第16話 菜摘16 撫子
「今のお前と同じように私を嗤った者が居た…うん、もう死んだから言ってもいいだろう」
「どなたで?」
和気清麻呂。とぼそっと去年死んだ忠臣の名を呟いて桓武帝は息を吐きながら肩から全身の力を抜いた。
「あいつは事件の全ては私の謀だと見抜いていた。種継暗殺の報を聞いて山背国から戻って来たあいつは、醒めきった目で私を見ていたよ」
「たしか清麻呂さまは種継さまと同期で徐爵(従五位下に叙されること)されましたね」
延暦四年九月二十八日(785年11月8日)、早良親王、憤死。
の報を知らせた使者が桓武帝の前から辞した後で、傍らに控えていた清麻呂が呟いた。
「ご兄弟の死に顔色一つ変えないのですね」
「四年前まで会ったことも無かった弟に情愛を抱ける筈がない」
と正直な気持ちを桓武帝は吐露した。
今、夜御殿には清麻呂と自分しかいない。種継暗殺からひと月が経ち、清麻呂の胸の内を確かめるのは今しかない、と桓武帝は思った。
「清麻呂、朕を軽蔑しているか?弟までも殺した朕に、愚かにも程がある。といつもの皮肉な口調で言いたくないのか?」
とんでもない、と清麻呂は首を振りながら答えた。
「むしろ帝にしてはよくおやりになった、と思っています。やらなければ骸になっていたのはあなたの方ですから」
清麻呂は若い頃から思った事を率直に言い、そのせいで女帝の不興を買い流罪にされた過去もあった。
桓武帝は清麻呂のその気性を好ましく思い、即位後は彼を重用した。
「清麻呂…朕は、どうすればいいと思う?」
「どうすれば?と問うのは笑止!」と清麻呂は肩を揺すって笑った。
「あなたはこの国の帝なんです。ご自分の思うようになさればよろしいじゃありませんか?
まずはご子息の安殿さまを立太子させれば貴族たちの混乱は収まりましょう…
これで、藤原氏に押さえ付けられていた他の氏族も出世しやすくなる。
まああなたがそこまで考えて事を起こしたとは誰も思っちゃいませんが」
「貴族たちは肚の内ではどう思ってるだろうな」
「みんな命が惜しいから口には出しませんが、凡夫だが、時々独断で思い切った行動をなさるというのが貴族たちの帝への評価です」
凡夫か、確かにその通りだ、と桓武帝は頬を歪めて自虐的な笑いを浮かべた。
「あなたは誰も何も、神仏も信じちゃいないんでしょう?私みたいに」
清麻呂の最後の一言に桓武帝は衝撃を受けた。
宇佐八幡宮で神託を受けて僧道教の野望を退けた清麻呂が、
神を信じていないだと?
「道教から買収された宇佐八幡の巫女の猿芝居を見てね、私は何もかもが馬鹿らしくなりましたよ。ああ、この世に神なんていない。
全ては虚像で、みんな虚飾をありがたがっているだけだってね。
私はその場で帝位は皇統に受け継がれるものである。と正論を述べただけです。それが神託だと信じたい者が信じてればいいんだ!」
持っていた
「この気持ち分かりますか?帝。その時から生きていて何一つ面白くなくなったんですよ…むしろ流刑先の大隅国(鹿児島県)で死に果てたほうがましだった。
それが、あなたの父光仁帝に政治の中枢に呼び戻され、息子のあなたが即位した…
私はね、藤原家の傀儡ではなく自分の意志で
種継の死で朝廷はあなたの思うがまま。この清麻呂また生きる望みを取り戻しました。
安心してください。凡夫でも意思のある帝に身命を賭してお仕えします…」
冠からはみだした白髪を整えて清麻呂は先程の非礼を詫びて恭しく拝跪してから立ち上がって桓武帝の前から去ろうとする時一旦振り返り、
ああそうそう、ととんでもない進言をした。
「あなたがこれから起こす失政や天災全てを死んだ早良さまの御霊にせいになさってはいかがです?
祟りだと思えば臣も民も諦めがつくはず。そうですねえ、祟道天皇とでも諡号を贈ってお祀りしますか…」
この清麻呂の進言が、後にこの国における御霊信仰の始まりとなる。
清麻呂さまもまた絶望に満ちた心で生きていらっしゃったのか。
息を引き取られる時の清麻呂さまの胸に去来していた感情は虚しさか、それとも一縷の望みか?
それは死んだことの無い自分には解らぬ感情である。
そして、桓武帝の懺悔めいた告白を聞いた自分は生きてここを出られぬ、と戒明は覚悟していた。
「拙僧をここまでお呼びになった訳は?」
「二十年ぶりの遣唐使の話はお前の庵にも届いているだろう」
「はい」
「お前を迎えに来た藤原葛野麻呂をな、遣唐大使に任命しようかと思っている」
「身の丈大きく、美丈夫で堂々としていらっしゃる。あの方なら適任かと」
「葛野麻呂はじめこれから選抜される遣唐使たちに、お前から唐の実情を色々と教えてやって欲しいのだ。
お前が唐で学んできたことを生かす時だぞ、もう隠棲生活はやめて大安寺に戻れ。奈良の高僧たちには私が何も言わせん」
は、それはありがたき幸せ。と戒明は素直に頭を下げた。
「忙しくなりそうですなあ。当分は都と奈良を行ったり来たりになりますか?」
「まあまずは休んでから葛野麻呂の邸宅に行って唐でのしきたりなどを教えてやってくれ。
それから大安寺で思うように弟子を教育して新しい考えを僧どもの古ぼけた頭に植えつけろ」
戒明は考え込むふりをしてみせてから、桓武帝を上目遣いで見て言った。
「これは、と思って庵で講義している弟子が何人かおりましてな。まだ若く未熟でものになるにはあと二、三年かかります」
「こいつめ遣唐使船に弟子を乗せるつもりだな!」
桓武帝は本当に愉快な気持ちで高笑いした。そして、真剣な顔になって
「最澄をどう思う?」と自分が寵愛する若き僧のことを戒明に尋ねた。
「まだ会ったことが無いのでどうとは言えませんが…あの潔癖さは美点で欠点でもある。というのが奈良の僧たちの評判です。
最澄一人では…いずれ潰される事もあるか、と」
やはりそうか、と桓武帝はひとつうなずき「朕は最澄を手元に置いておきたいのだが…清麻呂め、『最澄を唐に行かせろ』と倅の広世(和気広世)に遺言を残しおった。最澄の代わりにあれの弟子かお前の弟子を唐に行かせたいのだが」
「ひとり、乗せたい若者がおります」
「お前の推薦なら余程優秀なのだろうな、名は?」
「まだ修行が完成していない私度僧ゆえ」
藤原種継暗殺の実行犯として斬首された者に、
夜が明けて、朝議が始まる前に戒明は宮中を辞した。
田村麻呂の手に掛かる寸前、崖から飛び降りずに逃げようとした娘は最後まで生きようとした。と戒明は今でも思いたい。
あの大伴娘の眼差しは一縷の望みに輝いていた。そして虚しく日々を生きていた清麻呂さまでさえも、最期は若い僧に希望を託してお逝きになられたのだ。
最後の一息まで望みを捨てないのは、やはり美しい、と思って戒明は牛車に揺られて都大路を下った。
傍系の皇統に生まれた故、私は幼き頃飼い殺しの状態で育った。
そんな私に「せめて学問で身を立てなさい」と助言をくれたのは時の天下人、橘諸兄さまであった。
私は努力し大学頭にまで出世した。全ては人間の努力と行いで世は動いて行くのだ。
神だの仏だの、姿を見せてくれないものに額づくのは、馬鹿だ。
と思っていたそんな時だった。周りの皇族がほとんど謀殺されて私に皇位が転がり込んで来たのは。
皇統、皇統…!私の人生を振り回したのは、全て皇統だった。しかし、私の代で天皇家を盤石にせねばならぬ、と努力したつもりだった。
そのために都を移して物理的に仏教集団から離れ、反対する者は弟でも殺した。天皇家を守るためなら地獄に堕ちる覚悟で何でもした。
自分が犯した罪は死ぬまで口をつぐむつもりであった。しかし、最愛の息子神野の邪気の無い一言で私は恐れ慄いた。
戒明に罪を告白しなければ、私は正気を保てなくなっていた。
今ここで認めよう、全ての人間の過ちを調律しようとする「目に見えない力」の存在を。
と桓武帝がきっかり目を開けた時、咲くにはまだ早い撫子の花を持ったある貴人の幻影がこちらを見ていた。
誰だ?顔は白く輝いて判別できないが、彼が詠んだ歌でその正体が分かった。
和我勢故我 夜度能奈弖之故 知良米也母 伊夜波都波奈尓 佐伎波麻須等母
我が背子が、宿のなでしこ、散らめやも、いや初花に、咲きは増すとも
大伴家持さま!
十五年前の疑獄事件の罪を、桓武帝はすでに死者であった大伴家持に擦り付けた。
「若い頃良くしていただいた恩を仇で返してしまいました…可能ならあなたに問う。どうすれば罪を償えるのか!?」
それ以上何も答えずに幻影は消えた。桓武帝はしばらく呆然としてから、歌に全ての意味がある、と思い至った。
まずは、橘氏に償え、と?撫子とは家持が仕えた主人、橘奈良麻呂を指している。しかしどうすれば…
そうだ、奈良麻呂には年頃の孫娘がいた。
「神野と奈良麻呂の孫を婚姻させよう」
と桓武帝は心に決めた。朝議の後で姻戚の藤原内麻呂に話をせねば。自分の死後の遺志もはっきり明文化しなけらばならない。
子らの将来の安堵も、安殿の次の皇太子はやはり…
「朕には生きている限り、やることが沢山ある」
朝の支度をする女官たちの衣擦れの音が近づいてきた時、桓武帝は顔に鋭気を取り戻していた。
翌年の夏、橘嘉智子は同い年の親王、神野の元に入侍する。後に、嘉智子は橘家出身で唯一の「国母」となる。
六年後、桓武帝が崩御し安殿親王こと平城帝が即位してすぐ行ったのが、大伴一族の名誉回復と政治への復権、万葉集の禁書指定解除である。
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