第17話 菜摘17 明星
土州(高知県)室戸岬から見える水平線に橙色の夕陽が最後の煌めきを放って沈み、青鈍色の空に一つ、宵の明星が瞬く時、智泉は
ああ、またこれで一日が終わるのだな、叔父上は今日も生きながらえました。
と感謝の気持ちいっぱいで明星に手を合わせるのだった。
このかぞえで十一になる童子は後に菅原道真を輩出する菅原氏の男を父に、真魚の姉を母に持ち、何の疑問もなく成長したらお前は僧侶になるのだ。
と言われ続けて九歳になると大叔父の阿刀大足に手を引かれて大安寺の勤操のところに預けられた。
そこで、智泉は叔父の佐伯真魚に引き合わされたのだったが、第一印象はなんて険しい顔つきをした人なのだろう!と恐ろしくなって勤操和尚の背後に隠れたい気持ちを抑えて叔父に正対したのを覚えている。
荒行を終えて吉野の山から降りたばかりなのだから勘弁してやってくれ、と勤操和尚は後で泣き出した自分を慰めてくれた。
が、七日程経つと叔父の表情から剣呑さが消え、女人のような柔和な顔つきになられた。
これが生来の叔父上だったのか、と驚くと同時に人相まで変えてしまう荒行とは何なのか?
どうして叔父上はどこの寺にも属さず、十年近くも自分を痛めつける修行を続けなさるのか?
と智泉は夜空の星に背を向け、巨大な巌を波がくり貫いたと言われる二つの洞窟の、右側の奥で真言を唱え続けている叔父の夕餉の支度をせねば、と左側の洞窟に入ってもう慣れた仕草で火を焚き、鍋に水を入れて海藻で出汁を取って塩味を付けた粥をこさえた。
もうそろそろ今日の行が終わる頃だ…
「智泉」と小柄な体躯がやせ細って髪も髭も伸びきった叔父、佐伯真魚がゆらり、と数珠を片手に入って来た。
叔父が粥をすすっている間に智泉にはやるべきつとめがある。
叔父が籠もっていた隣の洞窟に入って積み上げられた石がちゃんと百個あるかきちんと数えると智泉は叔父の元に「ありました」と報告する。
粥を喉に流し込んだ叔父がうん、とうなずいて木の器に汲まれた水を一気飲みしてから「ご苦労さん」と微笑む。
これでやっと、智泉の一日は終わるのだ。
一日一万回、短い真言を唱えそれを百日続けて百万回で満行とする究極の荒行、
と山の庵に住む老僧に教えられたのだという。
旅立つ時勤操和尚に
「お前が真魚の行の見届け人になってやってくれ。血のつながりののあるお前が傍にいればあいつも心強いはずや」
と言われ、夜も昼も波音轟くこの岬までやって来た。
叔父は、洞窟に入って座るのに丁度よい平たい岩面を見つけると、はじめる、とも何とも言わずにいきなり
「のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか」と真言を唱え出し行を始めてしまったのだ。
百回唱えたら石を一個置く。
という決め事は聞かされていたので智泉は慌てて外に出て、積むのに手頃の大きさの小石を持参した籠に集めて叔父の傍に籠ごと置いた。
こうして佐伯真魚としての最後の荒行が始まったのである。
最初のひと月はひどいものだった。行に集中しすぎた叔父は夜も眠れず、神経が高ぶり続けて口にしたものほとんど吐き出してしまう始末だった。
中断させないと死んでしまうのではないか?
と胃液を吐く叔父の背中をさすりながら智泉は「ご無理をなさってはいけません…」と何度も懇願したが、
それでもこの方はやめないのだ。と智泉には分かりきっていた。
二か月目に入ってやっと叔父は時々外に出て、陽の光を浴びて青く濃く広がる風景をぼうっと眺めてたり、体を動かしたりして「頭を休め」出してからは夜も熟睡するようになり、
食事も戻すことも無くなった。
自分の傍で突っ伏したまま眠る叔父の傍で智泉もまた横になって眠ることにした。
夜明け前に叔父は起きだし、また行を始めるのだから。
きょうで七十日めが終わり、あと三十日でこの長く苦しい行が終わる。
眠りに落ちる直前にいつも智泉は祈る。
明星よ、叔父上をお守りくださいませ…
のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか
のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか
真魚の意識は、硯の中に墨を何個ほども溶かしいれたような濃縮された闇の中にあった。
ただ座って一つの真言を百日間続けて唱え続ける苦行は瞑想という生易しいものではない。
胸の息を振り絞って声帯を酷使して真言を唱え続けていると、腰を下ろしている尻の方から脳天まで激痛が走る。
轟轟たる波音が自分の籠もる窟に耐えず押し入っては鼓膜を震わせ、せっかく唱えた真言がばらばらに砕け散ってしまうような錯覚に何度も陥った。
時折、行の最中に鳩尾のあたりが割れて、すうっと自分の中の奈落に堕ちそうになる精神の危機を感じた時は、
わざと唇を噛み、痛みで意識を保つ。
それでも足りない時は窟の中の岩壁に拳や額を打ち付けてまで自分を痛めつけ、行を続けた。
外に出て、海に向かって咆哮を上げて我を叱咤する自分を見て、
叔父は気がふれてしまったのか?と智泉は怯え、泣きじゃくって何度も行を止めるよう懇願した。
が、止める訳にはいかない。わしは行を終えた後の、この世の景色を見たいのだから。
朝晩の粥と、一日二時(四時間)程の睡眠の時だけ真魚の意識は行から解放されるのだった。
眠っている時に真魚は細切れに過去の記憶の夢を見た。
故郷から都へ向かう船の舳先にぶつかる波飛沫がきらきら輝いている。
平城京の市場で自分を蹴りつけ、罵る東大寺の僧たち。
叔父や勤操からの出家の催促を拒み続けたのは、あんな汚らしい者たちが国家鎮護のために仕えている現状に絶望したからや。
朝廷のお役に立つのだ、と自分を叱咤する叔父、大足の声。
疫病で河原に積み重なる骸、とどめを差すように洪水が家屋を人びとごと流してしまう長岡京の凄惨な光景…。
現世とは、人生とはなにか悪意のある巨大な存在が人びとの心に「苦」だけを映し続けている無意味な幻なのかもしれない。
そう思い詰めた夜、自分は旅に必要な荷物だけを持って大学寮を出奔した。
山中をさすらった果てに出会った老僧と一夜語りをし、そこから仏教の魅力に取りつかれたのだ。
戒明さま。
不遜な私度僧、佐伯真魚は告白します。
あなた様の教えを請い、十年間も荒行の人生を続けてきたのは、
仏教がどの学問よりも面白かったからです。
のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか
のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか
みほとけの教えの中にこの世の人びとから悪意と絶望を取り除く答えがあるかもしれない、とあらゆる行を繰り返しては満足のいく答えを得られませんでした。
のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか
しかし、この行を続けてみて気づいた事があります。
自分もまた、市井の人間地獄を飛び出して山林に逃げ込んだだけの、臆病な男に過ぎなかったのです。
のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか
のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか
自我さえも奪われそうになるこの行で、自分は仏教を舐めていた事に気づきました。
あと一回で、百万回。
「のうぼうあかしゃ ぎゃらばや おんあり きゃまり ぼうそわか」
最後の石を置いた直後、真魚は自分が具体的に何をしたかはあまり覚えていない。
甥の智泉の話によれば、自分は光を求めるように洞窟から外へ飛び出して、
何か叫びながら失神してしまったのだという。
本当は満行した瞬間、現実も自分の内も、何も変わらなかった。ということに失望しきって錯乱してしまったのだ。
気絶している間、闇の中に明星みたいな光がこちらをうかがうように、
入ってもいいか?
と質問したので自分は
「好きにさらせ」と自我さえも投げ出して答えた。
その途端、光が口の中に飛び込んだ。そんな夢を見た。
智泉に水を何度も掛けられて、自分は意識を取り戻したようである。
「わしは満行したか?百万回唱えたか?」と智泉の両肩にかじりついて聞き出そうとし、とっくに石が百個ある積まれていることを確認していた甥っ子の口から、
「…はい、叔父上は虚空蔵求聞持法を満行なされました!」
波音がざざん!と耳奥まで響いた。
とにかく自分は、百日の苦行から解放されたのだ。
真魚は丸三日間、飽きるまで空と海の色の移り変わりを見つめ続けた。
「相変わらず、空と海しかないなあ」と繰り返し呟きながら。
三日目の昼下がり、真魚は自分の足元でうごめく小さな生き物を手のひらですくい上げた。
それは、ここ室戸岬に来て初めて見る、指先に乗る程の蟹であった。
「山から降りて来た蟹です」
と百日居続けてこの地に詳しくなってしまっている智泉が真魚の手のひらを覗き込んで言った。
その瞬間、真魚は悟ったのだ。
この小さな生き物を救い上げるも、踏みつけて殺すもその人の「こころ」次第。
全ての人には「こころ」が宿っており、
こころこそ、仏性で、全ての衆生には仏性が宿っているのだと。
ふと目を上げると雲ひとつ無い空の青と海の青が光を孕んで真魚の視界に迫って来た。
ああ…皆が皆、光を浴びながら存在しているのに、人間だけがそれに気づかずにいる。
十年修行してやっと気づいたなんて、自分は阿呆や。
こみ上げてくる感謝と可笑しさに耐えきれず、蟹を逃がしてから真魚はひとしきり泣き笑いをし、
やっと荷物をまとめて立ち上がると
「智泉、わしはこれから空海と名乗るぞ」
と自分で自分に法名を付けて室戸岬を後にした。
延暦十九年(800)年の春の終わり、
真魚、空海と成れり。
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