」


と神野の「最初の女」貴命は夫の癖なら何でも知っているというような口調でお喋りしながら衣装の整理を続ける。


「父も兄もそうだけど、殿方って表向きの務めで何かあるとすぐ家の女たちに当たったりするのよね。

私も母上も、何度癇癪を起した父に物を投げつけられたか分からない…

外では威厳を保っていても、殿方って実際は弱くて折れやすい生き物なのよ。親王様はお優しいからここでの暮らしに私は満足しているけれどね」


「わたくしは…三歳の時に父を亡くしたので後見人と親王様以外の殿方に会った事はありません」


と入侍して一年の嘉智子はすっかり慣れた手つきで衣を畳みながら言った。


「え?ご兄弟とは一緒に暮らしているでしょ?親類にだって殿方はいらっしゃるでしょ?」


結婚まで一度も男に会ったことがない。という嘉智子の話を貴命は何か変だ、と勘付いたのか実家での嘉智子での生い立ちをさも日常会話の延長みたいに喋り方に気を付けて聞き出すと、


「あなたはもっとひどい目に遭って育ってきていたのね。

父の遺言で兄弟にも顔を見せてはいけないと一室から出られず育ったって…」


と言って切れ長の目から涙をこぼしたのだった。


わたくし、何かいけないことを言ったのかしら?


嘉智子は訳が分からず、泣き伏す貴命の背中をさすってあげた。


その様子を見ていた親王のお世話係、明鏡は、


嘉智子さまは、世間知らず過ぎてご自分が閉じ込められて育ったことにお気づきにならないのだ!


なんという事だろう。


と胸の奥から何か口惜しさがこみ上げてくるのをどうにか自分の内に収めた。


明鏡は十三歳になり、花の蕾が日差しを受けて開いていくのを止められないように幼さが抜けて、愛らしさから時折怜悧さがのぞく美しい顔立ちをした少女に成長していた。



薄暗い小屋の中でぴーっと鳴く若い鷹が、金色の目の眼を光らせこちらを見ている。


「次の皇太子は神野、お前だ。父は伝えたからな」


昨日の夕方のことである。昼御座ひるのおましから夜御殿に向かう直前、父帝が神野を呼びつけて、唐突にそう言ったのだ。

 

延暦二十一年(802年)の初夏のこと。後の嵯峨天皇が皇嗣に決まった瞬間であった。

 

その時の自分はどうしていただろうか?

 

「謹んでお受けいたします」と表に一切感情を出さずに親王の色である深紫の袍ごと体を折り曲げて隙の無い所作で深々と一礼したのを見て父上は

 

「お前も大人になったものだな」と感心なさったように言われた。でも自分は中身がまだまだ子供なのだ。


私が、天皇に。


七日後の朝議で発表されるまで誰にも口外するなと言われた「我が身に起こった事態」を、父上の御前を辞してから一歩地を踏むごとに心の中で呟いていた。

 

味を感じない夕餉を済ませた後、じわじわと肚の底からやってくる昂ぶりを抑えきれずに、

衣に香を焚き染めに部屋に入って来た嘉智子の手首を掴んで

 

そのままよしないことをしてしまった…

 

「怒っているだろうなあ…」

 

というため息交じりの後悔の言葉を隣で鷹を覗き込んでいた一つ上の幼なじみ、藤原三守が拾い聞きして

 

「どの女人を怒らせたのですか?」口の端からうふふ、と笑いを洩らして聞いてきた。

 

三守は神野自身の重た過ぎる事情など知らず、

 

三守はやあ、あの鷹は賢そうだ、とか明日はよい働きをしてくれるでしょう、とか実にお気楽な口調でぽんぽん語りかけてくる。

 

この際三守が勘違いしてくれたのは好都合である。嘉智子とのことを相談してしまおう!

 

「うむ、結婚して八か月でようやく分かった。表には出さないひとなのだが、静かに怒っているに違いない…相手はお前の義妹なのだ」

 

相手が妻の妹の嘉智子で、神野が昨夜嘉智子にしたことの仔細を知ると三守は最初は親王様の床事情を聞く破目になって戸惑い、次第に恐いくらい真顔になって、

 

「それはいけませんね。怒らせたのなら許してもらえるまできちんと謝らなければ」

 

と身分の上下構わず女人に手が早いが相手の心の機微に疎い未熟者の義弟を叱った。

 

「しかし、どうやったら嘉智子に許してもらえるだろうか?」

 

「義妹の好きな品物を贈るがいいでしょう。女人はそれで七割は許してくれます」

 

「嘉智子の趣味は、写経と、仏画だ」

 

「…」


再びぴーっと若鷹が鳴いた。

 

三守は絶句してしまった。妹は宮中に入るより尼になりたい、と言っていた変わり者だと妻の安子から聞かされてはいたが、

 

まさか、人妻になってからもそこまで仏道三昧とは。

 

「さすがは廬舎那仏るしゃなぶつ(奈良の大仏)建立に尽力した橘諸兄の子孫、といいますか…」

 

「かといって仏像や経典を嘉智子に贈るという訳にもいくまい。実は仏教を疎んじている父上にお叱りを受けてしまうだろう」

 

「あんなに最澄和尚を重用なさっている帝が?」

 

「分からぬか?三守。最澄も、彼の者が掲げる天台一乗の教えも、父上にとっては『道具』でしかない。

この日の本独自の仏教を作るための、な。父上はそういう御方だ」

 

大陸伝来の奈良の仏教を遷都までして冷遇し、南都六宗に真っ向から否を唱える最澄さえも道具として利用しつくす。

 

その政治のやり方は果敢とも言えるが藤原氏を始めとする貴族たちにとって帝の政策は、果敢だが性急過ぎて戸惑っている。

 

いや、ついていけなくて不満も出て来るというのが正直な想いである。

 

神野が日頃餌付けをしている若鷹が、振り向いてほしいとでも言うように翼をはためかせ、二人の若者は一時会話を中断した。

 

さすがに御所の離れの主鷹司しゅようし(鷹と猟犬を飼育、調教する部署)でする内容の話ではないな。

 

と思ったからだ。

 

「しかし、明日の鷹狩りが楽しみだなあ」

 

「そうですねえ」

 

とわざと話を別の方向に切り替えていると、離れたところで畏まって控えていた四十がらみの鷹戸たかかいべ(鷹匠)が、

 

「あのう、女人に贈って喜ばれるものは、やはり花でしょうな」

 

と自分が妻と喧嘩した時の対処法を若者たちに伝授した。

 

花か!

 

神野と三守は揃ってはた、と手を打った。

 

「いつも家や邸に籠ってばかりの女人がたです、野に咲く花を贈ってあげると気が晴れやかになると思います」

 

とそこまで言って鷹戸は、差し出がましい事を言ってしまったかな?と思ってますます畏まって身を縮めた、が…

 

「よし、鷹狩りの帰りに出来るだけ伴の者で手分けして花を集めるぞ!三守」

 

「はい、親王さま!」

 

と鷹狩りならぬ花摘みの方向に話がどんどん進んで行き…

 

「そこの鷹戸よ、お前はよい事を言った。後で褒美をつかわそう」

 

「は、ははーっ!」

 

と喜んで鷹戸は額を地面にこすりつけた。

 

「但し、お前も花摘みに参加してもらうからな」

 

自分はやはり余計な事を言ってしまったのかもしれない。と鷹戸は強くなり始めた陽射しのもと、軽く後悔しはじめた。

 

 

こうして鷹狩りに随行した三守はじめ随行の男たち総出で神野の指示で花と枝を集め、こうして水盆に生けて持って来させたのだ。

 

と嘉智子に切々と語る神野の様子と、夏の陽射しのもとで、汗を流しながら花を探す様を想像し、嘉智子はつい口元を覆って、

 

吹き出してしまった。

 

その笑顔を見て神野は、今この瞬間十六年生きて来て最上級に嬉しかった。

 

「ああ…やっと笑ってくれた。嘉智子、あなたは宮中に来て一度も笑っていない」

 

そう夫に指摘され嘉智子は不意を衝かれ、はっと目を見開いた。

 

「宮中に来て、私の妻になって倖せではないのだろうか?といつも案じていたから」

 

「わたくし、ほとんど自室の外から出してもらえずに育ったので、嬉しいとか、悲しいとかあまり解らないのです」

 

嘉智子が父の遺言で一室に籠められて育った、と昨日明鏡から聞かされたが、

 

それは、監禁されて育ったということではないのか!?

 

私の元に入侍した女たちは、ほとんどが実家の出世のために皇嗣になるかもしれない皇子か皇女を産むために送り込まれた。

 

「神野よ、各氏族の娘たちと契り、姻戚関係になって政治を盤石にするのも一つの政策なのだ。

自分の元に来た娘たちも子を産んで天皇家の血を絶やさぬための道具なのだ」

 

と父帝のように割り切ってしまえるほど、自分は冷徹になれない。

 

「嘉智子よ、嬉しいと心躍るときは素直に笑って、気持ちが沈んだらそのまま沈んだ顔をしていればよいのだぞ。

私の前では、許す。この厨子の仏像のように」

 

と神野は急に立ち上がり、嘉智子が実家のから持って来た厨子の扉を全開にした。

 

それは急に羽ばたいた鳥のような素早さで、嘉智子が止めるいとまも無かった。

 

中に安置されていたのは、くすんだ金色の垂髪の観音像だった。神野の手のひら程の高さしかない小さな仏像。

 

「随分古い像だな…だが美しい。垂髪にした姿はあなたに似ている」

 

「それは百済渡りの像で、曽祖父の代からの家宝ですの」

 

嘉智子は仏教に関する話になると、急に生き生きとした表情になる。

 

「曽祖父って…では橘諸兄の宝か!?」

 

「はい」

 

これはものすごい価値の仏像ではないのか?いけないいけない、仏の前で俗な想像をしてしまった。神野はかぶりを振った。

 

「いくら大事なものだからって、こうして閉じ込めて隠してばかりでは本来の仏像としての役目が果たせぬのではないか?

姿を見せるためにこの像は像としてここにあるのだ」

 

と言って観音像に手を合わせる神野の云わんとすることが、嘉智子には解る。

 

実家に籠められて育ったあなたは、この厨子の像と同じだ。不遇の橘家に育って辛さやひもじさを紛らわすために仏道に頼って来た。

 

でもあなたは木や銅で出来た像ではなく、人なのだ。あなたはあなたらしくしていればいいのだ。と言われた気がして、

 

急に胸を衝きあげる感情のまま、嘉智子は神野の肩に顔を埋めた。

 

「わたくし…ほんとうはずっと寂しくて、たまらなかったのです。大きくなったら宮中に入って貴いご身分の方に気に入られなさい、罪人の家と言われる橘家を盛り返すのだ。と母に言われて育ちました。

遊び相手も姉しかいなくて、ずっとお腹も心も、ひもじかった」

 

神野の肩で、嘉智子はしばらくすすり泣いた。やっと、やっと自分は人前で感情を露わにすることが出来た…

 

親王さまに背を撫でられる毎に沸き上がる、甘い疼きにも似たこの感情は何なのだろうか?

 

嘉智子がしばらくして泣き止むと神野は立ち上がり、「今宵は高子と約束があるから」と済まなそうに言って部屋を出て行ってしまった。

 

分かっている。親王さまがいらっしゃるのは三日に一度、と。今日はは多治比高子さまと閨を共にする日だ、と。

 

「どうぞいってらっしゃいまし…」

 

と妻の一人として別の女人のもとへ向かう夫を見送った時、嘉智子は、

 

ああ…わたくしは、本当に親王さまが好きなのだ!

 

と神野と結ばれて八か月めでやっと自分の、夫への愛情を自覚した。

 



 

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